第15話
翌日は快晴に恵まれた。
絶好の出航日和である。
コイチが天幕から這い出てくると、すでにイザヤが起きていて、焚火の後始末をしている。
「遅かったな」
「ふわー、よく寝た。さぁ、さぁ、おっちゃん、さっさとハルを助けに行くぞ!」
ふて腐れていたことなど、すでになかったことになっている。
「つってもハルは、誰に、どこに連れていかれたんだっけ。そもそもここってどこだ?」
「連れ去った者たちは、自分たちのことを“オキナガ”と呼んでいた。そしてこの海は琉球というのだそうだ」
「ゲッ、琉球! そんな南まで流されてたのか。戻れんのかな……」
さっきまでのカラ元気はどこへやら、急に現実的になる。
「オキナガというのに心当たりはあるか?」
「あぁ、俺のクニの北にある、ツクシのやつらだ」
「おそらくハルは、そこへ連れていかれたのだろう」
「よーし! じゃあ決まりだ!」
コイチはイザヤに作ってもらった貝斧の柄を腰の帯にさす。
まさかこんな形で使うことになるとは思っていなかったが、たとえ大人が相手でもこれで戦ってみせる覚悟である。
ふとイザヤが、眉根を曇らせて口を開く。
「ちなみにだが、そのツクシという国は、倭国とは離れているのか?」
「へ?」
素っ頓狂な質問に、コイチは目をぱちくりとさせる。
「全部をあわせて倭国ってんだ。ツクシも、サツマも、オオスミも、行ったことはねーけど、ヤマトも。それを全部ひっくるめて、倭国」
「そ、そうか」
イザヤの顔にはなぜか煩悶が浮かんでいる。
倭国、もともとそれがイザヤの目的地だったのだ。
隋の煬帝という暴君から逃れ、追い詰められるかたちで東方海上にあるというその国を目指した。
その途上で、意見を違えたイザヤは嵐の海に突き落とされ、弟のレメクは彼の国を“安住の地”にすると宣言していた。
そこに向かうとなれば当然、弟たちとの再会が予想される。
果たして自分はそれを望んでいるのか。
遭難した当初は必死に否定していたものの、やはり自分は“司牧者”として完全に見限られたのである。
妻と子からさえも冷たいまなざしを向けられた。
イザヤの心臓を躊躇いの針がチクリと刺す。
まるでそれは自分の右腕の武器のようだ。
それは目に見えないところで内出血を強い続ける
今さら一体どの顔をして弟たちと会えというのか。
「………」
だが、わずか10歳のコイチでさえ、愛する者のために行動を起こそうとしているではないか。
大人の自分がイジイジと悩んでどうする。
「おーい、おっちゃん、もう準備できたぞ!」
あらめて自分を叱咤するとイザヤは、コイチとともに船に乗り込んだ。
船が音もなく離岸する。
およそ二週間におよぶ無人島生活だった。
太陽の位置で方角を確認し、コイチと二人で櫂をこぐと、サンゴ礁に囲まれた島は徐々に小さくなっていった。
前途は渺々として、ちっぽけな家船ではいかにも心もとないが、臆するわけにはいかない。
と、いくらも進まないうちに、船底を魚影のような黒い影がかすめていった。
――イザ、イザ、イザ。
自分の名前を呼ばれたような気がして、イザヤが海底を覗き込むと、魚影と見えたそれは、人間の黒い手の群れのようだった。
「コイチ、これはなんだ!」
「うげっ、気持ち悪っ」
「いや、そういう問題じゃないぞ」
がくんと、身体で感じれるほどに、黒い手でできた潮の流れに乗って、船は船足を速めた。
「なんだ、これ。黒瀬川じゃないみたいだけど」
「とりあえず進行方向ではあるな」
櫂を漕ぐ必要さえなくなっていた。
まるで導いてくれるように、黒い潮流は北へ向かっている。
いまのところ、害をなすものではないようだった。
北へ向かってくれる以上、二人はしばらく船を委ねることにした。
☆ ☆ ☆
一方その頃、とある島は歓喜に沸き立っていた。
十数艘の船によってゆっくりと曳航されるのは、抹香鯨の死体。
その黒々とした頭頂部に座って、声をかけているのはイサフシである。
「痛かったろう。勘弁してくれよな」
愛する女の髪でも愛でるように、鯨の肌をなでてやる。
“たたり鯨”となれば殺さざるをえないのだ。
でなければ人間の方が干上がってしまう。
鯨は鼻弁の開け閉めで潜水と浮上をおこなう生き物だ。
その鼻弁を切ってしまえば、鯨は窒息死してしまう。
とどめの一撃を意味するその“鼻切り”を行ったのはイサフシ本人だった。
「お前の“幸”によって、この島は当分食い物に困らねぇだろう。お前の命が、数百の命を養うのだ。感謝している」
「イサフシさーん!」
「きゃー、男前ーっ! こっち向いて―!」
「あんたは浦の救い主だー!」
イサフシは歓呼のうちに迎えられた。
それで有頂天になるようなイサフシではないが、浜に降り立つと、しかし別の知らせが待っていた。
「イサフシさん! 大陸のやつらが攻めてきた!」
「なんだと!」
たしかに今、倭国を取り巻く国際情勢は不穏である。
倭国は新羅をうかがい、隋は高麗を標的と定めている。
いまにも国の存亡を問うような大戦が勃発しても、何ら不思議ではない。
だが隋が直接琉球に攻めてくるとは、想像もしていなかった。
「クモミズさんがひとりで戦っている。はやく加勢に――」
「クモミズか――」
イサフシの脳裏に、この豪傑を絵にしたような“義弟”の姿が浮かぶ。
「確かに心配だな」
どんな危険であろうと、後先考えずに突っ込んでいく――、それで付いた“雲不見”という名前である。
「分かった。すぐに向かう。――あいつめ、死ぬなよ」
妹の婚約者をみすみす見殺しにするわけにはいかないイサフシだった。
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