第6話

 レンガ造りの家の土間で、老婆が無心に薬研を動かしている。

 船形の石臼にはウェルベナ(熊葛)がひと房投じられ、薬研車の往復ごとに細かく磨り潰されていく。

 なにか宗教の儀式の一部であるかのように、老婆のしぐさは厳かだった。


 やがてひと盛りの止血薬が完成した。

 老婆はそれを大事に両手に掬うと、居ても立ってもいられないといった感じで家を出る。

 似たような日干しレンガの家々が並ぶ裏路地を過ぎ、城壁にうがたれた門から郊外へとでていく。


 掌中のものをこぼさないよう注意しながら、けわしい石切り場の坂道を登っていく。

 と、そこには何重もの人垣ができていた。

 武器を持った兵士も立哨している。


 そこに集う数百もの人々はある一点を見つめている。

 これだけの人がいるにもかかわらず、丘の上が沈黙に支配されているのは、彼らがある〈瞬間〉を固唾をのんで見守っているためだった。

 やがて群衆の幾人かがよたよたと丘を登ってくる老婆の姿に気づく。

 そしてその行為の〈意味〉を知ると、自然に人垣が割れて道が出来上がった。


 老婆は〈そこ〉に達すると、両手にしたウェルベナの止血薬を頭上高く差し出した。

 無駄とは知りつつ、なおもそうせざるを得なかったのだ。

 それは、そこに集った人々も皆同じだった。


〈それ〉はあまりに高かった。

 老婆が精一杯手を伸ばしても届かない位置。

 そこに傷口はある。

 槍で突かれた磔刑上のキリストの脇腹――。

 もうどれだけの血が流され続けているのか。

 じわじわと罪人を殺す、ローマ帝国の残酷な処刑方法なのだ。

 そしてまもなくその〈瞬間〉は訪れた。

 失血で死ぬ直前、イエス・キリストは少しばかり老婆の方を気に留めたようだったが、逆光になってその表情までは分からなかった。


 ラテン名―ウェルベナ。日本名―熊葛。

 エジプト、ギリシャ、ローマ、ペルシア、ケルト、名だたる古代文明でそれは聖なる植物として儀式に用いられてきた。

 その最たるものがキリストの止血伝説だ。


 イザヤが長い長い追憶から戻ってくると、コイチとハルはすっかり別のことに夢中になっていた。

「見て、見てー、こんな使い方もできるよー」

 ハルが蔦植物である熊葛を一振りすると、ヒュウッと軽快な音をたてて砂を巻き上げる。

「おぉっ、鞭か。しかも結構な威力!」

「うわー、全然ひとの話し聞いてなかったんだ」

 イザヤは人知れず流していた涙を、そっとぬぐう。

 ハルはすっかり夢中になって熊葛をビュンビュンと振り回している。

 不運な蟹がどこかへ吹っ飛んでいった。


「イザヤさん、あたしの武器、これにします!」

「薬草を探しに行ったんじゃ……」

「だけどさ、それ、止血薬でもあるんだろ? 敵を傷つけたいんだか、治したいんだか、よく分かんねー武器だな」


 ヒュン、ヒュン、ヒュン、ヒュン、ヒュン――

「ウへへ」

「ハル、顔が怖い」

 ラテン名―ウェルベナ。日本名―熊葛。漢名―馬鞭草。

 中国大陸での名称をみる限り、ハルの使用方法は、あながち間違いというわけでもないようだった。


                ☆ ☆ ☆


「だけど許せねーな、二人とも。俺のこと子供扱いしやがって」

 嵐で破損した船の修理もひと通り終わり、その最終確認の段階になっていた。

 ハルは食料の確保、イザヤは真水の水くみ。

 ということでコイチは、一人で船に乗っているのだった。

「おっちゃんはともかく、ハルは俺と同い年くらいだろ。そりゃー、俺より少しくらい背が高いかもしれねーけどさ。ブツ、ブツ……」


 一人になると沸々と怒りがわいてきた。

 今もって〈ハルが大人の女性になる〉ということの意味は見当もつかないでいるが、二人に教えを乞うつもりなどさらさらない。

『ほら、コイチさんってまだ子供でしょ。なーんにも知らないんだから』

『おねしょしてそうだもんな』

 そんな会話が聞こえてきそうな気がする。

「クソ、クソ、今に見てろ!」

 大人の男女のことなど、10歳のコイチからすれば遥か未来のことに属する。

 なので今は別のことで見返させなければならない。


『ワー、すごい、本当にコイチさん一人で修理しちゃったんですね♡』

『うむ、見直したぞ。このあいだは子供扱いして悪かった』

『フン。なんてこたねーよ。船の修理なんて、海に生きる男からしたら、当然だ』

『惚れ直しちゃいました、コイチさん♡♡』

 コイチの妄想は膨らむ。

「婚約者だか、コンニャクだか知らねーけど、今に見てろよ! グヘヘヘ――」

 不敵に高笑いしてコイチは振り返った。

「――へ?」


 島が豆粒のようになっていた。

 結んでいた縄が外れ、いつの間にか沖合に流されていたのだ。

「ウゲェェエ!」

 意味不明の雄たけびを上げるコイチだった。


 その頃、イザヤたちの島に近づく一艘の船があった。

 船員総出といった感じで十数人が舳先に立ち、海岸を見つめている。

 そこにはいそいそと作業を続けるイザヤとハルの姿があった。


「見~つけた」

 舌なめずりをせんばかりに言葉を発したのは、丸々と肥え太った女性。

「手間かけさせたねぇ、皮被りの娘!」


 何かただならぬ気配を察して、イザヤが振り返ると、船が接岸するところだった。

 コイチの家船とは比べ物にならない巨船。

「船……か?」

 本来なら喜ぶべき事態なのだが、警戒の念が先に立つ。

 それほど船からは不穏な妖気が立ちのぼっていた。


 数人の男が砂浜に降り立つ。

 と、すぐさまそのうちの一人が四つん這いになった。

 なんの行動かと思うと、その男は巨体の女が下船するための踏み台になったのだった。

 人間踏み台をつかって、ゆうに100㎏は超えていそうな女が島に降り立った。

 彼女がこの集団のリーダーらしい。

「久しぶりだねぇ、ハル」

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