第32話

「隋の者か?」

 イサフシ、シコメと何蛮は、互いに初対面だった。

 初対面だが、その身にまとう甲冑で隋兵だということは分かる。

「そいつ、ひとりだよ。一人で攻めてきたんだ、やっつけちゃえ!」

 イサフシたちを見て安心したのか、翁の面の子供が調子づく。


「なるほど、確かにひとりらしいな」

「漢語が話せるのか。なら都合が良い」

「てめぇ、何の真似だ」

 怒を発するイサフシに対し、シコメはどこか変な様子だ。

 あるいは子龍のことでも考えているのか。

「待て、戦いに来たわけではない」

「んだと」


              ☆  ☆  ☆


 小さな島に悲鳴がこだました。

 木立の中から赤ん坊を抱えた母親が飛び出してくる。

 必死の形相で振り返ると、人間の腕らしきものを咥えた貔虎ひこがのそりと姿をあらわす。

 よりうまそうな人肉、と見定めたのか、喰いかけの腕を捨てると、母子へ襲い掛かる。


              ☆  ☆  ☆


 無数の小舟が北へと逃げていく。

 まるで捕食者から逃れる小魚の群れのようだ。

 それに逆らうように10艘ほどの船団が一つ、海域に留まり続けている。

 その舳先に立つのはクモミズだ。

 海の彼方を睨み殺さんとでもするように見つめている。

「クモミズさん、まさか戦う気じゃ。イサフシさんからは――」

「言うな。それ以上言うと、お前を殺したくなる」


「いや、言う。どうせこのままでも大陸の奴らに殺されるんだ。クモミズさん、さすがに無茶だ。敵は一万もいるって話しだぞ。こっちは百人足らず。どうやって戦うんだ」

「策は練ったはずだ」

「あぁ、だけどそれは相手をかく乱させるだけの策だ。後に続く倭国軍がなければ、すぐに立て直されて終わりだ。今はとにかく、イサフシさんを信じて待とう」


 と、一艘の小舟が漕ぎ寄せてきた。真っ青な顔をした男がひとり乗っている。

「あいつらと戦うつもりですか!」

「そうだ。だったらなんだ」

「お願いいたします。わたしも連れて行ってください! 妻と、娘と、はぐれてしまったんです――。お願いします。わたしにも武器を取らせてください」

 30歳くらいの男は必死の形相だ。


 仲間はクモミズの不退転の決意を見て取った。

「クモミズさん」

「心配するな。俺だって一万を相手に喧嘩するつもりはねぇ。様子を探るだけだ」

 仲間は爪を噛む。

「チクショウ。イサフシさんはどこに」


 クモミズたちは南下を始めた。

 難民船が陸続と流れてくるため、方角に迷うことはない。

 やがて、水平線上に何条もの黒雲が立ち昇るのを認めた。

 周囲数キロほどの小島。

 集落が燃やされていた。

 クモミズたちは上陸する。


「くそ、誰もいやがらねぇ。島民も、敵も。去った後か」

「なんだってこんな小さな島を。何の価値もないだろ」

「奴ら、根絶やしにするつもりだ。南島のすべての島々を」

「ん?」

 木立の向こう側で何か気配がした。

「あっちだ!」


 クモミズたちが島を横断すると、一艘の船が着岸していた。

「なんだ、ありゃ」

 巨大な生き物が砂浜で“食事”中だった。

 貔虎ひこ

 その喰らうは人間。

 鞭を手にした隋兵が、なにやら猫なで声で虎に話しかけている。


「どうした、もう満腹か、ん?」

 虎はもう自分が食い散らかした死体に見向きもしない。

「そうかそうか、腹いっぱいか。しょうがない子だ。だがこの島ももう征服し終えたな。鄭牙さまのもとに戻るか」

 極端な猫背の虎使いがふと船の方に目をやると、水夫たちが騒いでいる。

 指を差して、視線を促すようだ。

 振り返ると、100人ばかりの男が殺到してくる。

「――ウゲッ!」


 この小島にはもう人はいなかったはずだ。

 見ると全員が何かしらの武器を持っている。

 島外からの救援か。

 あるいは倭国の軍隊が動き始めたのかもしれない。

 遊びすぎた。

 少しばかり反省し、虎使いは鞭を振るう。

 貔虎ひこの方も心得たようで、膨れた腹をゆすってのそりと動き出すと、船の檻へ戻っていく。


 クモミズたちは一歩及ばなかった。

 虎を収監させた船はするすると海に滑り出している。

 砂浜には臓物を食い荒らされた死体が一つ残されたのみ。

「ふふ、遅かったな、倭人ども。ここらの島々はすべて陛下の所有物となった。いくつかは別荘地となるかもしれん。歴代の皇帝の中でも、常夏の別荘地を持ったお方はいなかった。まさに壮挙! わたしは、邪魔なごみを――、取りの――」

 虎使いの男は最後まで言い切ることができなかった。

 クモミズが配下の銛をひったくると、投擲したのだ。

 捕鯨で鍛えた銛投げ。

 あやまたず、銛は猫背の虎使いの胴体を甲板に縫い付けた。


              ☆  ☆  ☆


「お前に協力しろだと」

「そうだ。というより、お前たちにはそれしか選択肢がない」

 イサフシは相手の真意がつかめない。

「イサフシ、といったな。漢語が話せるなら、隋帝国の力のほどは十分に理解しているはずだ」

 分かっている、分かっているからこそ、中央にコネのあるシコメをこうして頼ろうとしていたのだ。


「倭国の軍隊を動かしても無駄だぞ」

 見透かしたように何蛮が言う。

「倭国の国力がどれほどのものかは知らぬが、それでも所詮は島国。比較になるまい」

 口惜しいがその通りだろう。

 今回ばかり倭国の援軍を頼って追い払えたとしても、相手はさらに50万、100万の増援を送り込むことができる。

「はえだ」

「ん?」

「蝿。追い払っても追い払っても、まとわりついてくる」

「どう罵ってもらっても構わない。だがそれが現実だ」


「なぜお前はそのようなことを言ってくる」

「なに、俺も、つい数年前までは蝿にたかられる方だったのでな」

「どうしろと」

「俺の策に手を貸せ。人死にはだいぶ出るが、他に方法はない」

 あまりに重大な申し出だった。


「隋の主力軍を手頃な島に誘い込む。あとは我ら海人が梯子をはずし、せん滅するだけだ。そのためには餌となりうる島が必要だ」

「その島、人が住んでいる必要はあるのか」

「無論だ。でなければ餌にならない」

「そこの島民たちはどうなる。集落は」

「相手も死に物狂いで暴れまわるだろうからな。全滅は覚悟してもらわねばならん」


「ふざけるな、そんな話し、信用できるか!」

 激高したイサフシが何蛮に掴みかかる。

「お前の立場ならそうだろうな。俺の故郷も、胡人どもに焼き尽くされた。そして今では、敵のもとで水軍をやっている」

 掴みかかった拍子に、イサフシの二の腕にある入れ墨が露わになった。

 肌一面入れ墨といったクモミズとは比較にならないが、イサフシのそれも蛇の鱗を象ったものである。


「お前も蛇か」

「………」

 何蛮は静かにイサフシの手をのけると、ゆっくりと振り返り、上半身の甲冑を脱ぎ始める。

 露わになったのは、背中一面に彫られた漢字一字の入れ墨だった。

 “蛮”。

 その漢字を構成する“虫”は、今では昆虫を意味するが、本来は鎌首をもたげた“蛇”を形象するものだった。

 何蛮の入れ墨の“虫”部分は、見事なまでに絵画的な“蛇”であった。


「北方の漢人や胡人どもから、蛮族と蔑まれた、これが俺の誇りだ」

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