第35話
「一時はどうなるかと思ったが」
朱寛は彼方に去りつつある火影を見やる。
クモミズの仲間たちが逃げていくのだ。
襲撃のさいは闇夜に紛れるため無灯火だったが、逃げるとあっては互いにはぐれないように、かがり火を焚いている。
先ほどまでの阿鼻叫喚が嘘だったかのように、美しい景色にそれは見えた。
「被害はどうなっておる」
朱寛が問うと、
「沈没した船が一隻。船底に穴をあけられ、向こうの島に強制的に座礁させた船が二隻。
大した数ではないだろう。
所詮は数十人ほどでの奇襲攻撃。
大事には至っていない。
だが――
忌々しげな眼差しを、朱寛は船べりにもたれるようにして座る男に向ける。
死んではいない。気絶しているだけだ。
「いかがいたしましょう」
子龍が問うと、造作もなく指示する。
「殺せ」
もともと殺さずにいたのも、自分には生殺与奪権はないと王震が放り出したからにすぎない。
「はっ」
兵士が槍を手にクモミズに近づく。
その王震はというと、仕事は済んだとばかりに、また船倉にこもっている。
「朱寛さま、船が」
見張りの兵士が声を上げる。
「なに」
また新たな敵か。
満天の星空のもと、西の方にかすかな船影が見える。
向こうも、こちらの凧のかがり火を目当てにしているのだろう。
「待て、殺すな」
クモミズの処刑を先延ばしにすると、
「我が方の船のようです。使者船かもしれません」
「使者か」
朱寛は嫌な予感がしてつぶやく。
わざわざ船が仕立てられるからには、皇帝の発した使者であることは間違いない。
あまり評価の高くない自分である、今度はどんな無理難題を押し付けられるのか。
案の定、それは使者の乗り込んだ船であった。
見たことのない男だったが、皇帝の言葉を奉持している以上、丁重に扱わなければならない。
甲板上に朱寛たちはかしこまると、
「謹聴せよ。陛下はこの度、西域への親征を発表なされた。数か月中に実行に移される予定である。よって、琉球へのこれ以上の兵の増援はあり得ぬ。正式な軍による琉球遠征は、来年度、いずれかの将軍に兵を預け、行われる予定である。その将軍位の人選はいまだ未定である。陛下は朱寛どのと子龍どのへ、さらなる発奮を期待する。しかしその期待が裏切られた場合は、お二方の隋水軍内での地位にかかわるでしょう」
つまりは体のいい脅しだ。
子龍は唇をかむ。
「さらに命ず。謀反の疑義によって、何蛮を即刻、処刑せよ。並びに何蛮水軍の解散を命ずる」
「な!」
子龍は絶句する。
たしかに何蛮の謀反を皇帝に進言したのは自分だ。
だがこのタイミングでとは思っていなかった。
「なんじゃと、何蛮を処刑じゃと!」
朱寛が狼狽えて叫ぶ。
「しっ!」
黙らせるが、遅かった。
「何蛮さまが処刑……」
「何蛮水軍はどうなる」
「俺たちの居場所は……」
隋水軍の旗艦とはいっても、それを実際に動かしているのは、長年海に慣れ親しんだ何蛮配下の海人たちである。
いまだその忠誠心も衰えていない。
そんな状況で何蛮の処刑を命じれば、どうなるか、火を見るよりも明らかだ。
不安と憎悪の入り混じった視線が、朱寛と子龍に向けられる。
本国に戻れば圧倒的な地位の差がある自分たちと、海人だが、ここでそんなものは通用しない。
「お、王震、出てこい!」
「なんですか、また仕事ですか」
王震がのそりと姿を現す。
「よいか、ワシから一瞬たりとも離れるなよ」
王震に命じておいて、今度はおのれの頭脳たるべき子龍に向き合う。
「どうすればいい」
水夫たちに聞こえないように、朱寛は小声で問いかける。
「どうするもなにも、陛下は我々を試しておられるのです」
子龍としても気が気ではないが、ここは虚勢を張るしかない。
「試す?」
「陛下は陸兵の府兵制度を海軍にも持ち込もうとしておられるのでしょう。それには、いかにも何蛮の私軍が邪魔です。その解体と再編を、我らは託されたのです」
「こ、ここでか? 今?」
朱寛の戸惑いは、子龍の戸惑いでもある。
己は陛下から可愛がられていると自負していた。
甘かった。
一歩間違えれば、ここにある隋水軍は仲間割れで全滅するだろう。
しかしそれは楊広にとって痛くも痒くもない事態なのだ。
成功すれば良し、失敗しても、かつて己に歯向かった何蛮水軍が海の藻屑となるだけ。
どうすればいい。
考えろ。
水夫に謀反を起こされることなく、何蛮を処刑する方法。
この死線を乗り越えてこいと、陛下は仰っているのだ、子龍よ!
子龍は気絶したまま船縁にもたれかかる異国人に気づく。
子龍はニヤリと笑むと、
「朱寛さま、策があります」
「な、なんだ、申せ」
「なにも我らが直接手を下す必要はありません。殺させるのです。倭人に」
「そ、そうか! よう思いついた!」
喜んでおいてから、すぐに朱寛の表情は曇る。
「しかし、大丈夫か? 何蛮も、王震ほどではないが、かなりの使い手だぞ。死にぞこないのこいつで……」
「囮に使えばよろしいのです。一人や二人くらい、こいつよりも強い倭人はおりましょう」
「なるほど」
――イサフシさんだ。
クモミズは最前から意識を取り戻していた。
気絶したふりを装いながら、朱寛たちの会話を聞いていたのだ。
――俺より強い倭人。それは、イサフシさんしかいない。
クモミズの頬を涙が伝った。
すべてはおのれの軽挙が招いた事態だ。
自分が捕虜にされたと聞けば、危険をいとわず救出に来るだろう。
――俺みたいなバカは、見殺しにしてくれてもかまわないんだ、
それでも、イサフシは来るだろう。
そう思うと、クモミズの涙は止まらなかった。
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