6 雪の女王(4)
緑の館から北――山頂方面へ林道をしばらく走ると、林の合間に蔦の絡まるガーデンアーチが見えてくる。池の入り口だ。
塔子はアーチの前で立ち止まり、肩で息をした。手前には、“
アーチの先に小道が続いている。鷺沢池へ続く道だ。
柊一はこの先にいるだろうか。
彼の姿が見えないので不安になる。けれど柊一がこちらの方面へ行ったのなら、行き先は池しかないはずだ。
思い直して、塔子はアーチをくぐった。
道幅の狭い小道を早足で抜ける。背の高い針葉樹の枝葉が頭上を覆っており、まるで小道のなかもアーチが続いているようだった。
野鳥がしきりにさえずっている。
荒い息で進むと、風が吹き、足の方から冷気を感じた。水の気配がする。
塔子は顔をあげた、道の終わるあたりに、池が見える。
午後の陽光にきらめく水面。たっぷりと水をたたえる、楕円状の美しい池がそこに広がっていた。
塔子は驚いた。鷺沢池には、じつは初めて足を踏み入れたのだ。
校内の池といえば、鯉を飼うためだけにあるような、ごくささやかなものだと思っていた。ところが目の前の池は広大で、向こう岸の木立まで随分と距離がある。昔は
塔子はおずおずと足を踏み入れ、池をぐるりと見回した。水辺にひとり――柊一の姿が見える。姿勢のよい柊一の後ろ姿が、さびしげに映る。
弾む息をおさえ、塔子は深呼吸をした。足を踏み出そうとして、ふとためらう。
――近づいていいだろうか。声をかけてもいいだろうか。迷惑じゃないだろうか。
いまさらながら、そう思った。ただ彼のことが心配で追いかけてきたが、その行為を彼はどう受け取るかが、まったくわからない。
もしかしてひとりにしてほしいのかもしれない。塔子が追いかけても、うれしくないのかもしれない。
そう考えこむと足が動かなくなる。
固まった塔子の視線の先で、柊一がうつむいた。
塔子はくちびるを湿し、勇気を振りしぼって踏み出した。
砂地を踏む靴音に、柊一がふりむく。
目が合った。とたん、柊一はとてもばつが悪い
柊一は、視線を外して小さくため息をついた。
水辺の、細かな砂地の場所まで来ている。池の水が波となって、寄せては返す様がよく見える。その波が水辺に群生するアシやツユクサの根元を洗う。
「何しに来たの」
しずかに柊一はたずねた。
塔子は口ごもった。すこしの間のあと、眉根をさげる。
「その……」
彼をおずおずと見上げる。
「……迷惑かな?」
柊一が驚いたようにこちらを向く。自信のない表情の塔子をまじまじと見やると、やがて脱力したように息を吐いた。
池の水面に
柊一はしばらく黙っていたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「……嫌われているのかもしれない、と思ったことはある。――瀬戸先輩には」
ぽつりとした声。
「瀬戸先輩と実家で会うときにも、いつも優しかった。だけど、たまに見せる表情やしぐさで……。もしかしたらそうじゃないかと、考えたときがある……」
ざり、と砂地を蹴る。
塔子は
目を伏せる柊一を見、塔子は思わずつぶやいた。
「……鷹宮くんは、瀬戸先輩のこと、尊敬しているのに、ね」
「……え?」
「ちがった、かな」
「……みんなで夜にお茶会をしたとき。他己紹介で、鷹宮くんは瀬戸先輩を紹介したよね。そのとき……そう感じた、よ。鷹宮くんは瀬戸先輩の良いところをたくさん知っていた」
“瀬戸先輩は面倒見がよくて、頼りになります。”
柊一は、瀬戸史信のことをそう紹介した。気位の高い柊一が、謙虚に丁寧に、彼を褒め上げた。
それはとてもめずらしいことなのではないかと、塔子は思うのだ。柊一は、史信を心から尊敬しているからこそ、そう称えたのではないかと。
柊一は目を伏せた。
「
塔子は内心の驚きを隠すことに努めた。
柊一は、史信のことをとても高く評価している。もしかしすると、慕っているのかもしれない。
けれどさきほどの史信は、柊一を一方的に傷つけた。
柊一の好意は、史信に届いていない。一方通行で、むしろ史信から傷つけられている。
――このおかしな関係性は、いったいどういうことだろう。
茶会の夜。他己紹介で、鷹宮柊一は、瀬戸史信と親戚関係であると打ち明けた。
鷹宮柊一は、
瀬戸史信の
そして、史信は家業を手伝うことに、この立場に、まったく疑問を感じていない、とも言った。むしろ鷹宮柊一と一緒に仕事ができるのが楽しみであると。できるなら、手助けしたいと伝えた。
――
塔子は柊一を見つめ、はたと考え込んだ。
さきほど、緑の館で、瀬戸史信はまったく反対のことを言わなかったか。
“いいだろ、意地悪したって。いずれ鷹宮はおれの王になる。鷹宮家という王国に組み入れられるのは、おれなんだからさ”
瀬戸史信の発言が、茶会の夜と、今日とで矛盾している。
――お茶会の夜、執行部の皆に向けて放った発言が
水辺の涼やかな風が吹いている。眼前にたゆたう池の水面は、ゆるやかにさざなみを立てている。
塔子は思いきって、柊一のもとへすこしずつ足を踏み出した。
いま、だれに寄り添わなくてはいけないか。それは瀬戸史信ではない。塔子の目の前で、
柊一は塔子が近づく気配にふり向いた。すこし驚いたような顔をしたが、けれど何も言わず受け入れた。
ほっそりとした線の、
しばらく池をふたりで見つめた。波打つ水面。向こう岸の木立から、無数の小鳥が羽ばたいていく。
塔子がなにも言えずにいると、やがて柊一が口をひらいた。
「――夏の終わりだった」
小さな声でぽつりとつぶやく。
「……え?」
聞き取ろうとして、塔子はもうすこし近づいた。
柊一が池を見つめたまま、口にする。
「おれが六歳の頃。母が死んだ。――自殺だった」
塔子は言葉をうしなった。
「母は病弱なひとだった。あまり外に出られないので、遊んでくれることも少なかった。その日も、おれはお手伝いさんに連れられて、海水浴に行っていた。母への
柊一が、ぽつりぽつりと口にする。
その一言一言に、塔子は息が詰まる思いがする。
「揺り椅子から、真っ白い腕がだらりと垂れて。はじめは寝ていると思った。でも、声をかけても返事がなくて。触ったら、つめたくて。とても、とても暑い日だったのに」
野鳥がのどかにさえずっている。
「そのつめたさを、おれはいままで忘れたことはない」
柊一は、ゆっくりと息を吐いた。
「母が死んだその日から、何かが変わったような気がする。でも、なにが変わったのか、自分ではよくわからない」
塔子は手をぎゅっとにぎりこんだ。
でも、と柊一がつぶやく。
「でも――どうやら、瀬戸先輩は何かを知っているみたいだ」
とたん、塔子は雷に打たれたような思いがした。
――“雪の女王”。
史信の言葉が思い出される。
“悪魔がつくった鏡の破片が、あるひとりの少年の目と心臓に刺さったんだ”
塔子は
史信が唐突に切り出した童話。彼はそれを引用して、何をつたえたかったのか。
――『雪の女王』に出てくる“少年”とは、鷹宮柊一?
――ならば、“雪の女王”は、
それをつたえたかったのならば、そのために童話を引用したのであれば――。
史信はとてもおぞましいことをしたのではないか。
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