第39話
「船を取り返すだと」
子龍は鼻で笑う。
「たった一人でか」
「………」
「おおかた水夫をそそのかして謀反でも起こすつもりだろうが、すでに手当て済みだ。そいつらの武器はすべて取り上げた。主だった水夫頭にも、切り崩しを行っている。このままお前に加担して泥船で沈んでいくのか、隋水軍の正規兵として栄達の道を歩むのか、とな」
「………」
「何人かはあっさり首肯したぞ」
「それは残念だ」
子龍はいぶかしむ。
――なんだ、何の余裕だ。
子龍はちらと天空に目をやる。
ハルこそ取り逃がしたものの、嵐の兆候などないのだ。
緊迫の時間が過ぎていく。
何蛮は何かを待つように、腕組みして立っているだけだ。
――待つ、なにを?
再び子龍は天に目をやる。
「子龍、いいことを教えてやろう。海に出たらな、空模様だけでなく、海も見ることだ」
「なんだと」
何の変哲もない大洋が眼前いっぱいに広がっているだけだ。
何蛮はニヤリと笑うと、
「ひとつ、質問をしよう」
「――」
「この世で最も長い川の名前はなんだと思う」
「いったい何の真似だ」
「いいから答えろ。暇つぶしだよ」
児戯にも等しき質問。真面目に答えるのもバカらしい。
「黄河、あるいは長江だろう」
「残念ながら、不正解だ」
「?」
「それは、倭国にある」
「倭国だと。笑わせるな。確かにここら辺の島よりは大きいらしいが、所詮は島国だろう。大陸にある大河とは比べようもない」
「あぁ、半分は正しい。半分はな。だが“川”というのを、“一定方向に流れ続ける水”と解釈すれば、どうだ。それは必ずしも“陸地”を流れている必要はないだろう」
何蛮の言葉を咀嚼し、理解するのに、数瞬かかった。
「まさか――」
子龍が目を見張ったときには、何蛮は右手を上げていた。
何かの合図だ。
「倭国の沿岸には、黒瀬川という“川”が流れている。まさに海を流れる川だ。凄まじい潮流で、一度呑み込まれたら、脱出は困難だという。その行き着く先は倭人でも知らぬという。まさに、世界最長の大河!」
「貴様!」
「見てみろ、東方の海面を。俺らをこの世の果てにまで連れて行ってくれる、どす黒い潮流だ」
何蛮の言葉を受け、隋兵たちが一斉に海面に目をやる。
そこだけ異様に黒ずんだ潮の流れがあった。
「もう逃げられぬ。ましてや、帆や舵を失った船ならな」
ガン、ガンという禍々しい音が船底から響いてきた。
木造船の時代、大抵の船には緊急時に帆柱を倒すための道具が積まれていた。
帆柱はまさに船の命だが、暴風雨に巻き込まれた際は、そのバランスの悪さで、転覆の原因になりかねない。
今すぐ沈むよりは、帆という動力のない状態での漂流の方がましだ、ということで、いざとなったら切り倒すのだ。
ガン、ガン!
巨大な木槌で、帆柱に、
死刑執行人の首切りにも似た行為を行っているのは、白頭巾の男たち。
ガン! ガン!
全艦隊から一斉に響き始めた。
「何蛮ンンッ! 貴様ァ!」
子龍が叫んだ瞬間、船がガクンと揺れた。
船上の全員がたたらを踏む。
ギアが一段上げられたように、速度が増したのだ。
船はついに黒瀬川の本流に乗り入れた。
同時に、人間の悲鳴のような音を立てて、隋水軍の旗艦の帆柱が倒れだす。
「これで、逃げられぬ」
地獄の獄卒か、死神か、子龍には、目の前の男が人ならざる存在にしか見えなかった。
「し、しし、子龍、どうする!」
朱寛は相変わらずの無能ぶりを示す。
「飛び込め!」
もはやそれは指示でもなんでもなかった。
命令系統などとっくに崩壊している。
海に飛び込んで助かる見込みがあるわけではないが、ともかくこの船から逃げ出すことしか、子龍の頭にはなかった。
さいわい船はまだ、黒瀬川の端境を彷徨っている。
タイミングは今しかない。
朱寛、子龍、王震、おもだった人間が着の身着のままで海に飛び込んだ。
「何蛮さま、これは!」
かつての己の配下である水夫たちが狼狽顔で何蛮に詰め寄る。
何蛮のこの文字通りの“捨て身”の策は、白頭巾の男たちにしか知らせていなかった。
「あっしらにも死ねと、そうおっしゃるんですか」
「あんたにはもうついていけねぇ」
そう言って海に飛び込む水夫もある。
「すまぬ、俺の器ではこれが精一杯だった」
水夫は絶望と悲しみに満ちた目で何蛮を見つめてくる。
やがてそれらは海へ消えていった。
☆ ☆ ☆
隋水軍の旗艦、かつての何蛮の愛艦は、静けさを取り戻していた。
悟りを開いたものの静けさ、とでもいうべきか。
「何蛮さま……」
白頭巾の男の一人が、何蛮の隣に寄り添う。
旗艦こそ朱寛たちが脱落し、静かになったものの、あとに続く艦船は、いまだ死闘の最中だ。
帆柱を倒そうとする白頭巾の男、それを阻止せんとする隋の兵士。
何蛮の配下の水夫たちも、大部分は正規軍の味方に付いたようだ。
それを責めることはできない。
誰しも自分の命は惜しいものだ。
「この白頭巾、とってもよろしいですか」
「あぁ、もう、文字通り自由だ」
何蛮の言葉で、白頭巾たちが白い包帯を剥ぎ始める。
皮膚が病み崩れたもの、鱗状の皮膚に生まれついたもの、鼻が欠けたもの、刑罰の入れ墨を焼き入れられたもの。
それらが頭巾を脱ぎ、思い思いに潮風を浴びる。
「久しぶりですよ、海風なんて」
「これから、嫌というほど浴び続けるぞ」
「覚悟の上です」
「すまんな、俺の意地につき合わせちまって」
「何をおっしゃいます。我ら、尋常ならざる姿に生まれ、本来なら日陰に隠れて生きなければならなかった存在。何蛮さまのおかげで、ずいぶん楽しい思いをさせていただきました」
鱗状に崩れた頬を、大粒の涙が伝う。
「フナムシから、
「すまん、俺の力が至らな……かっ……」
イサフシも、とめどなくあふれ出てくる涙に、言葉を発することが出来なくなった。
「なに、あの倭人が申していたように、必ず死ぬわけではありません。見てみようではありませんか。この黒き潮の果てを」
何蛮は子供のように無言でうなずくしかできなかった。
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