第46話

「ぜひ、つばくろをお貸し願いたく――」

 辞を低くするイサフシに、シコメは若干自尊心をくすぐられたようだったが、それでも首を縦に振ることはない。

「危急の事態でございます」


「ならば、我が水軍のすぐりに戻るかや?」

「そればかりはご容赦を」

 すげなく断られて、機嫌を戻しかけていたシコメは再び怒り狂う。

「えぇい、ふざけておるのか!」

「存亡の秋でございます。シコメさまのお怒りはごもっともなれど、今は、私情を曲げて、ご決断願いたく」


 もちろんシコメとしても今の状況は分かっている。

 あの王震という化け物を倒さねば、自分も含め、ここにいる全員が殺されかねない。

 そしてなにより、“乙女心”を弄んだ子龍への恨みもある。

 少しばかり表情を改めると、

「勝てるか、つばくろで」

つばくろなればこそ勝てましょう」

 イサフシは確信をもって言う。

 シコメは決断したようだった。


うるわし!」

 シコメが呼ぶと、 一人の少年が木箱をもって現れた。

 コイチが、ハルの婚約者だと勘違いした、あの美少年だ。

 横50センチ、縦30センチ、高さ20センチほどの箱を恭しげに持っている。

 跪き、それを頭上に掲げる。


 箱の前面には海老錠と呼ばれる錠前が付いていた。

 それを開ける鍵が、シコメの豊満にすぎる胸の谷間に隠してあるらしく、そこに手を突っ込むと、

「これがどういうものか、分かっておるじゃろうな」

「重々承知の上でございます」


 シコメは海老錠を開けると、生まれたばかりの嬰児を抱き上げるように、そっと中のものを取り出す。

 イサフシは跪き、首を垂れる。

 それは古色蒼然とした片手用の両刃斧だった。

 シコメはうっとりとそれを眺める。

つばくろ。名前の由来は、かつて大陸にあった燕という国じゃ。その国で作られ、我が国に伝来した。神世の時代のこととされる。それから代々、我が息長一族に神器として伝わり、かの息長帯比売おきながたらしひめ(神功皇后)様も、新羅征伐の際に、これを掲げて軍勢を鼓舞したとされる。――その歴史の重みが、分かるな」

「はっ」


「燕を持ち出す以上、負けることは許されぬ」

 イサフシは直の眼差しでシコメを見つめる。

 その瞳に宿る並々ならぬ決意を感じとり、シコメは満足げに頷く。

「よかろう。一時、そなたに預ける」

「感謝いたします」

「………」

 言いながら、しかしシコメは斧を手渡そうとしない。


 スッと、シコメが差し出したのは、自らの足だった。

 裾を割らせ、ふくらはぎと足首の境界もあいまいになっている右足を、跪くイサフシの面前につきつける。

 イサフシは固まる。

 なおも催促するようにちょいちょいと足を動かすと、イサフシはようやく決心して、シコメの足の甲に口づけした。


「ふ、ふ。シコメ水軍に、いつでも戻ってきてよいのじゃぞ。すぐりの座はあけてある」

「まずはその前に、あの者どもを倒さねばなりません」

「待っておるぞ」


 シコメ手ずからにつばくろを下賜され、イサフシがようやく一騎打ちの場へ戻ってきた。

「それが新たな武器というわけか?」

 王震は冷笑する。

 何の変哲もない両刃の斧だ。

 それが千年以上も前の、春秋戦国時代は燕の国で鋳造されたものであり、かつ倭国が初めて手にした鉄製の製品だとは知る由もないが、武人らしい冷徹な眼差しでそれを観察する。

 なるほど、“見切り”を得意とする自分に対抗するため、より重量の軽い得物を持ってきたということなのだろうが、それが本来は武器ではないということに変わりはない。

 ――島夷め。無駄なあがきを。


 イサフシがあらためて王震と対峙した。

 対峙するなり、片手斧を頭上高くに構える。

 斧、確かにその破壊力はなまじっかな剣を凌駕するだろう。

 膂力に優れたものが扱えば、重心が先端に偏っているため、剣速もあるいは上回るかもしれない。

 ――だが。

 それを帳消しにしてしまうほどの弱点がある。


 第二撃が続かないのだ。

 そのあまりにアンバランスな重心構造のため、一度振りはじめたら、人間の腕力でそれを制御することは不可能になる。

 片手斧ならなおさらだ。

 ――破れかぶれの策に出たか。


 重量の軽い片手剣で、相手に致命傷を与えるのは、それなりに困難を伴う。

 ひるがえって斧の破壊力ならば、身体のどこにあたっても、致命傷になるだろう。

 喉や心臓といった急所を左手で防御しつつ、斧を一撃必殺のもとに振るえば、あるいは勝機も見いだせるかもしれない。


 ――つまらん。

 王震は急に目の前の男に対する興味を失った。

 それだけの男だったか。

 肉を切らせて骨を断つ。

 自分のこの圧倒的な“見切り”の才能の前に、誰しもが考える策だった。

 イサフシはじりじりと距離を縮めつつある。

 あと半歩ほどで、斧の射程圏内に入るだろう。


 次の一撃で仕留める。

 そう心に決めて、イサフシの前進を待った。

 と、王震の視界にある違和感が生じた。

 イサフシの足元、より正確に表現するなら、前に出した左足、そこに先ほどまでとは違うなにかがある。


 王震の両の眼球がそちらに動きかけて、咄嗟にとどめる。

 イサフシはすでに攻撃圏内に踏み込みつつあるのだ。

 さすがの王震でも、この状況で視線を逸らせるのは、致命傷になりうる。

 ――だが、なんだ、これは。

 強力な磁力ででもあるかのように、視界右下の違和感は王震の眼を引き付けた。


 ――見るな。

 ジリ、とさらにイサフシは距離を詰める。

 ――見るな!


 ほんの一瞬のことだった。

 王震の自律神経は、視野の違和感に抗しきれなかった。

 眼球だけがまるで重力にひかれたように、右下に落ちる。

 ――あれは、なんだ?

 イサフシは左足に何かを履いていた。

 最前までは確かに裸足だった。

 それが今、靴のようなものを履いている。


 ――鉄靴?

 そう見えた。

 だがなんのために。

 ――あの時か!

 イサフシが肥え太った女の足元に跪き、何かをやっていた。

 あの時に履いたのか。

 となれば、本命は、この仕込み靴!

 斧は囮だ。

 そこまで考えが至ったとき、イサフシの右腕が動いた。

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