第41話

 虎のような猛獣に腕をかまれた場合、慌てて手を引っ込めるのはよくないとされている。

 鋭利な牙に肉をそがれて、結局食べられてしまう。

 最前の対処法は、むしろ腕を突っ込むのだ。

 そうすれば、あと反応は虎も人間も同じだ。

 喉の奥まで侵入したそれを、虎の自律神経は異物と判断し、吐き出そうとする。


 コイチとしてはそこまで考えての行動ではなかったのだが、結果として最善の行動をとったことになった。

 浜まで駆け降りてきて、コイチはそこに異様な生き物を見出した。

 倭国にもちろん“虎”は生息しない。

 ここまで巨大な陸上生物も、コイチは初めて見た。

 だが難民船で逃げてきた南島人から、隋人が使役する“人食いの化け物”の話しは聞いていた。


 ――自分が何とかしなきゃ。

 コイチの脳裏にひらめくものがあった。

 最初に遭難した小島での出来事。

 竹に花が咲くととんでもない化け物が現れる。

 ――自分があんなものを見つけてしまったばっかりに。

 10才の子供らしい短絡的な発想で、コイチは貔虎ひこの前に飛び出したのだった。


 コイチはまもるゆずりの“隼人の盾”を構える。

『隼人は宮廷の守護人』

 護はそう言っていた。

『分かってるよ。山幸彦だろ。俺の村からも、ヤマトの宮廷に仕えるために、村から出ていった兄ちゃんがいるからな』

『いいや、分かっておらぬ。宮廷とは、単なる宮廷にあらず。それは国であり、君であり、民である。それを忘れるな』

 国も、君も、コイチにはいまだ理解しがたい言葉だが、民なら、分かる。


 いま目の前で、虎に怯えている人たちだ。

 それを守るのが、隼人だ!

 コイチは盾を構えつつ、じりじりと距離を詰めていった。

 その盾すらも貫かんばかりに放射される圧倒的な殺気。

 怖気そうになる身体を励まして、コイチは右手の貝斧を握り直す。


 貔虎は円弧を描くように、コイチの周りをまわる。

 ぐるりと一周めぐって、隙を見出せないと見るや、無造作に前脚を振るう。

 仕草こそ、毬で遊ぶ猫そのものだが、その巨体である。

 コイチの構える盾はあっさり吹き飛ばされた。


 ――怖くない。

『よいか、盾を失ったら、つぎは鉢巻を思え』

『ただの布切れじゃないか』

 コイチがそう言うと、護からしこたまに殴られる。

『馬鹿もん! これがどういう意味か、貴様は知らんのか。まったく、どういう教育を受けたんじゃ。親の顔が見てみたいわい』

『わかんないよ。父ちゃんも、母ちゃんも、早くに死んじゃったし……』

 コイチが寂しそうにつぶやくと、筋肉の塊のような護もすこしばかりたじろぐ。


『えー、おほん。まぁ、それはいい。これはな隼人にとって欠くべからざるものじゃ。仮に将来、おぬしが大和の朝廷に仕えることがあったら、都人からこう呼ばれるじゃろう。“狗人”』

いぬ?』

『そう、狗。わしらは犬なんじゃ』

『やだよ、そんなの。馬鹿にされてるじゃないか』

『そうではない。わしらはまさしく犬なんじゃ。遥かな昔、犬と娘の間に生まれた種族。それが隼人。――犬はどんな相手にも立ち向かっていく。小山のような荒ぶる牛や熊が相手でもな。己の死生を顧みず、戦うと決めたら、最後まで戦い抜く。それこそが狗人!』

『………』

『鉢巻は、もとはといえば、狗頭を隠すために巻いたのじゃ。そのことを忘れるな』


 ――怖くないぞ。

 牛だろうと、熊だろうと、虎だろうと、それに立ち向かっていくのが、隼人だ。

 虎がおもむろに前肢を伸ばし、コイチの顔面をひっかく。

 鉄製の刃物を思わせる爪は、コイチの額に巻かれた鉢巻をブチリと引き裂いた。


『盾も、鉢巻も、のうなっても、まだ狗声というものがある。それは隼人の魂の雄叫びじゃ』

『………』

『それは邪気を払い、敵を退け、世を安泰たらしめる。大和の者どもが、隼人を宮廷の守護人として重宝するゆえんだ。ほれ、やってみい。己を狼と思いさだめ、大地を、大気を、敵の心魂を、震わせるのじゃ!』


 ――ウォオオオォォォ‼

 コイチは叫ぶ。

 もはやコイチと虎のあいだに遮るものはない。

 天に仰向き、生き物の弱点ともいうべき喉をさらけ出して、声を限りに、吠える。

 それに呼応するように、虎も吠えた。


「怖くないぞ」

 虎は島全体を震わさんばかりの雄たけびをひとしきりあげると、一転して静かにコイチを睨んだ。

「怖くないんだ」

 コイチは一歩も引かない。

 虎はまたかすかにうなりを上げる。

 それはもう威嚇でもなかった。

 すでに何百人もの人間を食らいつくしてきたであろう、血に染まったような口腔を思い切り開けると、コイチに襲い掛かる。


「怖くないって言ってるんだ!」

 コイチは右手を突き出した。

 貔虎の口の中に思いっきり手を突っ込む。

 口を閉じる暇もなく、虎は思わずのけぞる。


 虎の鋭利な牙がコイチの腕をひっかいた。

「ぐうっ」

 コイチは腕を突き出すさい、あるものを握っていた。

 “スイジガイ”だ。

 裴洋に弩を突き付けられ、投げるに投げれなかった貝殻。

 自分の臆病の印。

 それを虎の喉の奥に突っ込んでいた。


 虎としてはたまったものではない。

 巨体を震わし、暴れまわる。

 コイチは吹き飛ばされた。


 貝殻をやっとのことで吐き出し、貔虎は嚇怒の表情でコイチをにらみつける。

 コイチはというと、盾もなく、鉢巻もほどけ、貝斧もどこかへ失くしている。

 ――ハル。

 コイチは目をつぶる。

 虎がコイチを一飲みにしようとした時、シュルシュルと何かが飛んできた。

 貝斧だった。

 赤ん坊の頭ほどもあるそれは、あやまたず虎の口腔にカポッとはまる。


 いつまでたっても虎が襲ってこず、コイチがおそるおそる目を開けると、そこに見出したのは狼狽する猛獣の姿だった。

 さすがの貔虎でも、石に勝るといわれるシャコ貝を嚙み砕くことはできなかった。

 誰が投げたのか。


「ふんぬっ!」

 気合とともに現れたのは護だった。

 必死に貝を吐き出そうとしている虎の頭部を、護は右肘と右膝で上下から挟み撃ちにする。

 貝が虎の口腔内で砕け散る。


「コイチよ、ようやった。あとは任せよ」

 護が見えを切ると、虎が雄叫びを上げる。

 びりびりと空気が振動するようだった。

 渾身の一撃だった。

 じっさい虎の口からは血が流れ出ている。

 だが戦意を喪失させるまではいかなかったようだ。

「まいった。さすがに虎とは戦ったことないからな、ワシも」

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