8 赤の民(1)
柊一と分かれ、塔子は寄宿舎の前庭まで帰って来た。
考え込んでいるので、足取りはずいぶんゆっくりしている。道端の小石をこつんと蹴り、それが転がるさまをぼんやりと見つめる。
――
それまで、塔子は彼のことを何不自由なく、恵まれた環境で育ってきた人だと思っていた。
“家柄よく、きれいで、頭もよい”。そう周りから評される彼なので、その言葉のままの印象を彼に抱いていたのだ。彼の背景を深く思い描いたことなどなかった。
水辺に寄る辺なく立つ、鷹宮柊一を思い出す。彼の抱える傷は、塔子の抱えるものとすこし似ている。
塔子は頭上を見あげた。
枝葉の合間から、水色の空が見える。
ぼんやりと見つめ、久しぶりだな、と思った。
――
離婚の際、父と母がどのように話し合いをつけたのか、塔子はよく知らない。父の話を持ち出すと母が傷つくので、そのうちに家庭でも父の話をすることはなくなった。
塔子は父が会いに来るのを待っていた。けれど再会したことはない。ろくな父親ではなかったのかもしれないと、今ではそう思っている。けれど、塔子は待っていたのだ。――それは、いまでもそうなのかもしれない。
塔子はかすかに眉をひそめた。
良司の顔、紗也加の顔、柊一の顔を思い起こす。
――みんなそうなんだ。
はじめて思った。
たとえふだん口にださなくとも、だれもが、想いを抱えて生きている。木漏れ日射す林道には、いつも青い樹影が落ちている。
*
部屋へ戻ると、詩織が先に帰っていた。
「戻りました」
勉強机に座る、詩織の後ろ姿に声をかける。
詩織は返事もせず、くるりと椅子をまわしてこちらにふり返った。
詩織は機嫌が悪そうで、表情にいら立ちが見える。塔子はたじろいだ。
「詩織さん……?」
じろりと詩織はこちらを
「仲がいいのね」
「え?」
「鷹宮くんと、ずいぶん仲がいいのね」
緑の館で、塔子は詩織とすれ違った。ちょうど塔子は、館から走り出ていった柊一を追いかけるところだったのだ。詩織に声をかけられたものの、塔子は返事もおざなりに柊一を追いかけて行った。
詩織はそのことを言っているのだろう。
「仲がいい、というか……。いろいろあって……」
詩織はまなじりをきつくした。
「いろいろ、って?」
「その……」
塔子は口をひらいて、そして閉じた。あの一件について、なにも喋ってはいけないように思っている。
「言えないんだ」
詩織の声音がますますつめたくなった。
「瀬戸くんも言わないし。ただわたしは心配しているだけなのに。もう部外者ではないのに」
塔子はきょとんとした。
――もう部外者ではない?
いったいどういうことだろう。
「それどころかむしろ、知っていることだって多いのに――」
詩織は席を立ち塔子のもとへと進み出た。塔子をじろりと見下ろしながら、ひとつ結びにしていた髪をほどく。
「今日、鷹宮くんになにがあったの?」
髪をかきあげる。詩織の青白い面差しが妙に匂い立つ。あらためて、詩織は問いただしたが、塔子は視線を泳がした。
「塔子、わたしたちは、姉妹になれるんじゃなかったの?」
「詩織さん……」
塔子はそれ以上何も言えなかった。詩織はしばらく塔子の横顔をじっと見つめ、やがて落胆したように息を吐いた。
「まあ、いいわ。じきにわかるから」
詩織は勉強机まで戻り、乱暴に椅子に腰を下ろした。髪をかきあげる。これ見よがしにため息をもう一度吐く。
塔子は身を縮めながら尋ねた。
「……じきに、わかる?」
詩織はうなずいた。
「ええ、じきにわかるでしょう」
詩織は塔子をじろりと見た。
「――同じ種の卵は、惹かれあうものだから」
*
ゴールデンウィークが明けた。
五月七日の学園は、いつもの喧騒を取り戻していた。
「塔子!」
教室に入るなり、塔子は呼びかけられた。すらりとした、ポニーテールの
塔子はたちまちうれしくなって、手を振り返した。
「おかえりなさい」
ふたりの前で、塔子ははにかんでそう告げた。
良司も紗也加も、多くの生徒と同じく、ゴールデンウィークの間は実家に帰省しており不在だったのだ。
「とーこさん、元気にしてた? そんなに日にち空いてないけどね」
良司がからりとわらう。
紗也加は華やかに笑んで、土産袋を良司、塔子に手渡した。
「お土産。美味しいチョコレートのお店なの」
「おお、ありがと」
「……ありがとう」
良司はさらりと、塔子はどぎまぎとしてお礼を言った。塔子にとって、友達から手土産をもらうことは、初めての経験だった。帰省のときも塔子を覚えていてくれて、それだけで十分うれしいのに、お土産まであるなんてと驚いてしまう。しぜんと塔子の頬が上気する。
となりにいる良司が、そんな塔子を見てくすりとわらった。優しい笑みだった。
「ごめん、おれ土産用意してない。たった数日の休みだったし」
「そんなことだろうと思ってたわ」
良司が肩をすくめるので、紗也加が軽くあしらう。
「気にしないで」
塔子もあわてて言いつのった。
「これだからモテないのよねえ、坂本は」
紗也加が軽口を叩くので、良司が苦笑した。
「あ、言ったな」
「言いますとも」
塔子は目を白黒させた。坂本良司がモテないことはまったくない。現に、軽口を叩く張本人の織部紗也加に、好かれている。けれど、そんな真実は置いておいて、ふたりはただじゃれあっているのだ。
可笑しくて、塔子の口角がしぜんとあがった。
「あ、とーこさんに笑われた」
「そりゃ笑うわよ。ね、塔子」
「ひでー」
良司と紗也加が塔子を見る。
塔子は思わずちいさく声を出してわらった。
わらうことができた。
「坂本くんも、紗也加も……
塔子は目を細めた。
ふと良司が、あれ、という顔をする。紗也加も小さく息を呑む。
――紗也加。
ふたりの反応に、塔子は見る間に真っ赤になった。それでもなんとかこらえる。勢いで、とうとう紗也加を呼び捨てにしてしまった。いまなら言えると思ったのだ。
わずかな沈黙があり、教室のさざめきが響いた。
「塔子」
紗也加がこちらを呼ぶ。
塔子がどぎまぎと紗也加を見ると、紗也加は満面の笑みで返した。
「百点。今度こそ、百点」
塔子の髪を乱暴に撫でた。
同時にホームルームの鐘が鳴った。みなが席へと戻っていく。紗也加も笑みを刷いて席に戻り、良司と塔子も着席した。ふたりは隣同士の席だ。
すっと顔を近づけて、良司はつぶやいた。
「よかったね」
塔子はゆっくりとうなずいた。
「……うん。ありがとう」
良司が笑む。
「そうそう、とーこさん、今日の放課後、運営委員の
塔子は目を見開いた。
入寮式での
良司がその手はずを整えてくれたのだ。
「あ、ありがとう」
「それから、ね」
教室に担任教師が入ってくる。
良司は塔子の耳にさらに顔を近づけた。
「お土産はないけど、土産話はあるんだよね。またあとでね」
驚く塔子を見つめ、良司はいたずらっぽい笑みを浮かべた。
獅子の系譜 谷下 希 @nonn_YASHITA
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