第10話

 ――我が仔の血に染まった海をくぐったことはあるか。


 ――仔を失った母親の痛みが分かるか。


 ――ころす。


 ――コロス。


 ――殺す!


 相手を圧殺せんばかりに殺気を放つのは、鯨だった。

 その巨躯とは不釣り合いなほどに小さな目を、おのれと対峙する微小な生き物に向ける。

 豆粒かと思えるそれは人間だ。

「へッ、イオにしておくには勿体ねー殺気だな」


 後ろに結んだ長髪を海水に揺らめかせ、そううそぶいてみせるが、相手は視界を覆わんばかりの巨体だ。

 人間の男など、尾ビレのひと振りで簡単に殺されてしまうだろう。

 と、海上から一本の腕が延びてきて、男の長髪をむんずとつかんだ。

 海藻でも引っこ抜くみたいにして、男は船上に引き上げられる。


 釣り上げられたマグロよろしく漁船に横たわる男に――

「何考えてんすか! イサフシさん!」

「殺されちまいますよ!」

「バカ野郎。相手の面も確認しねーで、喧嘩が出来るかよ」

「喧嘩って、あんた……」

 助けるつもりでイサフシを引っ張り上げた男たちもあきれ顔だ。


 少し離れた場所に鯨が頭を出した。

 それを取り囲むように十数艘の漁船が航行している。


「ん?」

 イサフシはすぐ隣に浮かぶ漁船に目をやった。

 二十歳前後の若者6人が、俯いて座っている。

 叱られるのを待つ子供、といった体である。

 イサフシは船が転覆しそうになるのも構わず、そちらへ飛び移る。


 若者たちは仁王立ちのイサフシを前にしてより一層縮こまった。

 イサフシは怒髪天を衝くといった表情をしているのだ。

 無言のままにらみつけてくるイサフシに、耐えかねたようにそのうちの一人が口を開く。

「あ、あの、俺たち……」

 イサフシはそれを無視して、舳先の方へちらと視線を移す。

 銛が刺さったままの鯨の赤ん坊が転がっている。

 ピクリともしないところを見ると、すでに死んでいるのだろう。

 つまりはこれが、あの母鯨の仔なのだ。


 と、イサフシはおもむろに若者たちの頬を一人ずつ殴り始めた。

 バキッ、ゴツン、ドカッ――

 6人を殴り終えたところで、イサフシはコブシをさする。

 怒気を含んだ声で彼方を指し示しつつ言う。

「見てみろ」


 漁船の一艘が母鯨の尾びれにはね上げられ、漁師の一人が断末魔の叫びをあげていた。

「お前たちが面白半分に奪った命の――」

 今度は鯨は空中に跳ね上がり、おのれの数トンにも及ぶ自重で漁船を潰しにかかる。

 狙われた船は逃げる暇さえなかった。

「――これが代償だ」

 鯨と海面に挟まれ、数人の漁夫が一瞬にして命を落とした。


 別の船がイサフシの乗る漁船にこぎ寄せる。

 陽に焼けた老人が乗っている。

「お願いしますだ。なにとぞ、なにとぞ――」

「どうすんですか、イサフシさん」

「あいつはもう群れを離れ、タタリ鯨になっちまった。こうなりゃ、あいつが餓死するか、浦が滅びるか、ふたつにひとつだ」

「そ、そんな」

 老人が絶望に面を伏せる。

「イサフシさま、そこをなんとか、なんとか……」

「心配すんな。悪いのは人間だが、だからといって、このままじゃこっちの示しがつかねぇ、任せときな」


               ☆  ☆  ☆


「チクショウ。なにかあやかしの術を使うぞ、こいつ」

 シコメ配下のツラヌクは片眼から血を流しつつうめく。

「これで分かっただろう。同じ目にあいたくなければ、このコにはもう構うな」

 予想外の反撃にシコメは慌てる。

 剣を交えることすらなかったのだ。

 それで配下の最強の剣士たるツラヌクを失明させ、戦意喪失させた。

 まさに妖術としか思えなかった。

サカシ、どういうことじゃ、これは」

 戸惑うサカシを押しのけて、これまた短躯であるが、細身のサカシとは打って変わって横幅の厚い、筋肉の塊のような男がシコメに耳打ちする。

 名をマモルといった。


 シコメはニタリと笑う。

「フフン、外国人トツクニビトよ。あまり海の男の“眼”を舐めぬほうがよかったな。漁師はな、数里先の海面のほんの小さな変化まで見分けねば、生きていけぬのだぞえ」

 シコメは確信に満ちた表情で言葉を連ねる。

「おそらくはその袖、そこに剣を仕込んでおるのであろう。目に見えぬほどの、細い、それこそ蜘蛛の糸のような剣を、な。――妖術でも何でもないわ!」


 図星をさされて、イザヤは内心焦る。

「さらに言うと、確かにその“見えざる剣”、急所を突ければ脅威やもしれぬが、攻撃力自体はさしたることもなかろう」

「ワラワの配下には、目玉の一つや二つ、犠牲にすることも何らためらわぬ猛者がそろっておる」


 シコメとその配下は、改めてその陣容を緊密に組み直した。

 中央に指揮官たるシコメ、それを守るように盾持ちが前方と左右に並び、槍を構えた兵士が計6人、さらに弓持ちが前後を固めている。

 これに一団となって攻め込まれたら――

「シコメ水軍が誇るこの鉄壁の布陣、目玉の一つや二つ潰したくらいでは、止まらぬぞエ!」


               ☆  ☆  ☆


「え~と、え~と、神様、神様――」

 祭壇に突っ込んだコイチの手が何かを探り当てる。

 取り出したのは、傀儡人形だった。

 祖父の言葉がよみがえる。

 ――よいか、コイチよ。これは白太夫しらだゆうさまというてな、海で困ったときは、このお方におすがりするんじゃ!

「そうだった、。たしかこうやって……」


 コイチは、どこか気の抜けた表情の傀儡人形に、海底をのぞかせる。

 こうすれば海神の眷族たる白太夫のご利益があるという、祖父の言葉だったのだが――

 ――

「なんだこれ!」

 特に何の変化も起こらなかった。

 そうするうちにも島はずんずんと遠ざかっていく。


「どうしよう、どうしよう。このままじゃ本当に――」

 コイチが涙目になったとき、

「呼んだかの」

 背後から声をかけられた。

 背後といっても、そこには大海原が広がっているだけなのだが、ギョッとコイチが振り返ると、亀の甲羅に乗った老人がプカプカと海に浮かんでいた。

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