2 王国の夢(2)
風が強くなってきたようだ。出窓の向こうから唸るような風音がする。木々がなぶられ、しきりにざわめいている。
その音を聞くともなしに聞きながら、塔子はミルクティーを飲み気持ちを和らげようとした。両手でマグカップを包み込むようにして持ち、身体をあたためる。
詩織は小卓を挟んで塔子の向かいに座り、湯気の立つ熱いコーヒーを啜っていた。視線は窓向こうの闇にある。魅入られたように見つめている。
ふたりは一息入れようと、食堂のドリンクコーナーから飲み物を調達していた。そこで常時提供される飲み物は、生徒達の希望がある程度反映されており、バラエティに富んでいる。コーヒー、紅茶、お茶やラテ、スープにジュース。長い学生生活を快適に過ごせるようにと、宿舎が配慮したものだった。
カフェラテとミルクティーで悩んだ塔子であったが、結局ミルクティーにした。まろやかで甘い味わいが、気を張って疲れている自分には良いと思ったからだ。
塔子はもう一口、ゆっくりと飲んだ。それでも心が休まるものではなかったが、だいぶましにはなってきた。
こちらの心境を知ってか知らずか、詩織の動作は緩慢で、沈黙は長い。
何を教えてくれるだろう。いまの状況が、全部わかるだろうか。
塔子は小さく息をついた。期待と不安がないまぜになる。好奇心というよりも、身に降りかかった災難なので、切実に情報が欲しかった。けれど一方で、まったく聞きたくないような気もしていた。
詩織はコーヒーをまた口に運んだ。窓の闇と同じ色をしたそれを静かに飲み下す。そしてようやくこちらに向き直った。マグカップを小卓に置き、焦点の定まった目でしっかりと見つめてくる。塔子が居住まいを正すと、詩織は口を開いた。
――ところで。
「入寮式はどうだった?」
「……は?」
予想外の第一声だったので、塔子は面食らった。
「感想が聞きたいの」
「えっと……」
「いいから、どうだった?」
言葉に詰まる。視線をあげれば、興味深そうにこちらを見やる詩織と目が合う。そのまなざしに促され、塔子は口を開いた。
「あの、トンネルで――」
「トンネルで?」
「あ、いえ。トンネルが、こわかったです」
あわてて言い直す。
ああ。詩織は納得したようにうなずいた。
「肝試しみたいよね。あの儀式。――ほかには?」
「ほか?」
「そう。それだけ?」
塔子は口をつぐんだ。束の間の逡巡のあと、彼女に向き直る。
「――正直に言って、あまりいい気持ちはしませんでした。よくわからない誓いを立てさせられて……。わたしはいったいどこにいるのか、何が起きているのか、何をさせられるのか、さっぱりわからない。トンネルを出たのに、まだ目隠しをしているような気がしました」
わずかな緊張が声ににじむ。
詩織は目を見開いた。ややあって、「ええ、そうね」と同意してみせる。
「……あなた、思ったよりもはっきりものを言うのね」
塔子は目を逸らした。
「あなたの感想は、すべて正しい。わたしもまったく同じ気持ちだった」
詩織はおもむろに言い、小卓に肘をついた。
「これから伝える話が、きっとその目隠しを取るものになるでしょう。ただ――目隠しを取ったところで、森から出られるとは限らないけれど」
「……え?」
微かに口角をあげ、詩織は話し出した。
*
「いまから話す内容は、あなたがさっき問いかけていたこと。“ここはどこで、何が起きていて、何をするのか”ということ。誓約を果たすために、わたしたち上級生は今日、これを語り継がなくてはならないの」
入寮式で交わした誓いを覚えているわね? そう聞かれ、塔子は首肯した。
――緑の民として、王国を守り、語り継ぐこと。
――王国にまつわる一切を口外しないこと。
――赤の民に染まることなく、その影響も受けず、あらゆる脅威に屈しないこと。
――これらの誓約を破ったときには、いかなる罰をも受けること。
詩織はうなずきを返した。
「そのひとつ目の誓いを、いま実行しているの。あなたたちは今日、トンネルの出口で“王国の鈴”を鳴らし、誓いを立て、正式に“緑の民”となったから。新たな仲間には、その日のうちに伝統のすべてを知らせなくてはいけない」
塔子は小さく相槌を打った。
「反対に言えばね、今日まであなた達は誓約をしていなかったので、仲間ではなかった。“外の人”だった。だからわたし達はこのことを厳重に隠さなければならなかった。これがふたつ目の誓い」
「……誓いを立てていない人は皆、“外の人”なんですね。入学していても」
そうよ。彼女は塔子をひたと見据え、神妙に告げた。
「この伝統は、“内と外”の区別がとても重要なの」
語り継ぐにも細かな決まりがあるらしかった。語る場は必ず
「だからわたしが話すのも、これが最初で最後」
と、詩織は続けた。
「なぜですか?」
「初めての言葉には力があるから」
詩織は肩をすくめた。塔子のうろんな目つきを見て補足する。
「先輩がそう言っていたのよ。何事においてもだけれど、“初めて”にはいちばん意味と力が宿るのですって。だから“語り継ぐ”のは一回だけ、ということらしいわ」
はあ。思わず気の抜けた返事をしてしまう。
詩織は塔子をちらと見やった。
「――そういうわけだから、これから言うことを必ず覚えて。あなたが二年生になったときには、いまのわたしと同じことをしないといけないのよ」
「えっ」
「話したとおり、二度は言わないわ」
詩織は平然と言い放った。
時計は午後十時をまわっていた。消灯は十一時である。今頃は廊下や隣部屋から、就寝にそなえて部屋に戻る足音や、笑い含みの話し声が聞こえてくるはずだった。けれど今日はその喧噪がない。ただ時折低いささやきが、その響きだけが耳に入る。
「話を戻しましょう」。詩織は切り出した。
「あなたはいまどこにいるのか。それはもちろん、
塔子は眉をひそめた。事務的に述べられるとひどい違和感がある。
「ただの王国ではないわ」。彼女は続ける。
「松高の創立初期から続く、ここは百年王国。誓約を交わした者にしか見えない影の国。わたしたちはその国民――緑の民。王国を栄え、存続させるためにここにいる」
「あの、よく意味が……」
理解が追いつかない。慌てた塔子に、詩織はまなざしでうなずきを返した。
「ことの起こりから話しましょう」
――緑の王国というものがどうしてつくられたのか、それはまったく定かでない。だが王国の由来については、かつての学生運動がもとだろうと考えられている。
そこに、ひとりのリーダーがいた。生徒達に多大な影響を与えたカリスマだったらしい。彼――大正当時は男子校だった――が学園を去った時には、緑の王国は成立していた。だから彼が初代だろうといわれている。
「初代?」
「王のことよ」
塔子の心臓が大きく跳ねた。
「ここは王国ですもの。王がいるわ。わたし達は、獅子と呼んでいる」
当たり前のように詩織は続けた。
――獅子。
塔子は動揺を必死で押し隠した。
「呆れてものも言えないって感じかしら」
詩織は口の端をあげる。
「い、いえ……」
逆だった。口をひらけば疑問があふれてしまいそうで、だから何も言えなかった。
詩織は小首を傾げ、しばしこちらの様子を見守っていたが、ふたたび口を開いた。
「獅子という呼び名はね、校章の金獅子に由来するようよ。つまり学校の象徴である、ということ。生徒達は学生運動のリーダーだった初代をそう呼んで、敬意を表したらしいわ。そして彼にしたがい活動するうちに、どうやら――王国の夢を見た」
「……夢?」
「――ここは緑深き王国である。松高生の、松高生による、松高生のためだけの王国。生徒たちのなかから選ばれた偉大なる王が、国をおさめ、民を良き方向へ導いている――。そういう夢」
あ然とする塔子を、詩織はひたと見すえる。
「まったく非現実的な、大それた、荒唐無稽な夢だった。けれど初代が卒業する頃には、すべての生徒がこの夢を共有していた。――そして王国は成立した」
「え?」
塔子は思わず声をあげた。
「そんな夢を……本当にみんなは信じたんですか」
「そう言ったでしょう」
「どうして」
「それもさっき言ったわ」
すげない答えが返ってくる。塔子はあわてて首をふった。
「いえ、いいえ。その……びっくりして。そんなおかしな理想をみんなが共有するなんて」
「共有して――そして、伝統にしたのよ」
かぶせるように詩織は言った。
しん、と部屋が静まる。
彼女の黒い瞳は淡々として、何の感情も持たなかった。すがるように見つめてみるも、それは同じことだった。
「それ以上のことは――」。詩織は続ける。
「わたしも詳しくは知らないの。話せるのは、ただそれが起こったという事実だけ」
「……」
塔子は閉口した。
この漠然とした説明を、いったいどうやって受けとめたらいいのだろう?
「――えっと、あの。それなら……共有しただけで、王国は成立するものなんですか?」
「そうみたいね」
「
非難めいた声に、詩織はわずかに苦笑した。
「――王国の夢を生徒全員が共有した。そしてそれを了解した。ただそれだけのことに聞こえるかもしれないけれど。でも、その了解にもとづいて、”王”と”民”という身分がつくられたし、王国をかたどる様々なしきたりがつくられたのよ。形も何もない、まったくのゼロからの空想によってね。
だからこの場合は、夢の共有が、すなわち王国の成立だと言ってもいいのじゃないかしら」
うろんな顔つきの塔子に、詩織は首を傾けた。
「納得していないって感じね。まあ、それはそうでしょう。ひとまず、そういうものだと思っていればいいのよ」
「でも」
「理解してほしいのはひとつだけ」。詩織はゆっくりと告げた。
「この学校は、百年間夢を見ている、ってこと」
*
――学生運動のさなかに生まれたこの王国を、当時の生徒たちは一代で終わらせようとはしなかった。明確な決意をもって残そうとし、そのためにまっさきにとりかかったのは、次の世代の王を探すことだった。王なくして王国はないからだ。
そのようなわけで初代は二代目獅子を選んだ。二代目は君主となり、やがて次代へその称号をゆずった。こうして滞りなく、何代にもわたって獅子は受けつがれ、王国は存続した。
歴代の獅子たちは、つかの間君臨し、やがて泡のように消えていった。それが
「あの……泡のようにって」
詩織はうなずいた。
「実はわたしたち、その時々の獅子がだれかを知らないの。知らないから新しい獅子にすげ代わっていても気付かない。泡のように浮かんでは消えていく、そんな存在ということ」
「はあ?」
塔子は思わず声を発してしまい、あわてて取りつくろった。
「ええと、でも、さっき初代の話をしてましたよね」
「“初代だろうといわれている”と言ったでしょう。おそらくそうだろうけれど、百パーセントとは言い切れないの。そして、二代目以降の獅子なんて、だれなのかさっぱりわからないわ」
「獅子のこと、知っているような話しぶりでしたけど……」
「獅子は知っているもの。その歴史も聞いている。いまも存在している。ただ、個人の名前を知らないだけで」
塔子はしぶい顔をした。なんだか屁理屈のように聞こえる。
「――どうやら建国当初から、王は秘め隠されていたようね。素性を隠し、個人の名前を失うものとされていた。ただ獅子とだけ呼ばれ、けっして姿を見せないものだと」
「どうして……」
「緑の王国の存在は、誓約を終えた人にしか教えることができないわ。そんな風に国を厳重に隠さなければならないなら、そこに立つ王はより慎重に秘めなければいけない。――そういう理由でしょう」
「それは、緑の民にも教えられないんですか」
「そうね。そういうものみたい」
――わからない。わからないことだらけだ。
「おかしくはないですか。生徒たちのなかから選ばれた偉大なる王が、国をおさめ、民を良き方向へ導く。そのための王国なのでしょう? それなら王は、隠れていてはいけないのでは?」
ええ。詩織は深くうなずいた。
「そこがこの伝統の奇妙なところ。申し訳ないけれど、それはわからないわ。どうしてだろうと、わたしもときどき思っている」
塔子は眉間のしわを深くした。しばらく口をつぐみ、やがて顔をあげる。
「……いまも獅子はいるんですね」
「もちろん」
「……この学校の生徒のだれかが獅子だと?」
「ええ」
自分がどれだけ深刻な顔をしているか、塔子は自覚していなかった。
「それも、だれかわからないってこと、ですね」
「わからない」
即答だった。
肩の力が抜けていく。苦々しさに塔子は唇を噛んだ。
トンネルで塔子をおどかした“獅子”は、だれかわからないままなのだ。顔が見えない、正体が知れないことが、ただただ恐ろしい。
「……いったいどうして。そんな存在を王と認めるんです。どうやってしたがうんですか」
語調が強くなる塔子を、詩織は不思議そうに見返した。
「王と認めるのは、そう決められているから。絶対王政の世にいて王を認めない、なんてことはしないのよ」
「そんな……」
あまりに現実的でない。
「どうやってしたがうか、については、ちょうどいいわ。次の話に移る。今ここでなにが起きているのか、あなたがこれからすべきことを話すわ」
詩織はコーヒーを口に含み、顔をあげた。
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