第24話
嘔吐物が海にまき散らされる。
強烈な乗り物酔いに悩まされているのは、隋水軍の総司令官である、朱寛。
でっぷりと太った身体を船縁に預け、海を、船を、己の境遇を呪っている。
「もう嫌じゃ、海なんて。はやく、陸に、陸に……」
「朱寛さま、もうしばしの辛抱です。ほら、あそこに島が」
「なんでもよい、どこでもよいから、わしをこの苦しみから解放してくれ」
総勢一万になんなんとする海兵たちを束ねる男にしては、情けない限りの醜態だが――
無論そんなことは、イサフシもクモミズも知る由もない。
悔しげに唇をかむクモミズを叱って、イサフシは逃げにかかる。
「大陸が統一され、何時かはこうなると思っていたが、まさか琉球の方から攻めてくるとは思ってもいなかった。――おい、クモミズ。逃げるぞ、もう俺たちの手には負えねぇ」
「黙って見過ごせというんですか」
「一人であれ全部を相手にするのか!」
正論を言われてはクモミズも踵を返さざるを得ない。
「万が一あの艦隊が暴挙に及ぶようなら、倭国の朝廷に動いてもらうしかないだろう」
「朝廷? 伝手でもあるのか」
「あぁ、ちっとばかしな。といっても、最も“頼りたくない相手”だがな」
イサフシたちが砂浜から姿を消したころ、裴洋はハルの手を引き、南国の密林の中を逃げまどっていた。
先ほどまではクモミズの仲間の怒声が届いていたが、今では間遠になっている。
どうやら距離は取れたようだ。
「クソ、こうなったら俺一人で何蛮さんのとこに行くしかねーか」
そもそもは、“嵐を操る少女”のハルを、何蛮に引き合わせれば済むことだ。
茴那と猪利祖を伴ったのは、疑われないため。
それがこうなった以上、別にあの二人を助ける義務はない。
すっかり茴那たちが負けている前提で思考を巡らせている裴洋だが――
「どっかに手頃な船はねーかな」
「爺は?」
ハルが言う。
「お、そういや忘れてた」
口うるさい老人だが、物心ついた頃から裴家に仕えていた執事である。
何より自分に倭語を教えてくれた師でもある。
「どこいったんだ?」
見渡す限り、木、また木である。
「チュー、分かる?」
「おい、おい、犬じゃねーんだぜ」
裴洋が突っ込むが、鼠はハルの身体を伝って地上に降り、確信ありげに走っていく。
「あっち!」
今度はハルが裴洋の手を引いて走り出す格好となった。
「まじかよ」
つくづく不思議な少女だった。
おのれの運命など度外視といった感じで、あくまで天真爛漫に振舞っている。
現実主義者を自認する裴洋だが、“嵐を操る能力”というのも、ハルを見ていると信憑性を帯びてくる。
「何やってんだか、俺は。……はぁ、さっさと“絶域に通じたる家柄”の“汚名”を返上したいぜ」
その同じ森の中で、イザヤはコイチとはぐれて途方に暮れていた。
さして大きくもない島である。
だがその島を覆う樹林の濃さといったら、イザヤの想像を絶していた。
「おーい! コイチ! どこにいる!」
コイチはちょっとした藪の隙間を見つけては、そこに飛び込み、ハルを追っていった。
大人のイザヤには到底真似のできない芸当だった。
樹林を透かして、場違いな雰囲気でたたずむ白髪白髭の老人を見つけた。
「爺!」
鼠の嗅覚もバカにできないということか。
「あぁ、若、一時はどうなるかと」
「バカ、なにしてんだ、さっさと逃げるぞ」
「もしや、猪利祖どのが……」
猪利祖の危機に、茴那を探しに走った爺である。
「その、もしや、だ! たぶんな!」
すでに腹をくくっている裴洋だ。
「どこに隠れた! 大陸の臆病者め!」
「出てこい!」
「ちっ」
意外なほど近くから、倭人の声がきこえた。
「ハラワタ引きずり出して、喰ってやる!」
倭語が話せる特技も、時と場合によるらしい。
前方を見やると、木々の密度が少し薄らいでいる。
島を横断し、反対側の海岸まで来ていたようだ。
「島を脱出するぞ」
「ならばこちらへ、乗り捨てられた船があちらに――」
コイチは人の気配を感じた。
野生児そのものといった身のこなしで、接近を試みる。
左方で喚いているのは、例の五人組だろう。
彼らがどうやら、海岸の方へ獲物を追い詰めているらしい。
つまりハルはそこにいる。
――ハル、待ってろ、すぐに助けてやるからな!
イザヤが密林の中をさまよい歩いていると、不意に海岸線に出た。
「ウゲッ」
そこは最初にいた海岸であり、つまりぐるりと回って元の場所に戻ってきたということだ。
“司牧者”にあるまじき方向音痴。
だがそこに見出した光景は、先ほどまでとは一変していた。
砂浜が隋兵によって埋め尽くされている。
――ん?
――お!
――!、!、!、?、!、?、!!!!!?????!!??!?!?
一万人はいるだろうか、それらが一斉に自分の方に振り替えるのを、イザヤは生まれて初めて経験した。
リーダーらしき太った男が叫ぶ。
「捕らえよ!」
――ハル!
その姿を目にすると、コイチは我を忘れた。
樹林を抜け出し、砂浜に躍り出る。
「ハル!」
「コイチさん!」
ハルが叫び、追っ手かと振り返った裴洋は安堵した。
10歳くらいの子供だった。
「なんだ、知り合いか?」
だがその声が呼び水になったのか、例の五人組も砂浜に姿を現す。
「ちっ」
「いたぞ!」
「イサフシさんへの手土産だ! ぶち殺せ!」
船は目の前である。
裴洋はハルを爺に預け、背中に手を回す。
最新鋭の手持ち式“弩”をかまえる。
五人組はまだだいぶ距離がある。
子供の方が邪魔になりそうだった。
「コイチさん!」
どうやらハルの知り合いらしいが、裴洋も自分の出世がかかっている。
こんなところで躓いているわけにはいかない。
「ハルを返せ!」
コイチがシャコ貝の斧を手に裴洋に襲い掛かってくる。
武芸が苦手とはいえ、さすがに10歳の子供にやられるわけがない。
最初の一撃をあっさりとかわすと、裴洋は渾身の蹴りをコイチの腹部にみまう。
「悪く思うなよ、こっちも切羽詰まってんだ」
コイチは地面に転がされる。
コイチは脾腹の激痛に涎をたらしつつ、立ち上がった。
「ハルを……、返せ……」
「しぶといガキだ」
裴洋とて余裕はない。
もうそろそろ船に乗り込まないと、五人組につかまってしまう。
コイチが裴洋の足元にむしゃぶりついてくる。
裴洋はそれをかわすと、突き転がす。
「諦めも肝心だぞ、ガキ」
コイチは仰向けに倒され、とっさに武器になるようなものを探った。
手にあたったのは、“スイジガイ”という貝殻だった。
それを投げつけようとして、動きが止まる。
目の前に鋭利な金属が突き付けられていた。
裴洋の、“弩”だ。
コイチは生まれて初めて“死の恐怖”を感じた。
「死ね」
裴洋は引き金を引いた。
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