第22話

 猪利祖がグルグルと腕を回してみせる。

「すっかり良くなった。ありがとよ、娘」

「娘じゃなくて、ハルって呼ぶ約束でしょ」

 10歳の女の子に叱られて、少し照れる猪利祖だが、

「兄者はどこに行った?」

「さぁ、水汲みじゃねーのか」

 裴洋が気のなさそうに答える。

 爺は焚火で魚をあぶって、朝食の準備に余念がない。


 背後の藪がガサゴソと鳴った。

 茴那が戻ってきたかと思い、振り返ると、180センチはあろうかという大男が立っていた。

 クモミズだ。


「隋の奴らだな」

「なんだ、貴様!」

「うえっ」

 裴洋がうめく。

 目の前の魁偉な男の顔貌と、腕をおおう入れ墨に見覚えがあった。

「こ、こいつ、宇文の部隊を一人で壊滅させた男だ」


 それを聞いて、猪利祖が武器を取りざま跳ね起きる。

「漢語、やはり隋か。あの船に乗っていたやつらじゃないようだが、隋人なら一人残らず殺さねーと、気が済まねえ気分なんだ」


 問答無用、といった気配で、クモミズは剣を構える。

 洞窟で隋兵の死体から奪った剣をそのまま使っていた。

「腕がなまっていたところだ、ちょうどいい」

 体格でいうと猪利祖も負けていない。


「死ね」

 クモミズが襲い掛かった。

 凄まじい斬撃だった。

 一合、二合、三合と、火花とともに剣と剣が斬り結ばれる。

 互角と見えた戦いの軍配は、病み上がりである猪利祖に少しづつ不利なかたちで傾き始めた。


「くそ、なんだってんだ」

 裴洋はいち早く危険を察知する。

 猪利祖が敗れたら、自分の命もない。

 あんな化け物を相手に、まともに戦えるはずもなかった。

 爺を茴那を探しに走らせると、自分もハルを抱いて少しずつ逃げにかかる。


 幸い向こうは、ハルの奪還に来たわけではないようだ。

 自分たちのことなど眼中にもないように、激闘を繰り広げている。

 それでも、猪利祖が勝った場合を考えて、あんまり離れた場所にいるのも具合が悪い。

 ただでさえ疑われている自分の立場である、これ以上裏切り者の烙印を押されるわけにはいかない。

 50メートルほど離れた岩の陰に、裴洋は隠れた。

 そこへ、ようやく救世主が現れた。

 茴那だ。

 爺とはどうやら行き違いになったようだ。


 二人対一人の戦いになった。

 もとより茴那と猪利祖は、シコメ水軍との戦いで示したように、連携攻撃を得意とする。

 クモミズは一転して窮地に追い込まれた。

 砂浜で戦っていたのだが、いつの間にか背後に樹林を背負っていた。

 逃げ場はない。

「何者かは知らんが、まだやるか?」

「ぐっ」


 仲間5人とこの島に上陸し、物資の補給がてら何蛮の船を探していた。

 それがいつの間にかはぐれ、ひとりになり、砂浜で露営する隋兵と思しき集団を見つけたのだ。

 相手を少数とみて襲い掛かったのだが、これほどの強者だとは思わなかった。

 仮にほかの5人が救援に来たとしても、大した戦力にはならないだろう。

 それほどにこの二人は強かった。

 一糸乱れぬというべきか、まるで魚の群れのように、二人が一つの意思で動いている。


 背後にはもう壁のような樹林が迫っている。

 だが降伏するなど、クモミズの頭の中になかった。


              ☆  ☆  ☆


 そんなクモミズたちの戦いを、遠くから見つめる二対の眼があった。

 コイチとイザヤだ。

「なんだ、あれ」

「片方は隋の兵士のようだな」

「戦ってるぞ」

「巻き込まれては面倒だ」

 自分たちには関係のないことか、コイチがそう思い、視線を巡らせると、少し離れた岩陰に人が潜んでいるのを見つけた。

「ハル!」

 確かにハルだった。

「待て!」

 飛び出そうとするコイチを、イザヤが必死に抑える。


「何かおかしい。元々ハルを攫ったやつらじゃないようだ。シコメという女もいない」

「そんなの関係ねーよ」

 暴れるコイチを必死になだめる。

「見ろ、あっちにも誰かいるぞ」


 イザヤが指差す方向に、たしかに5人の男たちが固まっていた。

 これも隠れるように、クモミズの戦いをうかがっている。

「ど、どうする」

「どうするったって」


 ヒソヒソと話し合うのは、クモミズの仲間である。

 森の中でクモミズとはぐれ、ようやく探し当てると、こういう状況になっていた。

 もちろんすぐにでも救援に躍り出るべきなのだが、そこで繰り広げられている闘争のすさまじさに、すっかり肝を抜き取られている。

「あのクモミズさんが、防戦一方になるなんて」

「俺たちが出て行っても、かえって足手まといだ」

「でも殺されちまうぞ、このままじゃ」


 このまま隠れているのが無難なようにも思えたが、万が一クモミズが勝つと、今度は自分たちが怒られかねない。

 いかにすべきか、悩みに悩んでいると、自分たちと同じように岩陰に隠れている存在に気づいた。

 裴洋とハルである。

 ハルはともかく、裴洋はその身にまとう甲冑で、隋兵だということが分かる。

 ゴクリ、と五人が五人とも唾をのんだ。

「あっ!」

 一人が声を上げる。

 目を離している隙に、クモミズが窮地に追い込まれていた。


 裴洋はもう、味方の勝利を確信した。

 クモミズは仰向けに倒れ、あとは止めを刺すばかりになっている。

 次いで別の心配が頭をよぎる。

 さすがにこんな離れた場所に避難しているのがばれたら、茴那になにを言われるか分からない。

 言い訳を考えつつ、立ち上がろうとすると、眼を疑った。


「死ね!」

 茴那は槍を構えた。

 ずいぶん手こずらされたが、もはや相手に抗力はない。

 振り下ろした槍は、しかし砂をまき散らしただけだった。

 鉄の塊が飛んできて、槍の軌道をそらしたのだ。

 見るとそれは、“錨”だ。


「そいつは俺の義弟でね、殺されちゃ、泣くんだよ。妹が」

 漢語をしゃべる者がいた。

「イサフシ、さん」

 クモミズがうめく。

 イサフシは銛の柄をひくと、赤ん坊の頭ほどもある錨がすっとんでいって、イサフシの手に収まる。

「クモミズのムコウミズ、治らねーなぁ、その癖」

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