第42話

 護はちらと背後に目をやる。

 コイチはけなげにも立ち上がり、虎をにらみつけている。

 右手には柄だけになった貝斧を握り、その眼中には護のことなどないかのようだ。

 あるいはコイチを引っ担いで、逃げようかとも考えていたのだが、これでは梃子でも動きそうにない。

 ――やれやれ、ワシがとった最初にして最後の弟子が、とんだ跳ね返りものだった。


 ――だが、死なすわけにはいかんか?

 護は瞬時、迷い、自らに問いかける。

 ――よいのか、護よ。こやつの言う通り、こやつが本当にあのソバカリどのの血を引くというなら、あるいは将来、隼人に仇なす存在となるやもしれん。無用の波風を立てるかもしれん。コイチには無残じゃが、ここで死ぬのが運命だったのかもしれんぞ。


 護はもう一度愛弟子の姿を見やる。

 右腕が大量の血で真っ赤に染まっている。

 虎の口に手を突っ込んだときについた傷口だろう。

 禍々しいまでに赤い色。

 隼人史上最大の英雄にして、裏切り者、ソバカリ。

 その直系の血。

 隼人族出身者にして大和朝廷の大臣の位にまで登りつめたソバカリ。

 だが奴は隼人を裏切った。

 そして大君(天皇)をも裏切って、“帝崩みかどかたぶけ”を実行した。

「………」


 護は不意におのれの頬を叩く。

 ――ええぃ、何を情けないことを考えておる! 隼人たるもの、後顧を考えるな! 前進あるのみ! この小童がいかに大乱を呼ぼうと、その時はその時じゃ。今、眼前の敵から逃げるわけにはいかんじゃろ、ワシ!


 護がようやく腹をくくり、短く狗声を発すると、貔虎にかすかな変化があった。

 口から血と涎をたらし、こちらの隙を窺っているのは同様だが、攻める隙というより、距離をとろうとしているかのようだ。

 ――ウォォォオオゥ‼

 ためしにと、特大の狗声をみまうと、貔虎はぎょっと飛び退る。


 護は気付く。

 いつの間にか自分たちの背後に、島民たちが集まっていた。

 先ほどまで怯え戸惑うばかりだった島人。

 それがおのおの竹槍を構えて、虎に立ち向かおうとしている。

 その数およそ百人。


 コイチを要に、島民たちは扇を開くようにじりじりと包囲の陣をしく。

 貔虎はたまらず虎使いのもとへと逃げ出した。

 朱寛が剣を片手に怒り狂う。

「鄭牙よ、これはどういうことだ!」

「も、申し訳ありません。貔虎というものは、逃げ惑う敵にはすこぶる有効なのですが、いったん歯向かわれると、脆いものなのです。しょせんは食欲に駆られて人間を襲っているだけでございまして、食欲よりも、生存欲が勝ると申しますか――。つまりこれが、貔(戦場で使役する猛獣)が古代以来廃れてしまった原因なわけでございまして、ヒ、ヒヒ――」

 鄭牙の言い訳は、火に油を注ぐことにしかならなかった。

「王震、こいつを殺してしまえ!」

「ひぃっ、お助けを!」


「コイチ……」

 貔虎を退け、護がほっと一息つくと、コイチはなぜか前方を睨んだままピクリともしない。

「?」

 不審に思いコイチの目の前で手を振ると、コイチは立ったまま気絶していた。

 そのまま仰向けにぶっ倒れてしまう。

 護は苦笑する。


「南島の島人に、竹槍を持たせ、虎に立ち向かわせたのは、すべてお前のなしたことだ。お前の勇気が、島を動かしたのだ。しかしあえて小言を言わせてもらえば、あまりに無謀、あまりに無茶……」

 護は説教を始めるが、コイチは貝殻のように固まったまま目を覚ます気配もない。

 護はかぶりを振る。

「すまんが、誰かこいつを介抱してやってくれ」

 その言葉で、島民が我も我もとコイチを担ぎ出す。

 まるで神輿か何かのように、後方へ運ばれていった。


 護はあらためて隋軍に鋭い目線をおくる。

「さてと、次はどう出る。大陸の者どもよ。――?」

 護が気付くと、イザヤが隣に立っていた。

 顔色の悪さが尋常ではない。

「大丈夫か?」

「あぁ。コイチが活躍したようだな」

「英雄の器じゃよ。あいつは。それが吉と出るか、凶と出るかは、わからんがな」


「人の数では、こちらがだいぶ上回っているが――」

 イザヤが苦しそうな声で言う。

 隋兵は見たところ、百人程度。

 島人はその倍ほどはいるだろう。

 といってその半数以上は、女子供や老人でしかないが。

「数の差など無意味だ。向こうは兵士。こちらはただの漁民。武器からして違う」

 戦える人間といえば、シコメ水軍しかないが、あいにく今は、シコメの引退宣言等もあって、大幅に戦力が減じている。

「万事休すというとこだ」

「あれは――」

 ふとイザヤが海岸に目をやった。

 砂浜に一艘の小舟がのりあげるところだった。


「なんだ、どうなってる?」

 砂浜に降り立ったのは、イサフシとクモミズ、そしてその配下の3人だった。

 巨大凧につかまって隋艦を脱出し、ようやく仲間に助けられ、この島に戻ってきたのだった。

「隋の船はあの一隻か?」

「何蛮め、うまくやったようだな」

「艦隊ごと黒瀬川に葬り去る。無茶苦茶な作戦だな」

 あの後イサフシから説明を受けてはいたが、実際にたった一隻だけになった敵の姿を見ると、背筋に寒気がはしるクモミズだった。

「残りはあいつらだけか。十、二十、……百、そのくらいか。頑張れば、何とか勝てそうだな」


「くそっ」

 クモミズの表情が強張る。

 その視線の先には、全身に刀創を刻んだ男の姿があった。

「あいつだ。名前は王震」

「お前を子供扱いしたやつか?」

「………」

 クモミズの表情が屈辱にゆがむ。

「イサフシさんでも、勝てねぇ」

「それほどか」

「あいつひとりで、ここにいる全員殺されかねない」


 イサフシが目をやると、クモミズがかすかに震えているのが分かった。

 嵐にすら平気で立ち向かっていく義弟だ、それがここまで怯えているのを、イサフシは初めて見た。

「といっても、戦わにゃならんだろーな」

 イサフシはのんびりと隋軍の方へと歩いていく。

「お、おい」

 クモミズが慌てて追いつくと、

「これ以上の血はもう流したくない。――これからあいつらにサシでの勝負を申し入れる。向こうとしても、あれっぽっちの戦力で琉球を征服しようなんざ、もう考えていないだろう。お前の仇はとってやるよ」


 イサフシとクモミズは、隋軍の前に立ちふさがると、互いに代表者を出し合っての一騎打ちを申し込んだ。

 朱寛は怒りに表情をゆがませる。

「一騎打ちだと、三国志の時代にでも戻ったつもりか!」

 といって、朱寛としても、もはや手持ちの駒はわずかしかない。

 この島くらいならなんとか征服できるだろうが、それがなんになるのか。

 作戦の失敗はいかんともしがたい。

 皇帝の怒りは怖いが、ここで殺されるのも怖い。


 悩みに悩んでいると、周囲でざわめきが起こった。

 何事かと海に目をやると、一艘、新たな船が入り江に近づいていた。

「おぉ!」

 朱寛が喜びの声を上げる。

 黒瀬川から逃れえた船がもう一艘あったのだ。

 そして船上には頼もしい姿。

 子龍、そして茴那に猪利祖も。


 子龍が船から降りてきて言う。

「時間稼ぎを。艦の大半は潮に流されただけで無事でございます。いましばらく持ちこたえれば――」

 朱寛は獰猛な笑みを浮かべる。

 宣言する。

「よかろう! 一騎打ちといったな、受けてやろうではないか!」

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