第12話

「行ってしもうたか」

 黒瀬川を無事、というかあっさり脱出したコイチを見送って、塩土翁しおつちのおじはしみじみとつぶやく。

「なんか全然期待できそうもないの、あいつ。――はぁ、そろそろ“国商い”も廃業かの。ニニギ(天孫)や、イワレビコ(天皇家初代である神武)の時代が懐かしいわい。あの頃は国も(ワシも)わかかった。無限の可能性がひろがっておった。もはやこの国の在り方を変えることなど、夢のまた夢なんかのぉ」

 ぼやく老人に、海亀が慰めるように首を振る。


 塩土翁が嘆くように、いま、ここからはるか北方の倭国では、額田部女王(推古天皇)・厩戸皇子(聖徳太子)・蘇我馬子のトロイカ体制によって、法律と官僚が支配する強固な国づくりが進行している真っ最中だった。

 “組織”が“英雄”を殺しつつある時代――が、それはまたのちの話し。


「……ん?」

 塩土翁は後ろを振り返る。

 後方の海水面がドス黒く染まっている。

 自分たちまで黒瀬川に呑み込まれてしまったのか、と思ったが、よく見ると違った。

 無数の“手”がうしおのように殺到していたのだ。

「ゲッ! 道敷ちしきの大神! 誰ぞが呼び出しおったか!」

 海中から肺腑に響くような声がきこえる。

 ――逃げられぬぞ!


 川を遡上する鮭の群れのように、黒い手が亀の尻尾をつかまんとしている。

 塩土翁は慌てて甲羅を蹴って、速度を上げさせる。

 海亀は必死にその四肢をバタつかせる。

 ――イザ、イザ、イザ!


 群れなす黒い手の隙間から、一瞬垣間見えたのは、腐乱した女の顔だ。

 これが道敷ちしきの大神なのだろう。

 日本神話においてそれは、イザナミの別称と記される。

 黄泉の国を訪れ、そこで蛆虫のたかるおのれの妻の姿に恐れをなして逃げ出したイザナギに、“追いついた”ということで、その名前が与えられた。

 “追いつきの神”。

 それはいかなるものにも追いつくことができる。


 ――イザ、イザ! ワレと共に国を産まん!

 絶叫とともに、黒い手を割って、とうとうその本体があらわれた。

 飛び魚よろしく海面から勢いよく飛び出したのは、海水で成形された全裸の女だった。

 股をおっぴろげた格好で、塩土翁に迫る。

 ――イザ、まぐわん!


「うひぃー!」

 女陰もあらわに、腐乱死体に性交をせまられ、塩土翁は必死である。

 腰の瓢箪から取り出した桃の実をかじると、その種をプップッと海面に吐き出す。

 なにかの呪いなのか、道敷ちしきの大神は、その種に恐れをなしたようだった。

 追撃の手は一瞬にして止んだ。

「ふう、危なかった」

 悔しげな声が海面にこだまする。

 ――逃げられると思うなよ。人は皆、“死に追いつかれる”のじゃ!

 

           ☆  ☆  ☆


「そろそろか」

 何蛮かばんは漁網製のハンモックから身を起こすと、言った。

 彼方に目を移す。

 島では胡人兵の狼藉が続いているようだ。


 何蛮の言葉に、周りにいた水夫や頭巾姿の男たちが反応した。

 なかには早まって涙すら流している者もいる。

「とうとう決行のときなんですね」

「『鳥籠作戦』!」

 感極まっている配下たちに、何蛮は多少苦笑いを浮かべると、

「あぁ、といっても、予行練習だがな。――よし、合図を送れ、錨を上げろ、帆を展開せよ!」


 隋の軍艦はその巨体をググと動かし始めた。

 慌てたのは丘の胡人兵である。

「兵長、船が……」

 信じられないものを見たといった面持ちで、兵士の一人が沖合を指差す。

 兵長もわが目を疑う。


「何蛮! 何をやっている!」

 叫ぶが、潮風にさえぎられ、声が届くはずもない。

 気付けば自分たちが乗ってきた上陸用の端船も、水夫ごと消え失せている。

 

「あいつめ、裏切ったか」

 その恐れは十分にあったのだ。

 江南の部族たちが隋に服属したのはつい最近のことである。

 南部に皇威いまだ浸透せず、それが朝廷の共通認識だった。

 特に何蛮は反乱軍の頭目だった経歴がある。

 しかし天下一統を急ぎ、対高麗戦をにらんで水軍力の増強を優先した楊広(隋皇帝・煬帝)は、何蛮らを罰することなく取り込むことを選択した。

 その結果が今、目の前の光景だった。


 何蛮に謀反の疑いあり、それが兵長の持論だった。

 ――陛下に報告せねば!

 そう思ったのも束の間、兵長は自分の置かれた状況を突き付けられる。

 上陸していたのは100人を少し下回る程度の兵である。

 島民はおそらくその数倍にのぼるだろう。


 その程度の軍事力で、島民が大人しく服していたのは、沖合の軍艦が睨みを利かせていたためだった。

 水夫が逃げ、のこり半数が略奪にどこかへ消えている。

 いまここにいるのは、自分も含めてたったの9人。

 内紛が露見し、移動手段でもある船に去られた今――


 兵長がゆっくりと頭を巡らすと、殺意に満ちた島民たちの視線が飛び込んできた。

 そのかず数百。

 武器はといえば竹槍か石礫しかない辺境の島。

 一方の自分たちは鉄製の武具に身を固めている。

 だがこの人数差なら、装備の質の差など何ら意味をなさない。


 逃げ場もなく、なぶり殺しにされる自分の姿を兵長は想像した。

「は、裴洋!」

 “絶域に通じたる家柄”として、通訳を務める裴洋を呼ばわる。

 この際、言葉で説得するしかない。

 だが肝心の通訳は、いちはやく状況を察したらしく、その姿はどこにも見当たらなかった。

 

 兵長は腹をくくる。

「円陣を組め!」

 命令一下、兵士たちが兵長を中心に円を描く。

 槍と盾を連ね、さながらウニのようである。


「よいか! 何があっても陣形を崩すな! 負傷者は捨て置け! こいつらの漁船を奪い、島を脱出する!」

「応!」

 兵士たちも必死である。

 近寄れば貫く、とばかりに、槍の穂先と視線を周囲に放射しながら、ジリ、ジリと、動き出す。


 島を蹂躙され、女を手籠めにされ、怒りに煮えたぎる島民たちも、これで簡単には手が出せなくなった。

 胡人兵と島民、その二重の輪が、殺気を放ちつつ無言のまま対峙しているところへ、

「どいてろ」

 とあらわれたのは、クモミズだった。


 島外から流れてきた荒くれ者として、あまりこの島で歓迎されていなかったクモミズたちだったが、いま、これほど頼りになる存在もなかった。

 頭目格のクモミズは身長が180センチを超え、入れ墨に彩られた隆々たる筋骨は、南国の太陽を照り返している。

「任せとけ」

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