5 雪の女王(3)
ゴールデンウィーク初日の五月二日、午後三時。学校の課題がひと段落した塔子は、緑の館までひとりでやって来た。
執行部の仕事に加わるためだ。
緑の蔦がおびただしく生い茂った洋館を仰ぎ見、塔子はひとつ深呼吸をした。
執行部の仕事は山積みだ。
塔子も毎日緑の館に立ち寄り、微力ながら手伝っている。最近はそれでも前向きに活動に参加するようになってきたところである。
塔子は緑の館の玄関先まで訪れ、ノックをして入室した。
館の活動室には先客がいた。
「あ」
塔子はぽつりとつぶやいた。
柊一が切れ長の瞳をこちらに向ける。
「――課題は?」
だしぬけに訊かれ、塔子はすこし口ごもった。
「……今日の分は、終わったから」
「そう」
活動室の中央に据えられたソファに、柊一は足を組んで座っている。総会の資料を読んでいたらしく、テーブルには書類が並べられていた。
「いまは鷹宮くん、だけ?」
柊一は首肯する。
「瀬戸先輩があとで来るって言っていた。今日はそれくらいじゃないか」
「……そっか」
執行部の面々も、ほとんどがゴールデンウィークで外出、帰省している。
いつもはにぎやかな緑の館も、連休中は静かなようだ。
塔子も柊一にならい、作業に入ることにした。資料のファイリングにとりかかる。必要な書類と備品を持って、柊一のななめ向かいのソファにちょこんと座る。
ふたりで、しばし無言で作業に没頭した。柱時計の秒針の音が、いつになくはっきりと聞こえる。窓辺から小鳥のさえずりが響いている。
塔子は黙っていることが苦ではない。柊一もまた同じらしい。むしろ、ふたりとも無言で作業に集中したいタイプだ。だから沈黙の気まずさは、ふたりの間にはあまりない。
もっとも、最初の頃はそうではなかった。塔子は柊一とふたりでいることはとても気まずかった。柊一がつめたい印象だったからだ。
けれど、執行部の活動や獅子探しを通して、柊一が塔子をむやみに傷つけるようなことはせず、むしろ助けてくれる人だと思うようになった。お互いのひととなりを少し知った今だからこそ、塔子は安心できている。
ふと、塔子は柊一を見た。
白い頬、尖った
「どうかしたのか」
柊一が何食わぬ顔で声をあげる。塔子はすこし頬を染めた。
「ごめん、なんでもない」
手をとめて、柊一はこちらを見た。
「篠崎さんは、どうして帰省しなかったの」
唐突に尋ねられる。ゴールデンウィークの帰省のことだ。
塔子はすこし口をつぐんだ。
「……帰りたかったけど、がまんしていて」
「がまん?」
「一度帰っちゃうと、ホームシックになりそうだから……。いまは、学校にのこるのが、いいかなって」
柊一は黙ってうなずいた。
「鷹宮くんは?」
「え?」
塔子は柊一を見上げた。
「どうして帰らなかったの?」
柊一も、しばし黙った。逡巡の間があり、彼は口をひらいては閉じた。そしてあらためて塔子を見つめ、やがてぽつりと口にした。
「……帰りたくなかったから」
塔子は驚いて彼を見やった。
ふいに玄関口から物音がした。落ち着いた足音がして、活動室のドアが開く。入ってきたのは二年生の
「やあ」
史信は微笑んだ。
塔子と柊一を見やり、近くのソファに自然な動作で腰かけた。
「今日はおれたち三人というわけか」
めずらしいね、と塔子にわらいかける。
史信は購買で買ってきたという紙パックのジュースを、塔子と柊一に差し入れた。
「篠崎さんは、りんごジュースね」
「あ、ありがとうございます」
「鷹宮はオレンジジュース。好きだったろ?」
柊一は渋面をつくりながら受け取った。
「先輩……それ、昔の話ですけど」
「そう? いまは好きじゃないの? いらない?」
史信は悪びれる様子がない。
「……いただきます」
柊一はばつが悪そうな顔をした。
塔子がふたりのやりとりをきょとんと見ていると、史信がこちらを向いた。
「おれたち、いとこ同士だから」
史信がわらう。
「おれは、鷹宮が小さい頃からよく知ってるよ。こわがりで、
「やめてください」
むっつりと柊一が口を挟む。
塔子はすこし気まずく、あいまいにうなずいた。
――そうだ、と思う。
けれど、史信がこうして親しげに昔の話を持ち出すことは、いままでになかった。とてもめずらしいことだと思う。
「お手伝いさんがいるなんて……おおきなお家なんですね」
史信が眼鏡の縁をもちあげた。
「鷹宮の家は大きいよ。地元でも屈指の名家だからね。まえに言ったろう? 世が世なら、分家のおれは鷹宮に仕える身分だ」
「いまはちがう」
素早く柊一が口を挟んだ。それに史信は口の端をあげる。
「そうかな」
柱時計の、淡々と時を刻む音がする。
窓辺の白いレースのカーテンから、午後の陽光がにじんでいる。
柊一が、手元の総会の資料を手繰った。けれど、どこか上の空の様子に塔子は気づいた。柊一の雰囲気がすこし硬くなっている。それは史信が来て、実家の話を持ち出してからだ。
「ゴールデンウィークは、実家に帰らなかったの、鷹宮。帰れと言われてたんじゃない?」
史信がまたさらに声をかける。柊一の資料を手繰る手がぴくりと動いた。
「先輩こそ、帰らなかったんですか」
「たった数日のことだろ。帰る必要ない」
史信が眉をあげる。
柊一が何かをこらえたようにうなずいた。
「おれも同じ理由です」
塔子はすこし驚いて柊一を見た。
ゴールデンウィークに、実家へ帰省しない理由について、さっき彼は塔子に別のことを言った。
“帰りたくなかったから”
そう言った。
柊一の薄いくちびるがきつく結ばれている。
「ふうん」
史信が気のなさそうな返事をする。
「まだうまくいっていないの、お父さんと」
活動室に、時が止まったような沈黙が訪れた。
塔子は手にじわりと冷や汗をかいた。柊一の方は見ることができなかった。ただ、ひんやりとした空気が流れているのがわかる。
「あ、あの。ジュースいただきます」
塔子はなんとか声を押し出した。話を変えようとして切り出したが、ずいぶん間抜けに響く。
「ああ、どうぞどうぞ」
史信は何も気にした様子もなく、塔子にふり向いた。笑みさえ浮かべている。
話題を変えることができて、塔子は心底ほっとした。
柊一は何も言わず、ただ資料のページをめくっている。
塔子はストローをくわえた。あまいりんごジュースの味が、口内に広がる。
「そういえば」
史信は缶コーヒーをひと口のみ、塔子にふり向いた。
「篠崎さんは、“雪の女王”の物語を読んだことは?」
「……は?」
塔子は面食らった。脈絡のない話にびっくりする。
「えっと、あの」
「アンデルセンの童話だよ」
史信が一重の目を細め、ひらめくようにわらった。
「悪魔がつくった鏡の破片が、あるひとりの少年の目と心臓に刺さったんだ」
柊一の手がとまる。
うたうように史信が話す。
「すると少年は幸福を忘れ、ゆがんだ心根を持つようになった。やがて彼は雪の女王に連れ去られ、雪の城で過ごすようになったのさ。心は冷え切ってこおりつき、感情をなくし、彼の瞳は何も写さなくなった。彼は城のなかで、ただ孤独に氷の欠片を組み合わせて遊んでいた。つめたい鏡の破片が目と心に刺さったまま、溶かせないまま、雪の女王のひざ元で、ずっとね――」
塔子はあっけに取られて何も言えないでいた。
史信はにたりとわらった。
「そんな話じゃなかったっけ? 鷹宮」
なぜか史信は柊一に問う。
柊一は微動だにせず動かなくなった。
なんだよ、と史信がわらう。
「“氷の王子”なんだから、知っているでしょ」
“氷の王子”。
学園で、鷹宮柊一は一部の生徒からそう呼ばれている。
塔子は息をのんだ。
史信が何を言いたいのかはわからない。けれど、なぜかはっきりと悪意を感じる。
塔子が口を開くのと、柊一が勢いよく立ちあがったのは同時だった。
「鷹宮くん」
塔子の声にも振り返らず、何も言わず、活動室を出ていく。いつもの落ち着いた物腰の彼からは想像がつかない、荒々しい態度だった。
大きな音を立ててドアが閉まり、それで塔子は金縛りが溶けたように立ち上がった。
史信はのんびりと塔子に顔をあげた。
「“氷の王子”とはよく言ったものだよ。あいつにこれほど似合いの言葉はない」
「瀬戸先輩」
塔子の非難めいた口調に、史信は平然と口の端をあげた。
「いいだろ、意地悪したって。いずれ鷹宮はおれの王になる。鷹宮家という王国に組み入れられるのは、おれなんだからさ」
塔子はくちびるを噛んだ。
鷹宮柊一と瀬戸史信のあいだに横たわる問題を、はじめて覗き見た気がしている。柊一の顔が脳裏に浮かんだ。塔子にはわからないことばかりだが、彼が、この場を出ていかねばならないほど傷ついたことはわかった。いますぐ追いかけなくてはならないと思った。
塔子は黙って、史信を置いて活動室を出た。緑の館の玄関扉を勢いよく開ける。
そこに立っていたのは、塔子の宿舎の
「塔子」
詩織の血色のない顔色が、今日はいくらか上気している。詩織は小首を傾げた。一つ結びにした長いポニーテールが揺れる。
「詩織さん、どうしてここに」
塔子は驚いて声をあげた、
「呼ばれたのよ」
「呼ばれた?」
「ええ」
銀縁の眼鏡の奥の瞳が、うれしそうに細められる。
「いま、鷹宮くんが出て行くのを見たけど、戻ってくるかしら」
塔子はハッとした。
「鷹宮くんはどこに?」
「え? あっち……池の方だけど」
塔子はうなずいた。
ありがとうございます、と言ったと同時に駆け出す。詩織が塔子を呼ぶ声がしたが、かまってはいられなかった。
塔子は池の方へ走った。
鷹宮柊一が駆け去った方へ、がむしゃらに走った。
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