第51話
608年の隋帝国による“非公式”な遠征は、こうして無残な失敗に終わった。
二年後、隋は再び琉球に兵を送る。
その陣容に、朱寛や子龍といった名前はなく、将として選ばれたのは陳稜と張鎮州の二人だった。
『隋書「東夷伝流求国」』によると、隋軍は宮殿を破壊し、男女数千人を捕虜にした、とある。
ただこれに関しては、沖縄ではなく、台湾を指すとの説もある。
確実に言えるのは、その後琉球が隋の版図に組み込まれた事実はないということだけだ。
一方の楊広はというと、その翌年より父文帝の頃からの宿願であった高句麗遠征を開始する。
第一次は113万人の兵士が動員される空前絶後の遠征となった。
しかしかえってその兵数があだとなり、兵糧不足に陥って撤退を余儀なくされる。
613年には楊広自らが立ち、親征を行うが、これもまた高句麗の熾烈な抵抗にあって失敗する。
さらに翌年に行なわれた3度目の遠征では、ついに高句麗の降伏を獲得するも、肝心の高句麗王による入朝は履行されずに終わる。
楊広はさらに第四次の遠征を計画するが、すでに足元に火がついていた。
度重なる徴兵に、民衆の不満が爆発寸前になっていたのだ。
この後、楊広は各地で相次ぐ反乱に翻弄されることになる。
叩けど尽きぬ火の手に、かつての暴君はふかい厭世観のとりことなり、やがて酒に溺れるだけの暗君に堕していく。
618年、ついに楊広に最後の時が訪れた。
重心に背かれ、殺されたのだ。
犯人は、皮肉にも、自身が子龍に予言してみせた武川鎮出身の人間だった。
隋帝国はここに消滅し、群雄が割拠する世へと後戻りした。
最終的にそれを治めたのもまた、武川鎮出身であり、鮮卑系の出自である李淵であった。
もちろんそんなことは、608年時点のコイチやイサフシたちに予想できるものではなかったが、遥か沖合に逃げ去っていく隋の艦隊に喜ぶことはできた。
「チクショウ、勝っちまった」
緊張の糸が切れたか、クモミズは仰向けに倒れる。
「あぁ、なんか、勝っちまったな」
イサフシはイサフシで、どこか戸惑い顔だ。
結局、一番いい所を10才くらいの女の子と鼠にもっていかれた。
「まぁ、いいか。勝ったんだし」
イサフシは槍を杖がわりに、筋肉痛に悲鳴を上げている身体を撫でさすりながら、平穏が戻った琉球の海を見やる。
息長という一族の
そして今、初めて自分一人ではどうしようもない“歴史の荒波”というものを身をもって知った。
すでに齢三十を超えた。
生き方を変える、そんな時期に来たのかもしれない。
「イサフシさん」
クモミズが砂浜に仰向けになったまま情けないような声を出した。
茴那、猪利祖との死闘で、全身傷だらけだ。
「イサフシさん、すんません。俺……」
“雲不見”のクモミズ、どんな時でも傲岸不遜な態度を崩さなかった義弟だ。
さすがに今度ばかりは堪えたということか。
「今はいいじゃないっすか。お二人ともボロボロなんだし」
仲間が気をつかって言う。
「隋艦にひとりで乗り込んだことか? 気にすんな。誰にでも間違いはある」
「いえ、そうじゃなくて」
「――?」
クモミズは柄にもなくもじもじしている。
「ずっと言おうと思ってたんですけど、サエの、いえ、妹さんの、腹ん中に、俺の子が……」
「………」
「へ、へへ。すんません」
「………」
イサフシは無言のまま、杖にしていた槍の石突と穂先をくるりと入れ替えると、寝っ転がったままのクモミズを、“そこそこ本気で”殺しにかかった。
「うわー、ちょっ、義兄さん!」
「なんだ、元気じゃないっすか、二人とも」
「だれが義兄さんだ、ぶっ殺す!」
イサフシ一統はこうして新たな船出に漕ぎだすことになった。
☆ ☆ ☆
「勝ったんだ。俺たち」
コイチは海の彼方に目を細める。
隋の艦隊はもはや豆粒のようだ。
あまりにも濃密な日々だった。
わずか数ヶ月で、数年分は成長した気がする。
「勝ったぞ。なぁ、イザヤのおっちゃん。――!」
コイチが振り返ると、そこに信じられない光景を見出した。
イザヤの胸から槍が突き出ている。
「こ、――い、ち」
イザヤは血反吐とともにそれだけつぶやいた。
倒れる。
「なんで……」
倒れ伏したイザヤの後ろには、シコメが立っていた。
シコメ水軍の誰かが槍を投じたのは明らかだ。
「さてと、そろそろ本題に戻ろうかの」
シコメは片腕にハルを抱えている。
気絶しているようだ。
「ハル」
「フン、手間をかけさせおって」
「なんでだよ! 仲間じゃなかったのかよ!」
「仲間じゃと? そもそもワラワはこれが目的だったのじゃぞ。大和の朝廷は目下、新羅ともめておる。近々干戈を交えるじゃろ。そのためには“海鎮め”の儀式が必要不可欠じゃ。ハルめはそのための生け贄。これを成功裏に修め、我が息長一族はかつての栄光を取り戻すのじゃ!」
「うわぁぁーー!」
コイチは貝斧を手にシコメに襲い掛かった。
すかさずシコメ水軍の槍手が槍衾で迎え撃つ。
コイチがその餌食にならんとした寸前、横合いからの影に吹き飛ばされる。
コイチに体当たりを喰らわせたのは護だった。
「なんで……」
「堪えよ、我が弟子よ」
「なんでだよ!」
「世の中には、どうにもならんこともあるのじゃ。それを知るのも、また一つの修行ぞ」
「ぬあぁぁあ!」
コイチは再び貝斧をふりかぶる。
護は今度は容赦しなかった。
岩よりも固い拳が、コイチの脾腹を襲う。
――うぐうっ。
意識が遠のく寸前、コイチは護の言葉をきいた。
「ゆるせよ。悔しかったら、さらに強くなって戻ってこい」
コイチは気絶した。
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