第3話
満天の星月夜。
イザヤはようやく数日ぶりの食事にありつけていた。
苦労して熾した焚火の炎が、木の枝に刺さった肉塊をあぶり、ジュージューと涎を誘う音をたてている。
頃合いでイザヤは無心にかぶりつく。
海水で味付けしただけのうす塩味だが、そんなことは気にしない。
なんの生き物の肉なのかも、もはや考慮の外だ。
傍らには肉を切り取られた生き物の死骸が転がっているが、それが確かにイザヤを助けたジュゴンであることなど、本人は永遠に知ることはないだろう。
ようやく腹がくちくなったところで、竹筒に手をやると、空だった。
真水を汲みに密林に分け入り、戻ってくると、イザヤは異変に気付いた。
砂浜に見慣れぬ足跡が残っている。
自分のものとは明らかにサイズが違う。
「子供、か?」
食べかけの肉も消えている。
警戒よりも先に、爆発的な歓喜の念がわいてきた。
――ひとりじゃない!
船を造る能力など持ち合わせていないイザヤだ。
このままでは独り無人島で朽ち果てていくしかないと絶望していた矢先だった。
――誰かがいる。ならば舟もあるはずだ。
イザヤはおぼろげな月光を頼りに、砂浜に残された小さな足跡を辿っていった。
☆ ☆ ☆
「ほら、食え」
コイチは木の枝に刺さった肉を少女の口元に押し付ける。
だが少女は、意識を朦朧とさせながらも顔を背けるばかりだ。
すさまじいまでの嵐に呑み込まれ、二人の船は気付いた時にはこの小島に座礁していた。
少女は熱病に苦しみ、コイチは数時間にもおよぶ嵐との格闘に精も根も尽き果てていた。
せめて何か食べ物はと砂浜を歩いていくと、焚火の明かりが見えた。
そっと窺うと、人影はなく、肉だけがジュウジュウと旨そうな煙を上げている。
で、それを盗んで一目散に少女の元へ駆け戻ってきたのだが、いっかな口にしようとしない。
「そういや、これ何の肉だっけ?」
コイチは肉を自分の鼻に近づける。
「うえっ、生臭っ!」
少女に食べさせるのをあきらめて、ポイと投げ捨てる。
と、闇夜の向こうに人の気配を感じた。
もしかして肉の元の持ち主だろうか。
いや、絶対にそうに違いない。
コイチは人影の前に立ちふさがった。
足元の小石を拾う。
☆ ☆ ☆
小石が飛んでくる。
少年としては精一杯の抵抗なのだろうが、イザヤの眼はもう砂浜に乗り上げた小舟に釘付けにされている。
さすがに盗むつもりはないが、気になるのは少年の背後に横たわる女の子だ。
遠目にもわかる荒い呼吸。
眠っているというより、病気か何かで意識を失っているのではないか。
あるいはと希望をかけつつ声をかける。
「別担心。我幇你」
聞き覚えたばかりの拙い中国語、通じたのか通じなかったのか、返事で返ってきたのは、コブシ大の石ころだった。
☆ ☆ ☆
う、ん……
開けかけた瞼の隙間からギラギラとした陽光が飛び込んでくる。
頭の奥にガツンとした痛みが走る。
そうだった。自分は熱がでて眠っていたのだ。
だがここはどこだろう。
少女の変化にきづいて、コイチが駆け寄ってくる。
「気が付いたのか!」
「あ、あの」
「すっかり良くなったみたいだな」
太陽を背にして少年が立っている。
こんがりと陽に焼けた自分と同い年くらいの少年。
「そういや自己紹介もまだだったな。俺はコイチってんだ。よろしくな」
戸惑う少女をよそに、今度はイザヤも姿を現す。
「熱はひいたようだな」
「このおっちゃんはイザヤ。変な名前だけど、すげーんだぜ」
コイチは一人で興奮してまくしたてる。
「この間まで言葉も通じなかったのに、もうペラペラだ。それに薬のこととか、何でも知ってるしな」
コイチは我がことのように自慢げだ。
「あ、あの。ハルといいます」
ハルはとりあえず居住まいを正して頭を下げた。
「無理するな。7日以上も眠っていたんだ」
ハルの頭の中はいまだクエスチョンマークだらけだが、コイチはもうドッカと腰を下ろして言う。
「ふーっ、でもこれでとりあえずひと安心だな」
「そうも言ってられないぞ。この島はあまりにも小さすぎる。雨が降らなければ、すぐにでも真水が尽きる」
「水かぁ」
「といっても……」
三人は連れ立って海岸に向かう。
そこにはコイチが乗ってきた家船が座礁したままになっている。
「何とかこれを修復するしかないか」
試しに乗り込んで海に浮かべてみるが、到底長期間の航海に耐えられそうもない。
「なんとか人のいる島まで行きたいんだがな」
帆柱は折れ、応急処置した船底の穴からもじわじわと水が浸入してきている。
「修理は出来るか?」
イザヤは船の周りを悠々と泳いでいるコイチに問いかける。
「誰に聞いてるんだ。コイチ様だぞ。船の一隻や二隻、それこそ大船に乗ったつもりでいろってんだ」
豪語するが、10歳やそこらの子供では当然心もとない。
と、海面に浮かぶコイチの後頭部にぶつかるものがあった。
「ん?」
見ると、葦を束ねて作ったおもちゃのような船だ。
そしてそれには一匹のネズミが乗船している。
「オヨ。なんだこれ。ネズミが乗ってらぁ」
コイチはネズミをつまみ上げると、家船に移してやる。
ネズミは一目散にハルの元へと駆けて行った。
「まぁ、かわいいネズミさん。どうして舟なんかに乗ってたの?」
ハルは両手の上にネズミを乗せると、まるで会話でもするかのように耳に近づける。
ネズミはしきりにチューチューと訴えている。
ハルの“翻訳”によると、つまりこういうことだった。
☆ ☆ ☆
とある島。
蓬髪の老婆が率いるかたちで大勢の村人が歩いていく。
老いも若きも、男も女も、その瞳には憎悪の光が宿っている。
老婆の手には葦の船。
まるで厳かな儀式でも始まるかのよう。
老婆は波打ち際にひざまずき、船を浮かべると、付き従う侍女から籠を受け取る。
その籠には鼠が閉じ込められている。
それを葦舟に乗せ、恭しげに口をひらく。
『天の太陽の 夜這いでできた子の 狂った子が 大地に降りて 愚か者になって 尾の長い鼠になって 稲穂を踏みにじり 祟りをなすので――』
『――常世である ニライカナイへ 送り届けてください』
最後の方はもう村人全員による呪いのような合唱となり、葦舟は大洋に押し出された。
☆ ☆ ☆
「――だって」
鼠とあっという間に打ち解けた様子のハルは満面の笑みである。
コイチとイザヤはそれぞれ別の理由で顔を引きつらせている。
――島流しにされる鼠って、こいつ、なにやらかしたんだ?
――この子いま鼠と会話してたよな。
世界を旅してきたイザヤでも、さすがに鼠と会話できる人間は初めて見た。
「嵐の夜とか大丈夫だった? えぇ? そう。大変だったのね」
「ま、まぁとにかくだ。船の修理と食料・真水の確保だな。うん。うん」
深く考えても仕方ない。自分を納得させるように、イザヤは何度もうなずく。
一匹新たな仲間が加わって、三人のサバイバルがこうして始まった。
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