第21話
子龍は一応優しくシコメを地面に横たわらせる。
驚いて声もないハルをよそに、裴洋を呼ぶと、
「裴洋、また頼まれてくれるか」
「嫌な予感しかしねーんですけど」
子龍がこういう時は、たいてい無理難題が降りかかってくる。
裴氏、河東郡の名門である。
のちの時代ではあるが、唐代には17人の宰相を輩出する。
通訳や外交官といった職務を得意とし、“絶域に通じたる家柄”とはそれに対する朝廷の評価である。
だが裴洋はその大族の中でも末葉に位置した。
裴洋の武器とするのは倭語であったが、同じ裴氏のなかでも、裴世清(隋書では裴清)がすでに文林郎となり、倭国の遣隋使への答礼使になるなど活躍しつつあった。
出世する親類の背中をみて、裴洋としても焦らざるをえない。
「で、なにをすればいいんすか」
「俺を裏切れ」
「げっ」
案の定、無理難題だった。
だが受けざるを得ない。
この上官も、自分と同じ、出世欲の権化である。
容姿に優れ、有能でもある。
当分は利用価値がある。
裴洋は、子龍の計画を聞かされた。
つまり、茴那と猪利祖を脱獄させ、このハルという小娘とともに何蛮のもとに走れという。
“嵐を操る能力”、その説明も受けた。
「奴は必ず食いつく」
「ですけど、理由はどうするんですか? 俺が、子龍様を裏切る、理由」
「自分で考えろ」
にべもない。
「はぁ、爺はなんていうかな」
本営に残してきた口うるさい守り役の顔を思い出して、裴洋はため息をつく。
「分かりましたよ。やりますよ。やればいいんでしょ」
「これが牢のカギだ」
すっかり掌で踊らされている裴洋である。
「ですけど、本当に信じてるんですか? 人が嵐を操るなんて」
「事実かどうかは関係ない。確固たる謀反の証、それが手に入るなら、俺は何でもやる」
おのれの野心を微塵も疑っていないような、子龍の力強いまなざしだった。
「勉強になりやす」
その日の夜半過ぎ、裴洋は茴那と猪利祖を脱獄させた。
もともとは何蛮の船に配属されていた裴洋である、何とか言いくるめると、ふたりは信じたようだった。
船を一艘奪い、爺とハルも乗せて、音もなく入り江を抜け出す。
☆ ☆ ☆
数日の航海ののち、急遽の脱出行だったため、真水と食料の補給に小さな島に上陸した。
「チクショウ、何蛮さまはどこにいるんだ?」
「この辺のはずだ。ここら辺の海域を調べるとおっしゃってたからな。“鳥籠作戦”のために」
「おい、軽々しくその言葉を口にするな」
「なんだよ、俺たちしかしねーだろ。こんな絶海の孤島で」
脳筋の猪利祖はともかく、茴那はまだあまり裴洋を信用していないようだった。
「大丈夫か?」
猪利祖は前日から高熱に苦しんでいた。
シコメ水軍との戦いで、矢を腕に受けた傷が原因らしい。
「水汲んできてやる」
まったく似てはいないが、双生児とあって、茴那が心配そうに島の奥へ走っていった。
「大丈夫ですか」
猪利祖に声をかけたのはハルだった。
言葉は通じないが、何となく相手の言わんとすることは分かった。
「縄はどうした」
逃げられる心配はないが、一応縄で縛っておいたのだが――
「チュー」
と声を上げたのは鼠である。
「お前の飼い鼠か。そいつに齧って切ってもらったのか。不思議な娘だ」
ハルがウェルベナ(熊葛)を取り出す。
身振り手振りで意思を伝えようとすると、裴洋が、
「通訳してやる」
「これ、薬草にもなるんです。キリストっていう、偉い人の血を止めた薬」
猪利祖は自分の右腕を見やる。
たしかに血がにじんでいた。
「俺たちは、お前をさらってきたんだぞ」
「でも、目の前で、人が血を流してるから、あたしは、それを止めてあげれるから……」
ハルはもどかしげに言う。
自分の気持ちを、うまく言葉にできない、そんな感じだ。
「分かった。頼む。でもいいのか?」
「いいんです。その辺にたくさんありますから」
猪利祖が右腕を差し出すと、ハルは満面の笑みを浮かべて、ウェルベナを磨り潰しにかかった。
とりあえずの“治療措置”を終えたころ、茴那が戻ってきた。
猪利祖が口を開く。
「なぁ、兄者。この
「おい、なに言ってんだ。いまさら」
茴那は猪利祖の右腕に薬草が巻き付けられているのに気づく。
そしてそれをやったのがハルであることにも。
「ちっ、なに
あくまで真剣な表情の猪利祖に、
「別に俺だってこいつをとって食おうってわけじゃねーよ。嵐を操る能力を利用しようってだけだ。それが終われば、家族のもとでも、なんでも、帰してやればいい」
「すまねぇ」
裴洋に通訳してもらい、ハルもペコリとお辞儀をする。
「何やってんだか、俺も……」
頭を掻く茴那だった。
「今日はもう休むぞ。そろそろ暗くなってきた」
☆ ☆ ☆
翌日。
「島が見えてきた」
コイチが手を庇にかざす。
「あの島に……」
ハルがいるのか。
船は相変わらず黒い手の潮に乗っている。
そしてそれは前方の島に向かっているらしい。
「あそこにわたしたちを連れて行こうとしているようだな」
どういう仕組みかは分からない。
だが、これが運命であるらしい。
「いいか、コイチ。仮にハルを見つけたとしても、すぐに突っ込んでいくなよ」
「分かってるよ」
「攫っていったシコメという女の集団は、恐ろしく強い」
「心配すんなって」
といいながら、貝斧を素振りするコイチである。
「まずは隙を窺うんだ」
「心配性だな、おっちゃんは」
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