第49話

「卑怯だぞ!」

 突然叫びだした10歳の少年に、朱寛は目を丸くする。

 言葉は分からないが、何となく想像はつく。

 約束を破ったとか、そんなところだろう。

 朱寛はほくそ笑む。

「小僧よ、戦争とは勝つためにやるのだ」

 独り言のように言うと、再度軍隊に前進を命じる。


「よせ、コイチ」

 イザヤたちが慌ててコイチに駆け寄る。

 一人でも突っ込んでいきかねないコイチを、護が抱きかかえる。

「放せ、あいつら卑怯だ!」

 琉球人たちは砂浜の反対側に辛うじてとどまっているが、それは逃げなかったのではなく、逃げる場所がないのを知っているためだ。


 コイチはなおも護の腕の中で暴れまわる。と、

「待ってくれんか」

 一人の老人が現れた。

「あんたは?」

「申し遅れた、この島の長でございます」

 老人の皺深い頬にはすでに涙のあとがある。

「そなたら島外の者が、命を張ってこの島を守ろうとしてくれたこと、まっこと、感謝しております」

 老人はイサフシやクモミズ、コイチたちに順繰りに頭を下げる。

「本来ならば、最初からこうすべきであった。――わしの首を差し出す。それでなんとかお引き取り願う。いくら大陸の者とて、むやみやたらと人殺しなどせんはずじゃ」


「甘いぞ、爺さん」

 イサフシが強い調子で言う。

「そんなことで満足するなら、最初から軍など起こさん」

「じゃが、試してみる価値はあろう」

 老人はすでに不退転の覚悟を決めているようだった。

 それを見て取ると、イサフシは、

「ならば俺の首も持って行け。隋人を殺したのは俺だ」

「そんな、なら、俺だって……」

 クモミズも声を上げる。

「じゃあ、この三人か?」


 老人、イサフシ、クモミズ、その三人が首を差し出すことで、他の者の命を救う。

 ほとんど絶望的ともいえる交渉だった。

「嫌だ! なんだってあんな卑怯な奴らに!」

 静かに歩きだした三人の背中を見送って、コイチだけは納得できないようだった。

「コイチ、堪えろ。この世の中には堪えねばならんこともある」

「嫌いだ! 護のおっちゃんなんか! 師匠でも何でもないや!」


 今さら何の交渉事か、倭人三人が揃って進み出てきたのを見て、朱寛と子龍も一応前へ出る。

「降伏する」

 開口一番、老人が口にした。

「降伏だと? 何のことだ」

「わしら三人が首を差し出す。それで満足してくれ」

 イサフシに通訳を頼み、老人は必死の形相だ。

 朱寛は嘲笑う。

「何か勘違いしているようだな。わたしはこの島“だけ”が欲しいのだ。白砂青松、いや、白砂青椰子、か? まさに陛下の夏の離宮リゾート地にふさわしい。原住民などというゴミは、一掃しておくに限る」


「貴様ぁ!」

 クモミズが激昂する。

「おっと、なんだ? 降伏に来たのではなかったのか?」

「頼む!」

 老人がバッと地に伏せ、土下座した。

「軍を引いてくれ! 島民には何の罪もないはずじゃ!」

「罪はあるぞ。――存在することだ」


 朱寛に襲い掛かろうとするクモミズを、イサフシが必死に止める。

「ふふん、言いたいことはそれだけか?」

「よせ、コイチ!」

 制止する護の声とともに、コイチが現れた。

「なんだ、今度は、子供まで首を差し出すというのか?」


「おっちゃん、言葉を伝えてくれ」

 コイチはイサフシに言い、そして朱寛をにらみつける。

「お前らなんかに降伏しないぞ!」

「はっはっは。琉球は子供の方が威勢がいいようだな」

「調子に乗っていられるのも、今のうちだ」

 朱寛はいたぶるような笑みを浮かべる。

「ほう、ではお前が戦うのか? この一万の兵と」

 コイチはぐっと言葉に詰まる。

 朱寛の背後には整然と並んだ兵士の姿があり、それがかかげる一万本の槍の穂先が林のように揺らめいている。

 通訳しながら、イサフシは痛ましげな表情になる。

「もういい。コイチだったか? 俺たちは負けたんだ」


「負けてなんかないや。こっちにはまだ秘密兵器があるんだ! お前らなんか、一瞬でボコボコだ!」

 朱寛は一瞬きょとんとした表情を浮かべ、ついで爆笑する。

「では早く見せてほしいものだな、その秘密兵器とやらを」

 言われて、コイチはあたりをきょろきょろと見まわす。

「えーと、えーと」

 その切羽詰まった仕草から、何も考えずに口走ったのは明らかだった。

「どうした、しばらく待った方がいいか? 大人は忙しいんだぞ」


「あ――!」

 コイチは砂浜を囲む森の中にあるものを見つけて、思わず声を発した。

 その場の全員がコイチの視線につられる。

 ひょっこりと木立の上から姿をあらわしたのは――

「なんだ、あれは。鼠、か?」


 藪の中から鼠がひょっこりと姿を現す。

 にょきっと次に出てきたのは、ハルだった。

 鼠はハルの頭に乗っていた。

「ハル!」

 コイチが叫ぶ。


 ぬん、と最後に出てきたのは裴洋の付き人、爺である。

 鼠がハルの頭に乗り、ハルが爺に肩車されている。

「おぉーい! みんなー!」

 状況が分かっているのか、分かっていないないのか、ハルはいたって能天気に手を振ってみせる。


「はは、秘密兵器とは、あれのことか?」

 朱寛は言ってみせるが、あれが“嵐を操る少女”であるのは百も承知だ。

 かすかに表情がゆがむ。

「大した増援だな」


 スポッとハルはいったん木立の中に埋没した。

 ゴソゴソと木々が揺れ、砂浜に降りようとしているらしい。

「バカ、ハル! こっちくんな! 逃げるんだ!」

 コイチは声を限りに叫ぶ。

 言葉が届かなかったのか、ハルが爺に肩車されたまま海岸に姿をあらわしてしまった。

「逃げろったら!」


「友達がたくさんいたよー!」

「チュウ!」

 ハルの頭上で鼠が誇らしげにひと鳴きする。

「?」

 ド、ド、ド――

 コイチを始め、その場の全員が何か異変を感じた。

 ハルの背後で、森の木々がかすかだが揺れている。

 それも一箇所ではない。

 ド、ド、ド、ド!

「な、なんだ……」


 ドウッ‼

 森を割って、それは現れた。

 鼠の大群だった。

 数千、数万、数十万――

 ハルを先頭に、数えるのも愚かしいばかりのネズミの群れが、怒涛のごとく森から奔出してくる。

 土下座をしたままだった島長の老人が、腰を抜かしてつぶやく。

「ウ、ウミネジンじゃ」

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