第37話

 一時間ばかりも進んだころ、海上にポツンと船が見えてきた。

 丸木舟をふたつ繋げ、横板を渡しただけの小さな船である。

 二つの人影がある。

 一つはイサフシの配下。

 そしてもう一つが何蛮である。


「あれか」

 大海の真っただ中に小舟が一艘とは、異様な光景だったが、これでもう何蛮に逃げ場はない。

 子龍と朱寛はうなずき合うと、イサフシを呼び寄せる。

「倭人よ、人質交換というのは、取りやめになった」

「なんだと!」


 イサフシとしてはそんなことはとうに知っているのだが、一応演技をしてみせる。

「騙したのか!」

「待て、仲間は返してやる。ただし条件がある。これを持て」

 子龍は一振りの剣を渡す。

「まだ抜くな。そして刃には絶対触るなよ。猛毒が塗られている」

「………」

「実は、お前が人質だと思っている何蛮には、人質としての価値がない。処刑命令が出ているのだ。陛下への謀反の罪でな。だが、事情あって我らが直接手を下すことが出来ん。つまり、お前に殺してほしいのだ。正々堂々戦って、そのうえであいつには死んでもらいたい。見事してのけたら、その時、お前の身柄も仲間も、解放してやる」

「それを信用しろというのか」

「断れる状況ではないと思うが。愚かにもたった一人で乗り込んできたのだ」

「………」


 イサフシは苦悩する――態を見せる。

 全ては織り込み済みだ。

「わかった。信用するしかなさそうだ」

 子龍がその返事に満足し、毒の剣を渡そうとしてくると、イサフシは拒んでみせた。

「そんなもんに頼らずとも、必ず殺してみせる」

「ふん、頼もしいことだ」


「ところで――」

 とイサフシは不意に上空を見やる。

「おたくらの船には、目印として凧を載せているんだろ」

「――? あぁ、そうだが」

「それを、揚げていて欲しいんだが」

「なぜだ」

「いや、なに、頼まれてな」

「何蛮にか?」


 子龍には話しの筋が見えない。

「いや、ハルという娘にだ」

 ――ハル、だと。

「上空の風の流れが知りたいんだそうだ」

 ――“嵐を操る娘”を、この男は確保しているというのか。

 イサフシは何でもないような表情をしている。

 おそらくは演技だろう。

 ――脅しているのか。そもそも人が嵐を操るということが本当にありうるのか。

 相手の生殺与奪権を握ったと思ったら、少しばかり噛みついてきた、そんな感じだった。


 子龍は残忍な笑みを浮かべる。

 ――よかろう。どちらにしろこの倭人二人を生きて解放するつもりなどなかった。

 何蛮も筏のような船で海に浮かんでいるのみ。

 もはや負けはない。

 嵐をおこさんと、その小娘までがここに現れるというなら、陛下への手土産に搦めとるまでだ。

「おい、誰か!」

 子龍は部下を呼んで大凧を天に舞わせた。

 凧は潮風をはらみ、みるみる上昇していく。

 嵐など起きる余地もない、抜けるような晴天だった。


            ☆  ☆  ☆


 何蛮が縄梯子を伝って、旗艦に乗り込んでくる。

 気負いも何もない、いたって普通の仕草だ。

 いつも通りの事務的な報告に来るような。

 あるいはどこからか、自分の処刑命令の件を聞き知っているかもしれないと危惧していたが、気の回しすぎだったかもしれない。

「戦果は上々のようですな」

 何蛮の言葉に、朱寛が答える。

「うむ、そのことじゃが、ちと、そちに言いにくいことを伝えねばならん」

 さて、どう伝えるべきか。

 あまり露骨に言うと、実質自分たちが処刑したことと変わらなくなる。

 何蛮配下の水夫たちが納得できるかたちで、うまく倭人との決闘にもっていかなければならない。

 朱寛が無い知恵を巡らせていると、


「俺の処刑命令のことか?」

 何蛮がズケリという。

「貴様、知っていたか」

「………」

「それを知ってなお姿を見せるか」

「あぁ、海と船を取り上げられたら、俺には何も残らん。そちらが俺の最後の花道を用意してくれるというなら、喜んで乗ってやろうと思ってな」


 ――嘘だ。この男がそんなに殊勝であるはずがない。何かを目論んでいる。

 子龍は我知らず天空を見やっていた。

 一発逆転の策。

 嵐を巻き起こして、艦隊ごと海の藻屑とする。

 それくらい平気でやる男だろう。


「上官どのの考えでは、俺とその倭人を戦わせようというのだろう」

「そうだ」

「じゃあ、早速始めようか。その代わり、その倭人たちは必ず解放することだ」

「無論約束する」

 朱寛の言葉はあくまで軽い。

 イサフシに目線を送ると、

「分かっているだろうな」

 背後に跪かせたクモミズをしめす。

 その隣には王震が控えている。

 本気を出さねば、ということだった。


 何蛮とイサフシの戦いが始まった。

 といってそれが本気の戦いでないことは、その場にいる誰にもわかることだ。

 斬り結びながら、イサフシが言う。

「おい、どうなってる。まだか?」

「すまん、待っている間に少しばかり流されたようだ」

「なんだと!」

「しょうがねーだろ。あんな筏で」

「どれくらいだ」

「もう少しだ。たぶん」

「ちっ」


「おい、何をごちゃごちゃ言っている。本気で戦え!」

「だとよ」

「んじゃ、多少本気を出させてもらうぞ。実を言うとな、最初見た瞬間から、お前とやり合ってみたかったんだ」

 何蛮が言うと、剣速が一段階も二段階も上がった。

 咄嗟の変化についていけず、イサフシは防戦一方になる。

 体勢が崩れた時、腹部に何蛮の蹴りがはいった。

「喜色悪いことを言うなよ。動揺しちまったじゃねーか」


 距離が離れた隙に、何蛮はちらりと海面の色を確認する。

 徐々に海は黒ずみつつあった。

 ウォッ!

 お返しとばかりにイサフシが全力で襲い掛かる。

「もういいぞ。頃合いだ」

「ふざけんじゃねー。一発見舞っておいて」

 イサフシも本気の斬撃を見舞う。

 苦笑しつつも何蛮はそれを的確に防御する。


 イサフシの剣が何蛮の頬をかすめた。

「これでおあいこだ」

「なめんじゃねー」

 一瞬戦いをやめた何蛮の腹に、イサフシは思い切り回転蹴りを叩き込んだ。

 何蛮は船縁まで吹っ飛ぶ。

「はぁ、気が済んだ」


「いいぞ、倭人。そのまま倒してしまえ」

 だがイサフシは、無言のまま剣を鞘に戻した。

「どういうことだ、決着はついておらぬ」


 何蛮がイサフシに歩み寄る。

 朱寛たちには聞こえないくらいの声で。

「世話になった」

「あぁ。本当にやるのか?」

「うむ。俺には海しかない。それが胡人どもの手に渡るくらいなら――」

「なに、死ぬって決まったわけじゃねー」

「そうだな、どこかの海でまた出会うかもしれん」

「そん時こそ、本気でやりあおうぜ」

「あぁ」


「何をしておる!」

 朱寛は激昂する。

「王震! その倭人をつれてこい!」


 王震がクモミズを引っ立てようとした時、見張りの兵が声を上げた。

「船です! 二艘、こちらに近づいてきます!」

「なに」

 一艘は吹けば飛ぶような小舟である。

 それを追いかけるようにしてくるのは、倭国の大型船。

 小舟に乗る男の顔に、子龍は気づいた。

「裴洋か?」

 さらに後ろの船にも見覚えがある。

 たしかシコメとかいう巨女の船だ。

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