第54話

「ハルーッ!」

 コイチは声を限りに叫んだ。

 静まり返っていた海原に、コイチの声が響き渡る。

 数百の人間たちの視線が一斉にコイチに集まった。

「何をやってる!」

 怒号が飛ぶ。


「待て! なんのつもりだ!」

 襟首をつかもうとする大人たちの腕をすんでのところでかわすと、コイチは“海畳”に飛び乗った。

 海畳はそれ自体で浮力があるわけではない。

 八方から船で引っ張られることによって、海面すれすれに“張られている”状態だった。

 飛び乗った拍子に、へこんだ部分が海に沈む。

 コイチは危うく転倒しかけるが、両手をついてなんとか踏ん張ると、キッと前方を見据える。

「ハル、待ってろ!」


「ん、なんだ?」

 にわかに巻き起こった騒動に、裴洋は頭を巡らす。

「お、おい、あれって――」

 裴洋は唖然とする。

 護も我が目を疑った。

「コイチだろ。あんたの弟子の」

「むぅ、まさか、ならんぞ、それだけは、それだけは……」

 護は苦渋の表情をうかべ、船縁を掴む両手は、それを圧し折らんばかりだ。

「ならんのだ」


 コイチは不安定な地面に足をとられながらも、一心に駆けた。

 それを追いかけるように数本の矢が飛ぶ。

 そのうちの一本がコイチのふくらはぎをかすめる。

 がそんなことなど、気にも留めない。

 こけつまろびつしながら、ハルを目指すのだ。

「馬鹿、神聖な海畳を傷つけるな!」

 弓矢はすぐに止んだ。


 コイチは“そこ”へたどり着いた。

 神聖な“海鎮め”の儀式の空間。

 それを穢すのを恐れるのか、大人たちは怒声を上げるのみで、自ら海畳のうえに乗り込んでくる者はいない。

 その怒声もやがて止んだ。


 ――ハル。

 海畳の中央部分はもうすでに海に没しかけていた。

「ハル……」

 コイチはブヨブヨと半ば海水に浸っている海畳を踏みしめ、やっとのことで声を絞り出す。


 今までうつむき加減に正座で座っていたハルが、初めて顔を上げた。

 その顔には、満面の笑みが浮かんでいた。

「もう、駄目でしょ。二人も乗ったら、よけいにはやく海に沈むんだから!」

「ごめんよ」

 予想外に明るいハルの声に、しかしそれが強いてそう振舞っているらしいのが痛いほどに感じられ、コイチは涙があふれてくるのを抑えきれなかった。


「守るって約束したのに、守ってあげれなかった」

 コイチの言葉に、ハルはうつむく。

 瞼を押し破り、止めどなく溢れてくる涙が、この世界全てをも沈めてしまいそうになる。

「だから……一緒に……死ぬ」

「……ありがと」

 最後は言葉にならなかった。


                   ☆  ☆  ☆


「よ、よろしいのですか?」

 ハルたちを望見しつつ、さかしは言う。

 この“海鎮め”の儀式は、息長一族にとって、その浮沈を問うものであった。


 遡ること9年前、倭国はその総力を結集して新羅を攻撃していた。

 戦闘自体は成功裏に終わったものの、新羅は得意の二枚舌外交を駆使し、結果倭国の出征は無意味なものと終わった。

 それを機に大和朝廷の外交方針に変化が起こった。

 同年(600年)、非公式の第一次遣隋使が派遣され、隋の意向が那辺にあるかが探知されると、三年後には厩戸皇子の号令のもと、新羅出征が永久停止となる。

 607年、公式となる初の遣隋使が送られ、小野妹子が皇帝・楊広からつぶらの布甲をつきつけられたのは、すでに見た通りだ。


 軍隊を動かすことなく、外交によって国際社会の序列が決められる。

 隋という他を圧倒する帝国がうまれたため、そんな時代へと差し掛かっていたのだ。

 当然そこに、シコメ水軍のような実戦部隊の付け入る隙間はない。

 出世の機会を奪われた、そうシコメが焦るのも、止むを得ざる仕儀だろう。


 何を話し合っているのか、ハルとコイチはみつめあっている。

 永遠に過ぎ去った青春、そんな感慨をえて、侏儒のさかしはほんの少しばかり胸が締め付けられる。

「シコメさま、いかがなさるのですか?」

 水軍を譲られ、“ユズル水軍”を名乗ったのも、これまた永遠の過去の領分だ。

「“スサノオ”様も、間男込みで生け贄を差し出されたとあっては、かえってお怒りになるんじゃ」


 賢はシコメの顔を見上げた。

「なぜじゃ」

「――は?」

 シコメは顔中涙にしてコイチたちを見つめていた。

「なぜ、ワラワの時にはあのような男の子が現れてくれなんだのじゃ?」

「し――」

 ――知らねー。

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