第2話

 白砂の海岸に男がひとり倒れ伏している。

 嵐はとうに過ぎ去っていたが、今度は南国の太陽が容赦なく男の身体を焦がしていた。


 ウウンと男が身動ぎする。

 イザヤだった。

 あの嵐の中、どうやら命ばかりは拾ったようだが、その恩人である人魚、もといジュゴンは、イザヤが息を吹き返したのを確認すると、おのれの姿を恥じるかのようにイソイソと海に戻っていった。


 ゲホッと海水を吐き出す。

「み、水……」

 憔悴しきった顔でそれだけつぶやくと、本能に突き動かされるままに立ち上がる。


 これは一体どういう状況なのか。

 記憶がフラッシュバックする。

 なにか白い肌をした生き物に助けられたらしいこと。

 海に投げ出されたこと。

 弟との確執。


「レメク……」

 海の彼方に目をやるが、もちろんそんなところに船影などあるわけがない。

 妻に、息子、手塩にかけて育てた自分の後継者である船酔いの少年・シメオン。

 様々な思いが去来するが、しかし今はそんなことに拘泥している場合ではなかった。

 まずは自分の身の安全を確保しなければならない。


 小さな島らしいが、ここはどういった土地なのか。

 過去を振り捨てるように、頬に張り付いていた海草を剝ぎとると、島の奥の方へ目をやった。


 密林だ。

 かなり南方の植生なのだろう、世界を旅してきたイザヤでさえ見たことがないような密なる木々。

 状況がこういうものでなかったら、あるいは地上の楽園とさえ思えたかもしれない。

 蜜の川が流れる“約束の地”。

 だが今は蜜よりも真水だった。

 喉の渇きは限界に達している。


 イザヤは密林の壁に一箇所穴が開いているのを見つけた。

 人ひとりがようやく侵入できそうな小さな穴。

 覗き込むと、その奥は昼なお暗い。

 ケケケケと、嘲笑うかのような怪鳥の鳴き声。


 ――天国へは狭き門より入れ。

 意を決してイザヤは、密林の奥へ足を踏み入れた。


 バキッ、グサッ、ドスッ。

 足を取られ、棘に腕を刺され、得体のしれない虫にまとわりつかれ、イザヤはようやく密林に空いた空隙地にたどり着いた。

 そしてそこには、蜜よりも甘い真水の水たまり。

「神よ、感謝します」

 いうなり、イザヤは水たまりに倒れこむのだった。


 頭ごと直径2メートルほどの水たまりに突っ込み、思う存分に胃袋を水で満たすと、今度はグルルと腹が鳴った。

 ふと顔を上げると、目の前に灰色の小動物がちょこんとたたずんでいた。

 ウサギ、だろう。


 今度は狩りが始まった。

 なけなしの体力を振り絞り、もう一歩のところまで追いつめるが、指先を灰色の塊がすり抜けていく。

 木の根っこにつまづき、天然の落とし穴にはまり、ここぞと飛び掛かるも、頭から木の幹に突っ込んでしまう。


「慣れないことはするものじゃないな」

 目から星を飛ばしつつ独り言ちる。

 しかし胸中にきざす不安は膨れるばかりだった。

 つまり、この島は、“とんでもなく小さく、かつ無人島なのではないか”、という不安だ。


 人が住んでいるなら、それはそれでリスクがあるが、交渉次第で力にもなってくれるだろう。

 だが無人島なら――。

 イザヤは頭上を見上げる。

 たったいま自分が頭をぶつけたばかりの樹木が、天を衝くばかりの巨木だった。

 これに登れば視界が広がるだろう。


 やっとの思いで木のてっぺん近くまで登りつめた時、イザヤはおのれの危惧が現実だったことを知った。

 いや、それ以上に悪い。

 周囲わずか数キロの小島。

 そしてそれを取り囲む大海原に、島影のひとつとして見出すことができなかった。

「まずいかもしれんな」



 ――遡ること数日。

 遠からぬ海域で、海面に一人の少年が顔をのぞかせた。

 いかにも海の男の少年版といった感じの日に焼けた凛々しい顔立ち。

 年は10歳くらいだろう。

 すぼませた口からピューと海水を吐き出すと、立ち泳ぎのまま、右手に持った銛を頭上高く掲げてみせる。

「見ろよ、大物だぞ!」


 少年が呼びかけているのは、傍らに浮かぶ小舟なのだが、反応がない。

 不審に思って少年がパチャパチャと泳ぎ寄り、船べりに手をかけて屋形を覗き込むと、同い年くらいの少女が身を横たえていた。

 どうやら眠っているらしい。


 10歳とはいえ、そこは男である。

 少女の裾からのぞく白い太ももに少年は生唾をのむ。

「お、おい……」

 獲ったばかりの魚を小舟に投げ込むと、自らも船に上がる。

「あ、あのさ、俺、コイチってんだけど……」

 手前勝手に自己紹介しつつ、恐る恐る屋形で陰になった少女の元へとにじり寄る。

 が、何か様子が変である。

 眠っているだけにしては呼吸が荒い。

 少年―コイチはハッとして少女に駆け寄る。


 熱を調べようと少女の額に手をやりかけて、コイチは少しびっくりする。

 今まで前髪に隠れて気付かなかったが、少女の額の左半分には火傷のような痣のような染みがあった。

 といって、それは少女のかわいらしさの瑕瑾になるようなものではなく、コイチは改めて手を伸ばす。


 案の定ひどい熱だった。

 うわごとのように何かつぶやいている。

「か、母さま……」

「なんだ母ちゃんに会いたいのか? 心配すんな、俺が連れて行ってやる」

 コイチが断言すると、不意に少女がパチリと目を見開いた。


 コイチは思わず船の反対側まで後ずさりする。

 少女は半身を起こし、あさっての方角を凝視したまま、

「嵐の匂いがする」

「嵐? そんなバカな」

 年少なりといえどコイチとて一応海の男を自認している。 

 嵐の前兆など見落とすはずがない。


 そう思って背後に頭を巡らすと、水平線の彼方に見間違えようのない黒雲の塊を見つけた。

「ゲッ!」


 数時間後、コイチと少女を乗せた小舟は嵐に呑み込まれていた。

 コイチは両手両足、口すらも駆使して何とか操船を試みる。

「ヂクジョー! 負けてたまるか!」

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