第5話
イザヤはそろりと片膝立ちになって右手を構える。
と、不意にその右手をスナップを利かせるように上下に振った。
「うわっ」「きゃっ」
確かに腕を振っただけのように見えた。
しかしコイチとハルの間の空間を、何かが擦過していった気配がした。
見えない何かが空気を切り裂いたのだ。
それが気のせいでなかったのは、チューちゃん(ハル命名のネズミ)が逃げていったのでもわかる。
思わず目を閉じていたコイチとハルが、次に目撃したのは、空中に浮かぶ蛇だった。
「うわっ、ハブ!」
酒杯でも持つようなかたちのイザヤの右腕の上で、毒蛇がユラリユラリと揺れている。
「う、浮いてるぞ」
「ハブ、毒蛇ですよ」
「毒があるのか? 鼠を狙っていたんだ」
なんでもないようにイザヤは蛇の死骸を藪に放り捨てる。
「すっげー、どうやったんだ、それ。魔法か? 秘密の武器か?」
コイチは目を輝かせてイザヤの右手に飛びつく。
「これはな、内緒だ」
「なんだよ、ケチ。俺にも教えてくれよ、なー、なー」
種があるのか、仕掛けがあるのか、コイチは必死にイザヤの右腕を探るが、イザヤはすげなく話題を変える。
「だけど毒蛇がいるのか。これからも何があるかわからんな。そうだ、ハル、コイチ、出発を一日延ばして草を摘んできてくれ」
「草? 何するんですか?」
「薬草だ。といっても簡単なものしか作れないだろうが、無いよりはましだろう」
「薬草といっても」
「適当に摘んできてくれればいい。わたしにある程度の知識がある。土地は違えど、大体の見当はつくはずだ」
「俺、薬草なんかより武器がいい。おっちゃん武器造れないのか? ハブなんかよりもっと怖い敵が現れるかもしれねーだろ」
「武器といってもな」
「いいよ、なんか役に立ちそうなもの拾ってくる。そしたらそのうち右腕の武器の秘密も教えてくれよな」
返事も聞かずコイチは駆けていく。「待ってー」とハルも遅れじと続く。
「まったく」
イザヤは苦笑いする。
右袖に仕込まれた武器。
それは目にも見えないほどの極細の剣なのだ。
それで刺されても、刺し傷は痛点を外れ、相手は痛みすら感じない。
ゆえに武器としては使いどころが難しいのだが、威力を発揮するのはある特殊な任務においてだ。
暗殺。
対象と相対し、にこやかに会話している最中に心臓を一突きにする。相手は蚊に刺された程度にしか感じない。
だが体内では確実に内出血が進行する。
暗殺者が標的から離れ、安全地帯に逃れたころ、出血多量で死に至る。
製法はもはや不明だという。遥か古から伝わる、世界にひと振りだけの究極の暗殺剣。
〈神の子殺し――すなわち厩戸で生まれた救世主を探し出し、確実に殺す〉
暗殺剣を授けられ、この任務を命じられ、イザヤの先祖たちは旅に出たのだ。
とイザヤが視線を落とすと、鼠が立っていた。
「うっ」
蛇から救ってやったのを感謝しようとでもいうのか、つぶらな瞳でイザヤを見つめてくる。
コイチたちがいる前では何気なく振舞っていたが、実はイザヤは鼠が大の苦手だった。
怖い顔をして見せると、鼠はちょこんと頭を下げて、ハルのあとを追っていく。
「まずいな。わたしも鼠語をおぼえてしまいそうだ」
しばらくしてコイチとハルが戻ってきた。
ハルは両手いっぱいに草花を抱えているが、コイチは手ぶらだ。
「武器になりそうなもの、なんにもなかった」
「そう気落ちするな、ほら、作っておいてやったぞ」
「えっ! マヂ?」
コイチが目を輝かせるが、イザヤが取り出したものは巨大な貝に棒切れが付いただけの、何とも言えない代物だった。
コイチは露骨に落胆する。
「なんだ、貝斧じゃないか。俺の村じゃそんなの、めずらしくもない」
「そうなのか、異様に硬いぞ、これ。貝というより、岩だ」
イザヤは赤ん坊の頭くらいもある貝殻をコンコンと叩いて見せる。
思いっきり殴りつければ、人間の頭蓋骨など粉みじんになりそうな気配がある。
「シャコ貝ってんだ」
「ふーん、まぁ、当分はこれで我慢しろ」
「ちぇっ」
しぶしぶ受け取るコイチだった。
「ハルの方は?」
ハルはドサッと草花を積み上げる。
イザヤが一本一本形状や匂いを確認するが、その表情はさえない。
熱さまし用の薬なら、最初の日にハルの病気を治すために見つけていたが、他にも解毒や、止血、腹下し用くらいは用意しておきたい。
「どう?」
「うーん。なにしろ土地も気候も違うからな。春には申し訳ないが、全部ただの雑草だろう」
「そう、残念」
ハルが落ち込んでいると、チューが一本の植物を咥えて戻ってきた。
「お前も薬草探してきたの? えらいねぇ」
ハルが取り上げたその蔦植物を見て、イザヤはあっと声を上げる。
「まさか、ウェルベナ(熊葛)か! こんな世界の果てにまで……」
「なんだ、そんなすごいのか?」
異様に興奮するイザヤに、コイチたちも期待を膨らませる。
「薬草なんですか?」
「あぁ、もちろんだ」
見た感じはただの蔦性の草にしか見えない。
「どんな効果があるんだ?」
「そうだな、まずは不眠予防、鎮静、下痢止め、そして月のものを促す作用がある」
通経薬ということだが、10歳のコイチには意味が分からない。
「まぁ、分かりやすく言うと、ハルを女性にする薬ってことだ」
「ハハ、なに言ってんだ、おっちゃん。ハルは最初っからオンナだろ」
「ふっ」
あくまでも真面目な顔のコイチに、イザヤは思わず吹き出してしまう。
「ふっ」
ハルもつられて苦笑いする。
コイチはようやく自分の勘違いに気付いたようだ。
「な、なんだよ、ふたりとも、俺のことバカにしやがって」
「まぁ、まぁ、これからいろいろと勉強していけばいい」
大人の態度でなだめられて、コイチはかえって顔を赤くし、プリプリと怒り出す。
「ほ、他にないのかよ、さっきのおっちゃんの驚きようじゃさぁ――」
「もちろんもう一つあるぞ」
「止血だ」
「へ? それだけ?」
「そうだ」
「なーんだ。てっきりもっとすごい効果があるのかと思ったじゃねーか。魔法が使えるようになるとか、空が飛べるとかさ」
「そんなことはないぞ。止血はあらゆる薬草の中で最も基本的かつ、大事なものだ」
コイチは不満顔だ。
「考えてもみろ、お前の〈大事なひと〉が目の前で血を流し続けているのに、それを止めてやれないなんて、こんな悲しいことはないだろ」
「うーん、確かにそうだけどさぁ」
と、コイチは意地悪気にニヤリとする。
「でもおっちゃんも隅に置けないな。おっちゃんの〈大事なひと〉って、これのことだろ?」
コイチは小指を立ててみせる。
だがイザヤはそれには目もくれず、どこか遠い場所を見るような目つきになった。
「大事なひとだ。直接お会いしたことはないがな――」
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