第33話
空と海が幽冥のうちに溶け合い、ただゆらゆらと
夜の海は不気味なほどに静まり返っていた。
そこにあって、月を欺くばかりに輝く天体がある。
星と見えたそれは、かがり火であった。
朱寛の座す旗艦から凧が揚げられている。
その凧の下部には、足がわりに鎖がむすばれ、そこにかがり火の籠がつるされている。
はるか上空でわかりづらいが、おそらく凧もかがり火も、尋常でない大きさなのだろう。
数十キロ先からも旗艦の位置が分かるようになっている。
クモミズにはそれが幸いした。
襲撃してくれと言わんばかりだが、それだけ自信があるのだろう。
いや、舐められているといっていい。
クモミズたちはすでに、艦隊まで数百メートルのところまで迫っていた。
兵たちが上陸していれば、そのまま手薄な船を盗むなりなんなり出来たのだが、さすがに相手もそこまで愚かではなかった。
潮騒にのって、乱痴気騒ぎのざわめきがクモミズたちのところまで届いてくる。
時おり甲高い悲鳴が混じるのは、攫われた琉球の女たちだろう。
あの船の上では地獄絵図が繰り広げられている。
「クモミズさん、偵察だって約束だ。これ以上の接近は危険だ」
「待て」
クモミズのハラワタは煮えくり返った。
己の海が無残に荒らされている。
もはや一刻の猶予もない。
倭国に援軍を頼むといっても、どれだけかかるのか。
朝堂の意見を取りまとめ、船を造り、兵を集め――。
半年か、一年か、どうしたってそれくらいはかかる。
全てが手遅れだ。
「く、クモミズさん」
配下の一人がおびえた声をあげた。
その視線は海面に向けられている。
黒い影が船底を潜り抜けていった。
鱶(鮫)だ。
それもおびただしい数の。
クモミズは唇をかんだ。
血がにじむ。
こいつらは知っているのだ。
あの艦隊の周りをうろついていれば、絶好の餌が与えられることを。
餌とはつまり、連れ去られた琉球人や女たち。
隋兵は女たちを弄ぶだけ弄ぶと、あとは鮫の餌とばかりに海に投げ捨てていた。
クモミズの理性は消し飛んだ。
「逃げたい奴は逃げてもかまわん。無理強いはせん。腹がくくれたら、ついてこい。策などない。一人でも多く隋兵を屠る。それだけだ」
「クモミズさん」
「クモミズさん」
「ついて行きますぜ」
配下たちの間にクモミズへの賛意が静かに広がっていった。
逃げ出すものは一人もいなかった。
「あの凧を揚げている船だけは俺に任せろ。あそこにおそらく
☆ ☆ ☆
「しかし、なぜ上陸すら許されんのだ」
いかにも揺れない地面が恋しいといった風情で、朱寛がこぼす。
答えるのは子龍だ。
「琉球の者どもが、このままやられっぱなしでいるとでもお思いですか」
「奇襲か。というてもな、国家すらまともに形成しておらぬというではないか」
察しの悪い上官に、子龍は顔を近づける。
声をひそめると、
「何蛮の策を忘れたのではありませんでしょうな。この旗艦とて、水夫の半分以上は何蛮の息がかかっておる者ども。迂闊なことはできませぬ」
指摘され、朱寛はようやく顔を青ざめる。
「で、でじゃ、その肝心の何蛮はまだ戻ってこぬのか?」
琉球侵攻早々に、何蛮は別行動を申し出ていた。
本軍は南から徐々に北へ攻めあがっていく。
その逃げ道をふさぐため、そして倭国との連携を絶たんがため、先んじて北方で網を張っておく、そんな理由だったが、無論子龍としては信じていない。
「――ん?」
少し離れた場所に投錨している船から、喚き声が巻き起こった。
「なんだ、こいつ。味方じゃないよな」
甲板上に見慣れぬ男が立っていた。
隋兵の格好をしていない。
ならば琉球人か。
いつの間に入り込んでいたのか。
あるいは殺し損ねた奴だったか。
「お前らは俺の何もかもを奪い去った」
男が口を開く。
その表情は、虚ろを通り越して、死人のようだ。
言葉はもちろん通じない。
だがその醸し出す異様さは、取り囲む隋兵の動きを止めるのに十分だった。
男は両手に壺を持っていた。
液体が入っている。
隋兵は絶叫する。
「油だ!」
「火をつけるつもりだぞ!」
確かにその通りだった。
だがその方法が隋兵の想像を超えていた。
男はザブザブと頭から油をかぶると、腰につけていた箱を開ける。
そこには火種がしまわれていた。
「妻と、娘の、仇だ――」
甲板上に巨大な火の玉が出現した。
しかも生きて動き回る火の玉。
「殺せ!」
「殺せぇ!」
まるで命の火を消せば、炎も静まるとでもいうべく、隋兵たちは槍を繰り出す。
槍に刺し貫かれながら、男は帆柱に抱きついた。
火が燃え移る。
「なんじゃ、どうした、なにが起こっておる」
闇夜のなか、四方八方から混乱の様子が伝わってくる。
海面に潜んだ小舟から、陶器が投げつけられているのだ。
油入りの陶器だ。
「火責めだ!」
「落ち着け! 火をつけられねば問題ない。油は無視しろ。手筈通り、火矢の準備をしている奴を射殺せ!」
子龍が冷静に支持を飛ばす。
予期していたことだ。
赤壁の戦いを持ち出すまでもなく、船にとって火責めは弱点である。
だが艦隊にこっそり忍び寄ることまではできても、火をつけ、それを敵艦に射込むまでには時間がかかる。
ましてやこの闇夜。
種火の炎すら目印になる。
隋兵たちは子龍の指示に的確に従った。
海上に火の明かりが見えるや、数十人で一斉にそこに矢を放つ。
苦鳴とともに火矢が海に落ち、ジュウッと鎮火した。
――闇夜を選んで奇襲してきたらしいが、逆効果だったな。
それでも、いくつかの船から火の手が上がってしまった。
しかしそれへの対処もすでに指示してある。
初発の混乱はすでに薄らぎ、徐々に鎮静の方向に向かいつつある。
自ら火だるまとなった男の攻撃を受けた艦が全焼した以外に、これといった被害はないようだ。
奇襲があることを読み切り、さらにそれが火責めであることまで考えていた、子龍の作戦勝ちである。
――何蛮の仕業ではない。おそらくは現地人か。
奴ならこんな稚拙な方法をとらないだろう。
味方の裏切りを真っ先に思わなければならないとは、情けない限りだが、これが隋水軍の現実だ。
満足の態で子龍は四方を見回す。
ふと、視界に違和感を感じた。
見慣れぬ男がそこにいる。
「お前は……」
甲板のど真ん中に仁王立ちになっていたのは、クモミズだった。
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