第五章 赤の民
1 朝日(1)
野鳥のさえずりがして、塔子は目を覚ました。
目をこする。寮部屋の天井をぼんやりと見つめて、そして枕元の置時計を見た。
午前五時。
いつも起床時間は午前六時半だから、今日は一時間半も早くに目覚めてしまったらしい。
しばらく布団のなかでじっとしていたが、思い切って起き上がった。ゆっくりと伸びをする。
二度寝をする気はなかった。
塔子はいつも二段ベッドの上段で寝ている。下段で眠る、同室の
塔子は、古谷詩織と共同生活をはじめてひと月になるが、彼女の寝顔をいまだ見たことがない。
古谷詩織は毎晩遅くまで勉強をしていて、塔子よりも先に就寝したことがない。それに就寝時はいつも、ベッドに取り付けられたカーテンをぴったり閉めて眠るので、朝にも寝顔を見る機会がないのだ。
今朝も詩織は同様だった。閉ざされたカーテンからは、何の音も聞こえない。
詩織のベッドをしばらく見つめ、やがて塔子は部屋の窓へ目を移した。カーテンから朝日が漏れている。近づいて、すこしだけカーテンをめくった。
新緑がまぶしい。
いてもたってもいられないような気持ちになって、塔子は急いで着替えを済ませた。
早朝に外に出てみる気になったのは、この学校に来てはじめてのことだった。
寄宿舎を一歩出れば、野鳥のさえずりが響き渡る。
背の高い松林や
塔子は右手を宙に上げ、木漏れ日にさしのべた。細いゆびさきの上で樹影が踊る。朝日は透きとおっている。
陽射しの色合いは時間帯によって刻一刻と変化する。日がのぼりやがて暮れるまで、ゆっくりと陽光は色変わりし、そのうちに蜜色、金や朱が混じっていく。
いま、塔子の手の上にあるのは、その色変わりするまえの、透度の高いひかりだ。
塔子は空を見上げた。樹冠の向こうの、うるむような水色の空。その先の
緑深い林に、惜しみなく降り注ぐ、ひかりの雨。
しんとした気持ちで、塔子は寄宿舎の周縁を散策することにした。
薄い樹影が彩る遊歩道を、一歩一歩たしかめるように歩く。
――獅子の伝言。見事な金星と、クラブ連合会総長・
入寮式の夜。高橋一樹は校内の
“獅子は一回、嘘をつく”――獅子の継承のしきたりだ。
一樹が入寮式のアリバイを偽ったのは、そのしきたりに
つまり、一樹が獅子ではないかと一時は考えた塔子らであったが、そうではなかった。
彼が、鷺沢池にいたことは正しい事実だった。
彼が噓をついたのは、“どこにいたか”でなく、“だれといたか”ということ。
高橋一樹は鷺沢池に、相沢菜保でなく、別の浮気相手とともにいたのだった。
高橋一樹は、相沢菜保と別れたかった。別れるからには一発殴られておこうと考えた。
塔子の獅子探しに乗じて、高橋一樹はアリバイの嘘をつき、その嘘を塔子らに暴かせて、浮気を発覚させた。激怒した菜保は、一樹のねらいどおり彼を殴り、見事喧嘩別れをやりとげたのだった。
高橋一樹のまったく個人的な事情による嘘で、獅子探しとは何の関係もない。
しかし一樹いわく、獅子探しを面白くしようとしてついた噓でもあるらしく、何にせよはた迷惑な一件であった。
塔子は思わず吐息をついた。
高橋一樹がくせ者であると、じゅうぶんに理解できた一夜だった。
――けれど。
高橋一樹が獅子でないと分かったいま、獅子の候補者はさらに絞り込めた。
のこる候補は、二人。
緑風会執行部準役員・三年、
役員会計・二年、
この二人のうち、どちらかが、獅子だ。
入寮式の夜。塔子が
今井彼方は、校内の中央広場でクスノキの写真を撮影し、じきに宿舎に帰ったと言った。
瀬戸史信は、一年男子の通過儀式の立ち会いを終え、緑の館にいたと話している。
そのふたりを見た者は、いまのところだれもいない。
ふたりのどちらかが、噓をついている。
入寮式の夜、
学園の王、獅子なのだ。
塔子は歩を止めた。林道の先で、梢がしずかに鳴っている。
もうすぐなのか、と空恐ろしい気持ちになった。
もうすぐ答えにたどり着ける。獅子を見出し、代替わりをし、のちに塔子は次代獅子となる。
しかし、塔子の気持ちはいまだ何も準備ができていなかった。
林道にぽつんと塔子は
その間にも、朝日は
――もっと考えなくちゃいけないことがある。
――紗也加ちゃん。
表情をくるくると変える彼女の明るい瞳が思い出される。
同時に
――紗也加ちゃんは、坂本くんのことがすきだ。
塔子は考えを
――入寮式の日より、たぶん、いまは、もっともっと彼がすきだ。
すこし前まで、坂本良司ととりわけ仲の良い女子といえば、
紗也加もそれを喜んで、やがて良司を意識するようになっていった。そう、言っていた。
入寮式の登山中に、紗也加が語ってくれたことだ。紅潮した頬で語る彼女の姿は、とてもうつくしかった。
塔子の胸にちくりと痛みがさした。
――坂本くんのことがきっかけで、紗也加ちゃんはわたしに話しかけてくれた。
そして話しているうちに打ち解けて、ふたりで菜の花畑を見た。
さざ波のように打ち寄せる、黄金色の花々を。ふたりで、手をつないで見たのだ。
――紗也加ちゃん。
塔子は祈るように手を組んだ。
あのときの手のぬくもりを、感動を、けっして忘れたりしない。
“とーこさん”
良司の声が頭のなかで響く。
陽だまりのなかで、塔子は彼にも思いを馳せた。
良司の色素の薄い茶の瞳。夜、
「……うれしかった」
ぽつりと塔子はつぶやいた。
良司に“とーこさん”と呼ばれるようになったこと。うれしかった。
良司とそれだけ仲良くなれたことがうれしくて、紗也加に優越感を抱いてしまうくらいだった。
優越感。
自分の考えに塔子は真っ赤になった。
このほんのちっぽけな優越感から、紗也加に心ない言動をした。塔子は彼女の恋心に水を差した。謝ろうとして何度もしくじって。けれどいまは、紗也加が、塔子に向き合おうとしない。
坂本良司の存在が、自分と紗也加のあいだに暗い影を落としている。
――なんて伝えれば、紗也加ちゃんと仲直りができるだろう。
塔子は空を見上げた。
――『坂本くんのこと、好きじゃないよ』って、そう言えば安心してくれるのかな。
坂本くんとは、一緒にいる時間が長かったから、すこしだけ気安くなった。彼だってそれ以上の気持ちはないだろうし、わたしだって坂本くんのこと、友達以上には想っていない。
そう説明すればいいのかな?
塔子は閉口した。
――本当に、それでいいのかな。
立ち止まる。やわらかな風が、うつむいた塔子の首すじを撫でていく。
押し寄せてくる感情は、快いものではない。
塔子はぐっと拳を握りこんだ。――やっぱりちがう。そう思う。
――これじゃまるで、坂本くんを好きにならないことと引きかえに、友達付き合いをしてもらうみたいだ。
そうじゃない。それで仲直りできるなんて、思わない。
第一、紗也加が喜ぶはずがない気がした。
入寮式の登山中、紗也加は塔子に言ったじゃないか。
『あのね。勝手に想っているのもわたし。勝手に嫉妬しているのもわたし。自分勝手な目的のために、塔子に近づいたのもわたし。だから、塔子は何も謝る必要がないんだよ』
――前からそうだったじゃないか。彼女は正直で、人に迎合しない。自分のやりたいこと、思うことを、率直に伝える人だ。人のせいにせず、自分の言動を自覚して声を上げる人だ。
そんな人に、「坂本くんを好きにならないから、仲良くしてくれ」なんて、こんな卑屈な言葉を投げることに何の意味があるだろう。
自分から、彼女との距離を離すだけじゃないか。
――紗也加ちゃん。
塔子は顔をあげた。
――どうしたら許してくれるかなんて、考えても答えが見えないな。
それどころか、どんどん深みにはまって、身動きが取れなくなってしまう。
いまもそうだ。そして最近の塔子はずっとそうだった。
――でも、考えて動きが取れなくなって、結局なにもつたえていないままなら、何もしていないのといっしょなんだ。
ゆっくり目を閉じる。
塔子は深く息を吸いこんだ。
林の緑のにおいが身体じゅうをめぐる。肩や髪にふれる朝日は、やわらかくあたたかい。
――紗也加ちゃんとこれからずっと気まずいままなんて、いやだ。
紗也加ちゃんと、友達でいたい。
――そう思ってもいいんだろうか。
願ってもいいんだろうか。声に出してもいいんだろうか。
塔子の胸に不安がよぎった。友達になったり、友達と仲を深めたりする上手な方法を、塔子はほとんど知らない。
ハッとして、ぶんぶんと頭をふる。
想いを打ち明けること、へたでもつたえること。塔子はこの学園に来て、それを学んだじゃないか。
だからこそ、坂本良司と打ち解けることができたじゃないか。
――変わりたい。変わっていきたい。
かがやく木漏れ日のなかで、塔子は、はっきりとそう思った。
そしてつたえよう、と決心した。
塔子の思う気持ちをそのまま。とにかく、紗也加につたえよう、とそう思った。
*
寄宿舎に戻ると、朝はもう、はじまっていた。
起床した女生徒たちが、にぎやかな声で登校準備をしている。洗顔し制服に着替え、食堂に向かう一団が、つぎつぎと廊下を通りすぎていく。
塔子の自室は一階だが、自室に帰らず、その足で二階へ向かった。二階の中ほどに位置する寮部屋までたどりつく。部屋の前には、
二年
一年
とネームプレートが下がっている。
塔子はしばし
「はあい」
すぐに返答があり、ガチャリとドアが開いた。
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