千年の孤独
yasutaka
第1話
男は沈んでいく。
怒涛逆巻く、闇夜の海の底へと。
刻一刻と世界は重く閉ざされていく。
命の火を失いつつある男の末期を飾るかのように、無数のクラゲたちが海流にもまれ乱舞するが、男の眼が開けられることはない。
と、海底に沈殿した微生物の死骸がふわりとかき乱された。
何者かが溺れる男に気付き、岩礁を離れたのだ。
だが嵐の夜である。
海の生き物たちも難を恐れ、おのおのの住処で鳴りを潜めている。
とても尋常の存在とは思われないが、果たしてそれは人魚だった。
鱗に覆われた下半身を力強く上下させ、荒れ狂う海流をものともしない。
クラゲの群れをかき分け、とうとう男の元へとたどり着く。
絶世の……というには多少幼く、無邪気な顔立ちだが、息を詰めてぷくっと膨らませた頬に長い髪を絡ませて、不思議な生き物でも見るように男の顔を覗き込む。
生きているのか、死んでいるのか――
髭に囲われた口は半開きになっているものの、もはや呼吸というものを忘れているようだ。
彫りの深い目もきつく閉じられ、後頭部から一筋流れ出ている黒いものは、血だろうか。
ようやく状況を察したのか、人魚は男を抱きかかえ、海面を目指すのだった。
プハッと二人が海面に顔を出すと、海はこの世の終わりのように荒れ狂っていた。
見渡す限りの大海原。
男を乗せていたらしき船は、すでに豆粒のようになっている。
さすがの人魚も海面では思うように動けない。
かといって意識を失った人間を抱いて再び潜るわけにもいかず、逡巡していると、ひと際高い波が襲ってきた。
ドオッと高い波に乗り上げると、不幸中の幸いか視界が広がり、遥か彼方に島影らしき黒い染みをみとめることができた。
高波が過ぎ去り今度は真っ逆さまに海面にたたきつけられる。
人魚はめげることなく、意識を失ったままの男を抱え直すと、島へ向かって泳ぎだすのだった。
〝吐け〟
海に投げ出される寸前、男はそう言って、少年の背中をさすっていた。
「吐け。胃の中をからっぽにすれば楽になる」
少年は、言葉に促されたわけではないのだろうが、海に向かって吐瀉物をまき散らす。
「すみません。イザヤ様」
蒼い顔の少年は、端正にすぎるその顔をゆがめる。
「なに、気にするな。ハハ、百年に一人の逸材といわれる君にも、苦手なものはあるのだな」
イザヤと呼ばれた男は、年の頃は40歳くらいだろうか。
細面で、学者のような理知的な顔立ちをしている。
「それにしてもひどい嵐だ」
イザヤは空を見上げる。
といって、バケツをひっくり返したような風雨で、眼もまともに開けていられない。
甲板に出ているのも二人だけだ。
皆に迷惑をかけたくない、そう少年が主張し、わざわざ外に出てきて、こうして嘔吐物を処理しているのだ。
「こんな海の向こうに本当に陸地なんてあるのでしょうか。人はいるのでしょうか」
少年は袖で口をぬぐいながら問いかける。
「今はそんなことは考えなくていい」
イザヤの言葉には耳を貸さず、少年は恨みのこもった眼で海原をみつめる。
地の果て、海の果て。そんな言葉がぴったりだ。
12歳になる自分が生まれる遥か昔から、イザヤたちは世界を放浪してきたのだという。
そしてとうとうこの世の果てまで来てしまったのではないか、少年はそんな不安にすら駆られる。
再び襲ってきた嘔吐感に急いで船べりをつかむと――
「僕なんかのことより、息子さんのそばにいてやってください。彼だって船旅は初めてです。ましてやこんな……」
少年がそこまで言うと、イザヤは眉間に険しいしわを寄せる。
「勘違いしてはいけない。わたしという存在は家族だけのものではないのだ。民人すべてに公平に接し、かつ導く義務がある。君にもいずれ司牧者としての――」
イザヤがそこまで口にしたとき、背後に不穏な気配を感じた。
振り返ると、甲板の真ん中にひとつの人影があった。
雨煙にさえぎられ顔かたちまでははっきりしない。
だがイザヤにはそれが誰なのかすぐに分かった。
機先を制して人影が口を開く。
「話し合いは終わった」
「なんだと!」
司牧者をもって自ら任じているイザヤは、思わず声を荒げる。
なぜ自分の知らないところで〈話し合い〉などがもたれたのか。
「なんのことだ。お前は何を言っている!」
雨に煙る人影はイザヤの激高など意に介する様子もなく、やおら左手を持ち上げ海の彼方を指し示すと、宣言するように言う。
「この荒れ狂う海の向こう、そこにある国がいかなるものであろうと、我らはそこを安住の住処とする」
イザヤは一瞬あっけにとられ、次いで余裕の笑みを浮かべると、
「気でも狂ったか。これまでの旅路を思い出してみよ。異邦人どもの地で我らが受け入れられたことが一度でもあったか。我らにとって安住の地は一つしかないのだ。皆は何と言っている。わたしの妻は、息子は!」
イザヤは人影の背後に目をやる。
そこには船屋形があり、おのれが領導すべき羊たちの群れが嵐を避けて避難しているのだ。
がイザヤは愕然とする。
船屋形にうがたれた窓からのぞく無数の眼、それらがことごとく冷たいまなざしで自分を見つめている。
その凍えるような瞳の中には、自分の妻や息子のものも含まれているだろう。
いたたまれなくなり、視線を戻すと、イザヤは押し殺したような声で言う。
「お前か……」
人影に向かって一歩踏み出す。
「お前が謀ったことか」
人影は動じることなくイザヤに対峙している。
もはや勝利を確信しているようだ。
「ならんのだ。我らには……、わたしには、崇高な使命がある」
イザヤは右手を胸の前に構え、不思議な仕草をした。
袖の中に何かが隠されているような――
「悪く思うなよ、弟よ」
人影はイザヤのその右手の動きを見て初めて動揺を示した。
イザヤは右手を掲げつつ、肉食動物のように一歩、また一歩と人影との距離を詰める。
たまりかねたように少年が叫ぶ。
「やめてくださいよ、イザヤ様も、レメク様も。ご兄弟じゃないですか!」
少年はふいに頭を巡らせる。
壁のような波がすぐ目の前にまで迫っていたのだ。
「高波です!」
叫ぶのと同時に、船が波に乗り上げた。
見上げるばかりの高波である。
その頂上まで一瞬にして持って行かれると、今度は真っ逆さまに落とされる。
転覆こそ免れたものの、木の葉のように弄ばれた人間はひとたまりもない。
イザヤもレメクも、上下もなく甲板に転がる。
いち早く体勢を整えたのは弟のレメクだった。
雨に濡れた甲板を蹴ると、兄イザヤに掴みかかり、その喉首と右腕をつかむ。
骨まで折れろといわんばかりに締め付ける。
「ぶ、無事か、シメオン……」
喉を絞めつけられながらもイザヤが口にしたのは、少年のことだった。
シメオンは船外に放り出されていた。
かろうじて船べりをつかんで、ぶら下がっている状態だ。
「この期に及んで、まだ〈稚児〉の心配ですか」
レメクの血管が怒りに浮き上がる。
「か……、彼は特別な才能の持ち主だ。……侮辱することは許さん」
「あなたという人は――」
その時、再び高波が船を襲った。
シメオンは数メートルも空を飛んだあと幸いにして甲板上に戻ることができたが、イザヤとレメクの兄弟はもつれ合ったまま空中に投げ出された。
レメクは甲板に叩きつけられ、イザヤは後頭部を船の手すりに打ち付けた後、嵐の海に投げ出された。
レメクにはもはや叫ぶことしかできなかった。
「兄さん!」
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