14 誰かの王国(8)

 



 ――この学園は、生徒数に比して、大人は少ない。教職員と作業員、事務員。おおむね、その三種類の大人しかいない。しかも”自主自律”の校風だから、大人が生徒たちの活動に干渉することも、あまりない。”生徒の、生徒自身による、生徒のための”活動をする環境がととのえられている。


 部活動やイベントの運営――。こんなことも自分たちでやるのか、と新入生の塔子は毎回驚くばかりだった。そしてその最たるものが、緑風会執行部の活動だった。


 自分たちでものごとを決め、決めたことを遂行し、自らの手でかたちにしていく――。


 それができる環境。それをやりおおせる、自立した部員たち。そんな生徒たちの手によって、学園は動いているのだと、そう思っていた。


 でも、実態はそうではなかった。

 学園にけれど、学園に関わる大人たち。学園の外にいる――目に見えない大人たち。じつは学園は、そんな大人たちの手のなかにあった。そして生徒わたしたちは、そのなかでふらふらと揺れていた。


 姿の見えないその大人たちに、生徒わたしたちは踊らされ、びを売っていたのだ。

 かりそめの自由と引きかえに。



 自由。

 “自由の風が吹く学園”――。



 この学園の理念について、榊葉はこう語っていたじゃないか。



 “まなは権力に左右されない、自由な場所であるべき”だと。



 それは学園が創立したばかりの、大正期当初の理念だ。

 いまとなっては、跡形もない。崩壊しただろう理念。

 榊葉から語られるこの松風館がくえんの姿は、清廉潔白せいれんけっぱくで、とても好ましいものだと思っていたのに――。


 失望の念がぬぐえず、塔子はじっと動けずにいた。一気に現実に引き戻された気がした。

 かがやく緑の世界に惑わされていたけれど、ここは現実なのだ。

 まぎれもない、現実なのだ。



 ならば――獅子の伝統は、結局なんなのだろう?



 “篠崎さん”


 榊葉は言った。獅子の伝統について説明をうけたときだ。



 “いまは苦しいだけかもしれないけれど。この伝統の意味を、いつかきみも実感してほしい。緑の王国という、おとぎ話の世界の、その意味を。悪いものじゃないんだ。夢見がちでもない。

 この世界がめざすのは、むしろとても現実的な――”



 な? 

 現実的な、何?



 いま、史信から聞いた現実は、あまりにも容赦なく、暗い影を落としているのに――。




 いつのまにか時刻は午後八時を過ぎ、すっかり夜になっていた。


 準役員・三年、今井いまい彼方かなた仁科にしな壮平そうへい、役員書記・二年、佐伯さえき千歳ちとせがそれぞれ館にやって来て、執行部員全員が館に集合した。


 活動室はとたんに騒がしくなる。


「そろそろだな」

 声をあげたのは、壮平だった。活動室の柱時計を見やり、ソファから立ち上がる。うんと伸びをし、大柄な身体を震わせる。

「書類仕事はどうにも性に合わないなあ」

 聞き取って千歳が小さく笑む。


「ああ、そろそろですね」

 史信も立ち上がった。部屋にいる面々が腰をあげる。


 塔子と良司がきょとんとしていると、柊一が立ちあがりながらふたりを見やった。

「“伝言”。今夜だろ」

 ああ、と良司が手を打った。



 “四月二十七日、二十時三十分

 西の空を見よ”



 “獅子からの伝言”。今夜だった。

 塔子はすこし顔を赤らめた。


「榊葉と高橋は?」

 彼方だ。

「ああ、呼ぼうか」

 壮平が階上うえを見上げる。

 同時に足音がし、榊葉と一樹が階下に降りてきた。

「ごめんごめん、終わったよ」

 執行部員全員がそろっているのを見回し、榊葉がにこにこと笑む。


 塔子は榊葉のとなりを盗み見た。――高橋一樹。小柄で、よく日に灼けた身体、動きをつけた短い色素の薄い髪。ぺしゃんこのバックパックを無造作に肩にかけ、全開にした学ランから白いTシャツをのぞかせている。

 大きな瞳を細めて壮平に話しかけ、へらへらとわらう姿は屈託がない。

 無邪気で、お調子者の彼。


 ふと一樹がこちらを見やり、塔子はわれにかえった。見つめてしまっていたらしい。視線を泳がすと、一樹は塔子にからりとわらいかけた。


「会長」

 史信が榊葉に近づく。榊葉はのんびりと顔を向けた。

「なに」

「おれが説明しました、一年生に」

「なにを」

「会長たちがなにをしているのか、ということを。――階上うえで」

 淡々とした史信の声。

「……ああ」

 聞いたとたん、榊葉は一樹と目を見合わせた。すべてを理解したようだった。

 一樹が笑みをおさめる。そして榊葉、一樹はふたりして塔子にふり向いた。

 神妙な顔つきだった。


 塔子は怖気づいた。が、それでもふたりをおずおずと見つめ返す。




 ――なぜですか。

 心のなかでつぶやいた。



 なぜ、王国の夢を見るのですか。

 ――現実の影を踏みながら。




 声がかけられることはなかった。

「……さあ外に出ようか」

 榊葉が笑み、やさしく声をあげる。一樹もただ口角を引き上げただけだった。




 玄関を出る。濃い夜闇のなかを、びゅうと風が吹き抜ける。

 春のうるんだ冷気が塔子の肌をなでていく。寒くはない。こたえるほどではない。おだやかな冷風は、あわただしく揺れる心を鎮めてくれる。

 林は黒く沈んでいた。葉擦れの音よりも、虫の音がおおきく響いている。


「じゃあ、またあとで」

 壮平が片手をあげた。千歳と連れ立って、いそいそと館を出ていく。


 “獅子の伝言”を生徒たちが実行しているか、外の人おとなたちに気づかれないようやりおおせているか。それを確認しに校内を見回るのだ。“審判”の役目だ。今回は、壮平と千歳のふたりだけで、その仕事にあたることになったようだった。


 八人のメンバーがあとにのこされた。

 三年の榊葉さかきば直哉なおや荒巻あらまき志津香しづか高橋たかはし一樹かずき今井いまい彼方かなた

 二年の瀬戸せと史信しのぶ

 そして一年の塔子、柊一、良司。



 気づけば、時刻はちょうど二十時三十分。



「西ってどっち」

 良司がとなりでたずねる。しかし場にいる全員が一方向を――銀杏いちょうの大木のほうを――向くので、すぐにそれとわかった。そして方角がわかると同時に、“獅子の伝言”の意図することもわかった。

 みごとな枝ぶりの銀杏のその上に、光り輝くもの。濃紺の夜空に一点。



 星だ。



 ああ、と塔子は声を漏らした。


 明るい。見過ごせないほどに明るい。中空に光る金の星だ。

 天頂にも星々がきらめいているが、それらのどの星より大きく、強く輝きを放っている。



よい明星みょうじょう。――金星だ」



 榊葉がつぶやいた。


「へええ」

 良司が感嘆の声をあげる。


「あれ、金星なんですか?」

「そうそう。今の時期は日暮れの頃から、西の空でひときわ明るく光る星を見つけたら、まず間違いなく金星」

「そうなんだ……妙に明るい星があるなと思ってはいたけど……。金星だったんですね。伝言はこれを指していたのか」

 得心する良司。塔子のとなりで柊一がじっと空を見上げている。


「宵の明星って、夕方に見られる星じゃないの?」と空を仰ぎながら志津香。

「でも、最近はこの時間でも見えてるね。時期によるのかな」

 返したのは彼方だった。

「金星は、からね」


「今日、金星は最大光度さいだいこうどを迎えたらしいですよ」

 史信がうたうように話す。

「ここ最近では、一年五か月ぶりに、金星が最も明るくなる日なんだとか」

 へえ、と周りから声が上がった。


「なんでそんなこと知ってんの」

「そりゃ調べますよ」

 うろんげな一樹に、史信は苦笑して返した。

「今回の伝言、わかりやすかったし。なんでわざわざ今日この時間を指定したのかなって、気になるじゃないですか」

「……ふうん」


 ゆるゆると風が吹く。


「明るいなあ、ほんと」

 良司が感じ入ってつぶやくので、塔子もわれ知らずうなずいた。



 ――明るい。輝いている。

 夜のさなかにあって、金星ばかりがひときわ光彩を放っている。深い金色。強いその光。けれど刺すようなまぶしさではない。さんざめくまばゆさではない。


 のようだ。

 道標みちしるべのように光っている。


 塔子は胸にそっと手をあてた。



 ――“獅子の伝言”。

 その内容にとりたてて意味はないと、榊葉は言っていた。

 けれど獅子はきっと、つたえたかったのだろう、と思えた。明星の輝きを、うつくしいこの眺めを、共有したかったのだろう。

 塔子はさりげなく周囲を見回す。



 いまこの場にいる、が。――獅子が。

 彼が統べる王国の民――緑の民に、つたえたかったのだ。



 面々は、最初はしばらく騒いでいたが、ひとりふたりと口をつぐみ、やがて黙りこんだ。虫の音が響くなかで、全員がひとつの星を眺めていた。

 銀杏の樹冠のその上で、しんしんと光る金星を。


「――篠崎さん、話があるんだって?」

 高橋一樹が、いつのまにか塔子の近くに寄って来ていた。塔子の両隣にいる良司、柊一も一樹を見やる。


「おれに話があるって。榊葉から聞いたよ。なんの話?」


 いつもよりも大人びた声で、一樹がたずねる。

「え、と。その」

 塔子はふいをつかれ、まごついた。すこしうつむき、けれど数瞬のうちに顔つきをあらためた。



 高橋一樹が獅子であるかどうか。それをみきわめなければいけない。



 一樹を見上げる。

「……先輩は、うそをついたと……思うんです」

 真っ向から切り出す。

「なんのこと」

「入寮式のアリバイのことです」


 ――入寮式の夜。塔子がトンネル通過をしていた時間。

 高橋一樹は、鷺沢さぎさわいけに、恋人の三年・相沢あいざわ菜保なほと一緒にいたと述べている。


 しかし、それを相沢菜保に確認してみると、事実ではないことがわかった。


 鷺沢池で一緒に過ごしていない、と言うのだ。

 それどころか、菜保は困惑しながらこう返した。


『一樹に……入寮式を一緒に見ようって誘ったのよ。でも、断られた。一樹は面倒だって、寄宿舎に残るって言ってた。てっきりそうだと思って……』


 ――アリバイは不成立。


「この時点で、先輩が嘘をついているんじゃないかと考えました」

 塔子の言葉に、一樹はなにも言わない。

「獅子の継承のしきたりは、こうでしたね」



 ――“獅子の子は獅子を探す。けれど、当の獅子は一回嘘をついて、その捜索から逃げる”



「高橋先輩は嘘をつくことで、このしきたりを実行しているのかと思ったんです。つまり――先輩が獅子じゃないかと疑いました。はじめは」

 良司が身じろぎする。


 気づけば、場にいる全員が塔子の言葉に耳を傾けている。


 塔子は一樹を見つめた。

「でも、違和感があったんです。へんだと思ったのは、相沢さんの態度でした」


 一樹の噓に“心当たりはあるか”と、柊一が菜保にたずねたときだ。

 菜保はぽかんと口を開けていたが、唐突に、雷に打たれたような顔をした。そしてみるみるうちに青ざめていった。


「ふしぎな反応でした。こんなとき、だいたいの人はいぶかしんだり、不快な表情になったりすると思うんです。でも、彼女はハッとした表情を浮かべた。そして蒼白になった。――だから」

 塔子は緊張しながら続けた。


「相沢さんには、なにかがあったのじゃないかと思ったんです。高橋先輩の嘘について」


「心当たり?」と良司。

 塔子はふたたびうなずいた。

「そう。高橋先輩が何の嘘をついたのか、相沢さんはんじゃないかと思って……」

 一樹を見上げ、言葉を継ぐ。


「その夜のことです」


 寄宿舎にとある醜聞スキャンダルが広まった。


 夕方の中央広場で、衆人環視しゅうじんかんしのなか、菜保が一樹の頬を引っ叩いたという。

 とくに菜保は取り乱しており、一樹に罵倒ばとうの言葉をいくつも浴びせていたというのだ。


「……ああ」

 短く良司がつぶやいた。醜聞スキャンダルは、どうやら男子も周知の事実らしい。


 塔子は唇を湿した。

「その噂を聞いて……先日のお茶会をふと、思い出したんです。他己紹介のとき、今井先輩が高橋先輩について、“なぜかもてる”と、紹介していました」


「……“なぜか”はよけいだよ」

 一樹がやっと声を発した。くつくつと苦笑いする。


 皆も小さくわらっている。わらい声にすこし安心したが、塔子はこわばった表情を崩さなかった。


「高橋先輩の噓がわかったその夜、相沢さんは高橋先輩をひどく責めている。……その行動の意味を考えたとき、こう思ったんです」

 息を吸い込む。


「高橋先輩は、獅子ではないんじゃないか。もっと別の噓をついていたんじゃないか、と、思ったんです」


「……つまり?」

 一樹が問う。

「つまり……」

 本人の手前、こちらを注目する面々の手前、ひどく言いにくい。

「いいよ、言っても」

 優しい声音。彼がくすりとわらう気配がして、塔子は一樹を見上げた。

「ほら」

 知ってか知らずか、一樹がためらいなくうながす。

 塔子はしばし黙りこんだが、意を決し口を開いた。「――つまり」。



「高橋先輩は、入寮式の夜、べつの女性ひとと会っていたんじゃないかって。そう思ったんです」



 声が尻すぼみになっていき、塔子はみるみるうちに顔を赤くした。

「……それって、浮気ってこと、だよな」

 良司がおずおずと確認するので、さらにいたたまれなくなる。

 とんでもないことを言ってしまったかもしれない。皆しんと静まって、塔子はますます縮こまった。


「その、ごめんなさい。まちがっていたら、その……」

「……いいや」

 口を挟んだのは、張本人ちょうほんにんの一樹だった。

「間違ってないよ」

 息をつく。そしてわらった。



「そう。入寮式の夜、おれはべつの女性ひとと一緒にいた」



 良司、柊一は黙り込んだ。当惑した雰囲気だが、醜聞スキャンダルの内容を思い出したらしく、納得がいったようにみえた。


 塔子はさらに顔を赤らめた。「やっぱりか」と思うと同時に、気まずさがこみあげてくる。一樹の顔すら見上げることができない。

 そんな三人の反応をよそに、一樹はずいぶんあっさりとしていた。


「――鷺沢池でさあ、告白されたんだよね」


 ――告白?

 では浮気ではないのか。

 塔子がほっとすると同時に、すかさず彼が言葉をつないだ。



「それで、付き合うことにした」



「……はあ?」

 固まっていた良司が遠慮なく非難の声をあげる。

「付き合う? 恋人かのじょが――相沢さんがいるのに?」

 一樹はすこしの間をあけて、ゆっくりうなずいた。


「その子のこと、まえから可愛いなと思ってたんだよね。相手がおれに好意を持ってることも知ってた。だから――」


 肩をすくめる。


「菜保は勘づいてたよ。それでもだましだまし付き合ってた。だけど入寮式の夜、その子に告白されて……こらえきれなくなっちゃったわけ」

 からりとわらう。


「まさかきみらに調べられるなんてね。悪事はすぐバレるんだな」


 柊一が静かに声をあげた。

「……それで、相沢さんは」


「うん、おれの噓を知ったから、すごい剣幕けんまくでやって来てさ。――何もかも話した。菜保の予感的中だったろうね。あとは皆さんご存知のとおり。菜保とは別れた」

「新しい彼女とは?」。良司だ。

「仲良くやってる」

 はああ、と良司が大きな息を吐きだした。


 塔子は視線を泳がせた。

 相沢菜保がかわいそうだ。


「どうしてこんな人が、クラブ連合会総長なんですか?」

 塔子がひそかに思ったことを、良司が口にした。


 さあね、と一樹がカラカラとわらう。そして塔子にふりかえった。



「ということで、篠崎さんの推理は当たり。――おれは獅子じゃない」



 あーあ、と割って入ったのは榊葉だった。

「一樹、なんてことしたんだよ」

 そうですよ、と史信も合いの手を入れる。志津香は黙り込んでいるが、一樹に反感を抱いていることはたしかだ。


 一樹はへらへらとした態度を崩さない。塔子は憮然ぶぜんとした。推理が当たっていても、楽しい事実ではない。



「――それだけ? 高橋」



 ふと、静かな声がした。



「いま、また嘘をついたよね」

 割って入ったのは彼方だった。



 声に皆がふりむけば、彼方は小首を傾ける。両手で一眼レフをもてあそびながらも、視線はまっすぐ一樹に向けている。


「……嘘?」

 塔子が思わずつぶやき、それに彼方はゆっくりうなずいた。


「高橋はそもそも、、ということ」

「それは、どういう……?」


「……べつにどうでもいいじゃん」

 一樹の表情がたちまち曇る。彼方はそんな彼を横目で見、かまわず言葉を重ねた。



 ――入寮式の夜のアリバイについて、高橋はおれたちに、“相沢さんこいびとと一緒にいた”と嘘をついた。



「でもさ、そのアリバイの証言を取るために、篠崎さんらが相沢さんに聞き込みするだろうことは、予想できたよね?」


 しん、と場が静まり返る。


「そしてその聞き込みによって、相沢さんこいびとが、高橋の噓に気づいてしまうことも予想できた。結果、浮気が発覚して泥沼にはまることも想定できた」



 ――そんなこと、高橋なら、あらかじめわかっていたろう? 



 一樹は何も言わない。


「浮気を――うしろめたいことを隠したいのなら、もっと別の噓をつくべきだったよね。おれたちはまだしも、せめて相沢さんに気づかれない嘘をつくべきだった。……高橋、どうしてこんな、誰にもわかりやすい嘘をついたの」

 彼方が一眼レフをいじる手をとめる。


「どうして? 高橋」


「それは」

 一樹が言おうとして、口を閉ざす。



「高橋は、下手な嘘はつかないよ。下手な嘘をついたなら、そこに意味があるからだ」



 ――意味。



 彼方は落ち着き払っていた。

「浮気を隠すために嘘をついた? 悪事はバレるだって? ちがうだろ、これは、浮気を隠すための嘘じゃないんだろ」



 塔子はここへきて、夜の茶会での彼方の発言をふいに思い出した。他己紹介で、彼方は一樹をこう紹介していなかったか。



 “高橋は、二面性があるよ。

 明るくて裏の無いように見えるけど、ずいぶんしたたかだ。地頭が良くて、たくらむのが上手い“



 一樹がしぶい顔をして頭をかき、それで塔子はわれにかえった。

「そういうの、いいのに」

 彼方がじっと一樹を見つめる。



「どうしてなの、高橋」



 冷静な彼方の声。一樹がさらに頭をかいた。


「……わたしも、知りたいです」


 か細い声で、塔子は思い切って口にした。

 皆が驚いたようにこちらを向く。

「先輩の……ほんとうの理由は、なんですか」


 一拍の間。


 やがて一樹は肩をすくめた。あらたまって塔子にふり向く。

 そして、小さく笑んだ。



「……タイミングがよかったんだよ、きみらの取り調べ。――この機会を利用しない手はないと思った」



「利用……ですか?」

 一樹はうなずいた。

「決めてたから」



 ――菜保と別れる、って。



「くわしいことを説明する気はないけど」


 淡々と告げる。


「別れようとしてたんだよね。そして別れるときには、一発殴られておこうと思ってた。この際だから、派手にさ」


 塔子は面食らった。

 さやと風が流れる。


「そんなときに、きみらの取り調べがはじまった。――茶会で、篠崎さんに入寮式の夜のアリバイを尋ねられて、ふと思いついたんだ。を仕掛けてみるのはどうかなって。きみらの調査をきっかけに、めぐりめぐって菜保に浮気を気づかせて、激怒させる時限爆弾。……いい考えだと思ったんだよね」


 びっくりして尋ねる。

「殴られるための、嘘? どうしてこんな回りくどいことを」



「どうしてと聞かれても。思いついてしまったからなあ……。それに、悪くなかったろ、“継承のギシキ”の賑やかしにもなったし」



「儀式も……面白くしようとして……?」

 つまり、殴られるため、儀式を面白くするため――二つの目的を同時に達成するために嘘をついたと?



 一樹が無邪気にわらった。



「計画はまずまず成功したかな。時限爆弾はぶじ爆発。ま、一発じゃすまなかったけどね」



 一樹のひょうきんな声が夜に落ちる。

 皆が一時静まった。固まった、という方が正しいのかもしれなかった。


 まず沈黙を破ったのは彼方だった。

「そういうことか」

 くぐもったわらいをひとつこぼす。

「それで、全部思いどおりになったと……。ほんと性格わるいよね」


「一見、なにも考えてなさそうに見えるのにな」

 榊葉がすばやく声をあげた。

「まだ足りないんじゃない? 人でなしはもっと殴られておけばよかったのに」


 榊葉の反応を聞いて、史信がはばかりながら、わらいを漏らす。志津香が大きくため息をつく。

 柊一は、塔子のとなりで、ひややかな空気をただよわせている。

 良司は口をへの字に曲げて、塔子はといえば、何とも言えず、一樹を見つめた。


 一樹はあっさりとしたものだった。


「正直、こんなにうまくいくとは思わなかったけどね。おかげですっきり別れられたし、ギシキも充実させることができたし。おれ、天才じゃない?」


 彼方が目を細める。

「……高橋、いずれ刺されそうだ。気をつけなよ」

「――刺されないよ、うまく逃げるから」


 はは、と一樹はわらいをこぼした。


 そしておもむろに塔子を向く。「篠崎さん」。

「茶会のとき、思ったんだ。篠崎さんならきっと、解いてくれるんじゃないか、って。だから嘘をつくことにした。――おみごとでした」


 塔子は肩をすくめた。ぜんぜんうれしくない。けれど、一樹の顔を見ていると脱力してしまうのもたしかだった。

 ふ、と息を吐きだす。




 ――まったく、なんて人だろう。




 一樹がふと目線を上げる。

「……お、金星がもっと明るくなったんじゃない?」

「話をそらすつもり?」

 あきれる榊葉をしり目に、一樹は空を仰ぐ。


「だってこれ以上言うことないし。――あ、いまのこと、菜保には絶対言うんじゃないぞ」

 皆に重々念を押し、彼は塔子をあかるく見やった。



「これで、最低男の白状はおしまい」

 にんまりと笑む。



「さて、つぎなる嘘つきはだれでしょう? 名探偵の篠崎塔子さん」




 頭上の金星は、暗夜に一点、みごとな輝きを放っている。












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