第38話
裴洋が小舟から声を張り上げている。
裴洋の船には、他に守り役の爺と、十才くらいの少女が乗っている。
――ハルか。
子龍はもちろんハルの顔を知っている。
シコメから強奪した張本人だからだ。
だが朱寛は知らない。
「あの小娘、もしや」
「そうです。“嵐を操る少女”」
――なぜこの瞬間に現れた。
子龍はとっさに何蛮とイサフシの表情を盗み見たが、その心の奥までは見通せない。
何蛮が何か策を隠し持っているらしいのは――、倭人がわざとらしくハルの名前を出し、凧を揚げさせたのは――
――偶然なのか。
子龍の胸中で、疑心が暗鬼を生みつつあった。
そうこうしているうちに裴洋の小舟が、シコメに追いつかれた。
「
シコメの命令で魚網がパッと投擲される。
ハルを船ごと捕まえようというのだ。
「ちくしょう!」
裴洋が必死に網から逃れる。
「俺は魚か!」
数か月にも及ぶ異国暮らしに耐えてきて、ようやくいま隋軍に合流できるところまで来たのだ。
「捕まってたまるかよ!」
「また来るよぉ」
ハルが能天気ともいえるような声を上げる。
「若、踏ん張りどころでございます」
「手伝え、馬鹿野郎!」
魚網の一投目はうまく外されてしまった。
「何をしておる、さっさと捕まえぬか!」
シコメとしては、大事な“海鎮め”の儀式の生け贄である。
といって、それを子龍に差し出すのもやぶさかではないくらいに考えているのだが、子龍にそんなことが分かるわけがない。
「
シコメが二投目を命じると、水軍長の地位を奪われ、しょんぼりしていた賢が、震え声をあげる。
「し、シコメさま」
「なんじゃ、今忙しい」
「下を、海面を見てください」
「なに?」
シコメが海面を覗き込むのと、二投目が投じられるのが、同時だった。
魚網は見事、裴洋の船をすっぽりと包み込んだ。
「やりました!」
が、それはシコメの耳に届かなかった。
「ま、まさか、ここは……」
シコメの顔面が、蒼白になる。
「捕まってしまったぞ」
ハルが倭人の手に渡ってしまった。
「どうする」
朱寛はうろたえるばかりだ。
「射よ!」
子龍は即座に命じた。
“嵐を操る能力”、眉唾物でしかないが、万が一にでも可能性があるなら、潰してしまえばいい。
「射よ!」
子龍は絶叫する。
船縁に弓兵が並んだ。
「しかしこの距離だ、あの小娘にもあたるぞ。よいのか」
楊広が“嵐を操る能力”に興味をしめしていたことを、朱寛は知っている。
「倭人の手元に戻るよりはましでしょう」
「裴洋にも」
「………」
使いがいのある部下だったが、背に腹は代えられない。
弓兵の体制が整ったところで、子龍は手を振り下ろす。
数十本の矢が一斉に飛んだ。
「くそっ。伏せろ!」
味方の旗艦から矢が飛んできた。
大半はシコメの船に殺到するが、何本かは裴洋の小舟にも突き刺さる。
――俺ごと……
裴洋は自分の身体でハルをかばいながら、唇をかむ。
子龍の右手が振られるのを見ていた。
――あの人は俺ごと殺そうとしたんだ。
カッ、カッ、カッと小舟は見る間に剣山のようになっていく。
すこしでも船縁から身体を出すと、命はないだろう。
「チクショウ! 主人公になる男だぞ、俺は!」
操船もへったくれもないが、シコメ水軍の網に絡まれていたことが、かえって幸いした。
徐々に弓の射程域から離れていくようだった。
「若、これは何かの間違いでございます! ちゃんとお話しになれば――」
「バカ、使い捨てにされたんだ。俺たちはよぉ!」
味方の裏切りに、爺も涙を呑んでいるようだった。
裴洋が突如口調を改める。
「爺、国へ帰りたくないか」
「そんな、なにを気弱なことを。仮にも名門裴家の――」
「ちげーよ。お前の先祖は、倭国から来たんだろ」
「た、確かにそうでございます。魏の明帝曹叡の治世に、倭国の卑弥呼という女王から献上された生口(奴隷)、それが私の先祖でございます。その後、代々倭国語の通辞として朝廷にお仕えいたして――、ま、まさか」
「そのまさかだ。向こうが俺を見限るってんなら、俺も向こうを見限ってやる。“絶域に通じたる家柄”は返上する。これからは、“絶域にて成り上がる男”だ!」
「若……」
涙にむせぶ爺であった。
弓の届かい場所まで避難して、シコメは呆然とする。
「子龍さまが、ワラワを」
「目を覚ましてください、シコメさま!」
「おのれ、ワラワを虚仮にしおって!」
かわいさ余って憎さ百倍といったところだが、
「シコメさま、ここもまだ危のうございます。はやく退避を!」
「見ておれ!」
艦上の隋兵の注意はすべて、シコメ水軍の方に向けられていた。
好機は今しかない。
何蛮とイサフシはうなずき合うと、船尾に合図を送る。
クモミズの背後に、白頭巾姿の男がそろりと近づいていた。
クモミズが気付くと、
「しっ」
クモミズの縄を切る。
「こっちだ、こい!」
イサフシが叫ぶ。
「おのれ!」
「捕らえよ!」
朱寛と子龍が口々に叫ぶが、隋兵たちはみな弓に持ち替えており、咄嗟に反応できない。
「掴まれ」
イサフシはクモミズに天に伸びる縄を握らせる。
自身もそれを掴むと、手にした剣で切り落とす。
大凧は男二人を軽々と持ち上げ、艦上から脱出させた。
一瞬で弓すらも届かない距離に離れていく。
「クソっ、このために」
思いもよらない使用方法だった。
子龍は唇をかむが、どちらにしろ倭人の殺害は目的ではない。
甲板には何蛮が残った。
「お前は逃げなかったのか?」
「あぁ、返してもらうものがある」
「なに」
「この船だ。これはもともと、俺の船だった。だから返してもらう」
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