第40話

 一艘の船だけが運よく黒瀬川に吞まれるのを免れていた。

「朱寛さま、これに掴まってください」

 兵士が縄を投げ入れる。

 太りに太った朱寛は、五人がかりでようやく甲板に助け上げられた。

「おのれ、何蛮め!」


 旗艦はすでに遥か彼方に流れ去っている。

「子龍はどうした」

「そ、それが」

 助けること能わず、黒瀬川に流されていったという。

「艦船はどうした」


 朱寛はよろよろと立ち上がり、辺りを見回す。

 王震の姿があった。

 さしもの剣豪も、海に投げ出されてはどうしようもなく、息も絶え絶えといった感じで甲板に膝をついている。

 そして鄭牙。とその貔虎ひこ

 鄭牙は海水に濡れておらず、ではこの船は鄭牙の船だったか。


 鄭牙は海の彼方に絶望の声を張り上げている。

「わたしが、わたしが精魂込めて育て上げた貔虎部隊が……」

 貔虎の檻を載せた船も、黒瀬川には勝てなかった。

「わたしの希望、古の貔虎部隊……」


 船上にある主だった将はこれだけだった。

「船は、我が艦隊はどうした……、ハハハハ」

 全てが拉致しさられた。

 十数隻の艦隊が。

 一万の兵士が。

「どこにいった……、フハ、ハ」

 たった一瞬で。

「陛下から預けられた、水軍……」

 朱寛は膝から崩れ落ちる。

 失った人命の重さよりも、暴君の怒りの表情が眼前にちらつく。

「面白い冗談だ。何かの手品か? はやく返せ、私の艦隊ぞ、ハハハハハ……」


「朱寛さま、あそこに島があります。我が船は帆柱と舵を失い、早急の修理を必要としております。なにとぞ、上陸の許可を」

 まともな判断など、目の前の男から期待できるはずもなかった。

「陛下、私は……」

 呆けたように、朱寛は繰り言を口にする。

「クソ、もういい。接岸するぞ!」


 その同じ島に、シコメ水軍の船が先んじて上陸していた(裴洋はというと、途中で魚網を切り抜き、脱出に成功していた)。

「どうなった!」

「隋水軍、その大半が黒瀬川に!」

「さもあろう。あの距離ではな。到底逃げられまい。――で、子龍さまは」

「シコメさま!」

 恋の未練を残すシコメに、賢が怒鳴る。

「わかっておる。冗談じゃ」

 その言葉をあまり信じていない表情の賢だが、

「隋水軍の生き残りはあと一隻。この島に向かっているようです」


 一方、大凧で脱出したイサフシとクモミズだが、これも味方の船に救出してもらい、最寄りの島である、この島に向かっていた。


 先史時代の琉球を襲った未曽有の事態、その最後の舞台が整いつつあった。


             ☆  ☆  ☆


「黒瀬川だ。黒瀬川に呑み込まれたんだ」

「なんだそれは」

 言い合うのはコイチとイザヤである。

 島一番の木の上にのぼり、今しがた起こったばかりの、現実とも思えないような出来事を望見していた。

 ハルを求めるコイチの足元に、しかし例の“黒い手”は現れてこず、隋水軍の噂だけを追ってくると、この島にたどり着いていた。

「隋水軍はあれで壊滅したな」

 海の男である護が断定する。

 黒瀬川の恐ろしさは、コイチが身をもって知っている。


 ――ん?

 護は砂浜に着岸したばかりの船を見やる。

「あれは、シコメ様の船」

 なにやら揉めているらしい様子が豆粒のように見える。

 シコメ水軍から離れて数か月。

 地味ながらも、シコメ水軍内の“常識派”としてバランスをとってきたと自認する護である。

「コイチ、すまんが、ワシはこれまでじゃ。本来の場所に戻る」

「護のおっちゃん、ありがとう。いろいろ済んだら、また薩摩で会おうな」

 護は白い歯を見せて笑うと、するすると樹を下りて、あっという間に見えなくなった。


「どうする、コイチ」

「ハルもこの島にいる」

 ハルは隋兵に連れ去られたのだ。

 黒瀬川に呑み込まれた船に乗っていたのでない限り、たしかにこの島にいる可能性は高い。

 少なくとも、コイチはそれを疑っていないようだ。

「行くか」


 島には琉球人の集落がいくつかあるらしく、百人程度の島人が一箇所に集まっていた。

 彼らももちろん隋兵の蛮行は知っている。

 その隋兵の乗った船が、たった一艘だけ、この島の入り江に着岸した。


 朱寛は上陸早々、圧倒的なまでの殺意に出迎えられた。

 最強の武人である王震が脇に控えているとはいえ、さすがに数が多すぎる。

「鄭牙よ、ど、どうにかせい」

 貔虎使いの鄭牙を呼び寄せる。

 頼みとする子龍もすでになく、貔虎も残り一頭、これでどうにか隋まで生還しなければならない。


「お任せを」

 鄭牙も、手塩にかけて育てた十数頭の貔虎と、その使い手を黒瀬川に失ったばかりだ。

 無念の思いが、次第に怒りにかわってきた。

岑神しんしん、喰わずともよい、ただ殺せ」

 生涯の最高傑作と自負する、ひと際巨大な体躯を誇る貔虎を鼓舞する。

「たった百や二百の人間、思う存分に蹂躙してみせましょう。ヒヒヒヒ。――行け!」


 猛獣は放たれた。

 体高だけですでに大人ほどもある。

 それが、のそりのそりと、島人たちの集団の方へ向かってくる。

 島人たちは、竹槍で武装しているものの、すでに貔虎の気に呑まれている。

「化け物だ」

「あんなの、勝ってこない」


             ☆  ☆  ☆


「待ってくれ、コイチ」

 すいすいと森の中を駆けていくコイチに、イザヤは追いつけなくなった。

 熱帯性の濃い密林の中、確かに身体の小さいコイチの方が走るのに有利だったが、それにしてもおかしい。

 イザヤは自分の身体をいぶかる。

 まるで、身体を構成する組織ごと、ごっそりと入れ替わるような違和感。

 ふいに強烈な嘔吐に襲われた。

「コ、イチ……」

 その声は前を走る相手には届かなかった。

 イザヤは台地に倒れ伏す。


             ☆  ☆  ☆


 百人ほどの塊の中から、何人かが逃げ出した。

 それを咎める余裕すらない。

岑神しんしん一頭で片が付きそうですな」

 鄭牙は余裕の表情である。

 島民を殺しつくし、あとはゆっくりと船の修理をすればいい。

 朱寛もようやく愁眉をひらく思いだった。

「――?」

「なんだ、あの小僧は」


 すでに十メートル程の距離に迫っていた貔虎と島民のあいだに、立ちふさがるものがあった。

 コイチだ。

 両手を広げ、決然たる眼差しで貔虎に対する。


 その体格差は圧倒的だ。

 貔虎としても、餌にするにはあまりにも小さすぎる。

 歯牙にもかけない、といった感じで、避けて前に進もうとするが、コイチがそれを許さない。

「お前なんか怖くない」


 言葉が分かるわけではもちろんないが、貔虎は血を思わせる赤い口腔を目一杯開け、邪魔者を威嚇してみせる。

「怖くないぞ。ハルを助けるんだ!」


 貔虎は今度は思いっきり吠えてみせる。

 大地を震わせるような咆哮。

「怖くないって言ってるんだ!」

 コイチは叫びざま、右手にしていたものを虎の口に突っ込んだ。

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