2 朝日(2)

 



 部屋から出てきたのは、二年生の山田やまだ明日香あすかだった。

 みじかいショートカットが似合う女生徒だ。まるい瞳で塔子をまじまじと見つめ、やがてにっこりわらう。


「あ、あの」

「おはよう、篠崎さんだね。紗也加さやかに用かな?」


 塔子はおっかなびっくりでうなずいた。部屋の奥に紗也加が見えた。こちらにふり向いている。塔子が来たことに驚いた様子で、きょとんとしている。

 塔子は声をしぼりだした。


「おはよう、ございます。その……紗也加ちゃんに、話があって……」


 二年の山田明日香は、すこし驚いた顔をしたが、すぐにうなずいた。


「紗也加、お客さんだよ。わたし、食堂行っているね」


 にこりと塔子に笑いかける。

 気をきかせて席を外してくれるのだとわかり、塔子はあわててお辞儀をした。


「時間に遅れないようにね」


 言い置いて、明日香がするりと部屋を出ていく。

 玄関に取り残された塔子は、紗也加をうかがった。


 いつものポニーテールではなく、髪を下ろしたままの紗也加は、それだけですこし大人びて見える。制服に着替えているが、スカーフは結んでいなかった。ちょうど支度しているところだったのだろう。


 紗也加は塔子を見た。意を決した塔子の様子が伝わったらしく、すこし気まずそうに目線をそらす。


「……上がったら?」

「う、うん」

 塔子は上靴を脱いで、おそるおそる居室に足を踏み入れた。


「適当に座って。話って?」

「えっと……」

 紗也加はちらりと部屋の掛時計を見上げた。午前七時すぎ。

「――準備しながらでもいい? 支度するの遅くって」

「うん」

 塔子はどぎまぎとうなずく。


「今日は……テニス部の朝練はない日だった、よね?」

 紗也加がこちらを向いた。「そうそう」。

「今日は火曜日だからね。よく覚えてるね」

「……うん」

 友達の予定を、塔子はちゃんと覚えている。


 しばし無言の時間が流れた。

 紗也加は自身の勉強机に座り、卓上鏡を取りだして、髪を結い始めている。つやのある黒髪がさらさらとくしのあいだから流れていく。

 勉強机は写真や雑貨やアクセサリーであふれていて、にぎやかでじつに紗也加らしい。


 塔子は部屋の中央に置かれた小卓のスペースに座った。紗也加の後ろ姿を見つめ、こっそりと深呼吸をする。


「紗也加ちゃん」

 声が震えないように、塔子はなんとか声をだした。心臓が破裂しそうなほどうるさく鳴っている。

「……なに?」

 紗也加が静かに返す。

 塔子のひざの上に置いた両手がみるみるうちに、じんわりと汗ばんだ。

 ぎゅっとにぎりこむ。息を吸う。




「…………仲直り、しに来たの」




 紗也加のくしけずる手がとまった。



「……さいきんのこと。紗也加ちゃんと、仲直りしたくて、話しに来たの」


 塔子は唇を湿した。返事がない紗也加の後ろ姿に向かって、声を押し出す。

「あ、あの――」

「……」

「部室点検のとき……へんな態度をとってしまって、ごめんね。わたし、その……」


 恥じ入ってぎゅっと目をつむる。あのとき湧きあがった感情――紗也加への優越感――を、どう釈明すればいいのか。謝ろうと決心して来たけれど、いざ本人を前にするとやはりうろたえてしまう。

 悩んでうつむいて、それでもとまた顔をあげる。


 目を開けると、紗也加がこちらにふり向いていた。



「――すき?」

 抑えた声音で、紗也加が声をあげた。


「……え?」

「塔子は坂本のこと、すき?」


 ひどく真剣なまなざしで、こちらを見つめる。

 塔子は唾をのみこんだ。

 緊張はしているが、困惑はしなかった。ぜったいに聞かれるだろうと思っていた質問だった。


 塔子はすこし黙った。今朝、考えたことを思い返して、慎重に口を開く。



「……わからない」

 ぽつりと、答えた。


「わからない?」

 紗也加が怪訝けげんに眉をひそめる。

 塔子はゆっくりうなずいた。



「……坂本くんと友だちになれて、本当にうれしくて。いまはただ、その気持ちでいっぱいで……」

 目を伏せる。

「その、すき、とかは……まだ、わからなくて」



 本心だった。



『坂本くんのこと、好きじゃない』、と。一時いっときは、塔子は紗也加にそうつたえることを考えた。紗也加を安心させるための台詞せりふだった。けれど、それをやめ、代わりに塔子は本心をつたえることにした。


 塔子は目線をあげた。紗也加を見つめる。


「まだ、か」

 紗也加がつぶやく。 



 “まだ、わからない”



 塔子なりの、最大限の本音だ。



 ――坂本くん。



 坂本さかもと良司りょうじの快活な茶の瞳。大きな笑顔。

 ためらいなく声をかけてくれたこと。あきらめず塔子に関わろうとしてくれたこと。日の光のようなあかるさと、塔子に見せたほんのすこしのかげり。


 彼の存在がどれだけ塔子の支えになっているか。良司はたぶんすこしも知らない。



「坂本くんは、とてもたいせつな友だちで……だいじな人、だよ……とても。それだけで、いまはもう、気持ちがいっぱいで……」


 考え考え声をだす。頬が熱くなる。


「この関係がずっと続けばいいなって……毎日、そう、思ってる……。それ以上の気持ちは……まだ、考えたことがなくて……」


 考える余裕が、まだない。

 いまはまだ、そこまで自分の準備ができていない、という気がしている。


 紗也加は複雑そうな表情かおをした。彼女のととのった面ざしに影がさす。髪をおろしているからか、つよく“女”の気配がした。


「そっか」

 にがく紗也加は笑んだ。

「今後、すきになる可能性もあるってことだよね。その言い方だと」

「……紗也加ちゃん」

「いじわるだね、ごめん」

 紗也加は目を伏せた。


「――こんなこと、言いたくないんだけど」

「うん」

「……わたし、塔子に嫉妬しっとしてる」

 ずばりと紗也加は言い切った。



 ――嫉妬。



「……わたしに?」

「……気づいていないの?」


 塔子は言葉を飲み込んだ。

 気づいていない、とは言えなかった。

 ただ、改めて告げられると、戸惑ってしまう。


 うつくしく自信に満ちた――そんなひとが嫉妬するほどの、何を自分は持っているんだろう?



「……こんなこと言いたくないし、嫉妬なんてしたくない。でも――」

 塔子をまっすぐ見る、紗也加の瞳。



「すきなの。坂本のこと、すきになっちゃったの」

 ――こんなにも。


 紗也加の全身から想いがあふれている。そうみえる。


「……うん」

 一拍置いて、塔子はしっかりとうなずいた。

「……しってるよ。紗也加ちゃんの気持ち」


 部屋が静まる。


「どうしたらいい?」

 紗也加がぽつりと言った。


「ごめんは、わたしの方。そっけない態度を取って、ごめん。――もう、おなじこと、繰り返したくない。でも、でも――」

 顔がゆがむ。

「塔子に坂本がうれしそうに声をかけると、もやもやするの。 “とーこさん”って坂本が塔子を呼ぶと、たまらなくなるの……」

 すこし黙り、そして紗也加は首をふった。


「わたしもあまり、こういう気持ちに慣れてない。塔子に言うことじゃないね」

「……ううん」


 彼女らしい、率直な物言いだった。


 おたがいが、きちんと向き合って話し合えている。

 そのたしかな手ごたえに、塔子は背中を押された気がした。

 塔子は幾度か深呼吸をし、思い切って口を開いた。


「――紗也加ちゃん」

 紗也加が顔をあげる。

「……わ、わたしね」

 頬が紅潮する。


「……わたし、中学校のときは……友だちがいなかったの……」


「え?」

 紗也加の瞳が見開かれる。

「その……」

 塔子は手をみしぼった。


、って言った方がいいの、かな……。友だちだと思っていたひとたちが、いつのまにか……離れていって……」


 胸がぎゅっと痛む。


「……気づいたら、ひとりになっていて……」


 教室のなかで、じぶんひとりだけ、ガラスをへだてて生活しているみたいだった。声をあげてもだれも聞き取らない。手をのばしても届かない。


「……なにがいけなかったのかな、って、たくさん考えた。それで……じぶんの悪いところ、直そうと思ったの。いっそ地元を離れて……いちからやり直そうって、思ったの」


 ひざに置いた両手を握りこむ。


「――それが、松風館高校ここに来た理由、なの」


 しん、と部屋が静まった。

 塔子は緊張に身を縮めた。とぎれとぎれに、けれどそれでも声を押しだす。


「友だちができたらいいなって、思ってた……。こんどは――こんどこそは、いっしょにわらいあえる友達ができたらいいなって、思ってた。……そしたら、ここで――坂本くんと、紗也加ちゃんに出会えて……」


 思いきって紗也加を見つめる。

 彼女の黒々と澄んだ瞳。


「――紗也加ちゃんが、“塔子”って呼んでくれたとき、うれしかった」


 紗也加とまっすぐに視線を交える。


「……菜の花畑で手をつないだとき、見える景色ぜんぶ、好きになれそうな気がした」


 早鐘を打つ心音。それでも塔子は言葉を繋いだ。


「……紗也加ちゃんと坂本くんと、いっしょに教室で、くだらないことも、なんでも話せるのが……わらいあえるのが――そういうときが、とても大切で……。だから――」




 ――だから。




「……坂本くんと、紗也加ちゃんは、わたしの……だいじな友だち、だよ」


 塔子ははりつめて息が詰まりそうになりながらも、必死に声をあげた。


「できれば……これから……もっともっと、仲良くなりたい、って、おもってて……」


 全身が熱い。


「あ、あの」

 塔子はハッとして首をふった。


「……こんなわたしだから、仲良くしてほしい、って言ってるわけじゃないの。その……同情してほしいわけじゃ、なくて」

 じわりと冷や汗をかく。

「……もちろん、わるいところは、直そうと思っているんだけど……そうじゃなくて……つまり、この話をしたのは……」

「うん」

 紗也加が静かに相槌を打つ。


「つまり」。手がわずかに震える。

「……ただ、つたえたかったの」

 塔子はぎゅっと目を閉じた。



「……紗也加ちゃんのこと、だいじだって……それだけ、つたえたくて……」



 間が空いた。塔子には、永遠と感じるような時間だった。


 ふと、椅子のきしむ音がした。続いて、とんとんと軽い足音がする。

 塔子はおそるおそる目を開いた。気づけば紗也加がこちらに近づいてきていた。


「……塔子は、さ」


 紗也加は、そばまでやって来てひざをついた。ゆっくり塔子の顔をのぞきこみ、やがてこまったようにわらう。


「わたしのこと、買いかぶりすぎだよ」

「……え?」


 紗也加の瞳が細められる。


「……わたし、これだけ嫉妬して、自分のことしか考えていなかったのに。――そんなふうに言ってくれるような資格も、ないかもしれないのに」

 肩をすくめる。

「紗也加ちゃん……」


 塔子は紗也加をおずおずと見た。小さく、けれどしっかりと首をふる。


「そんなこと、ない。……わたしだって。……わたしだって、自分のことしか、みえていなかった」


 ――だから優越感を抱きもしたのだ。



「……でも。だから、こそ……紗也加ちゃんと……仲直り、したくて」



 押し出した塔子の声は、かすかなものだった。

「塔子……」

 それでも紗也加は聞き取った。それだけ近くに、ふたりはいた。


「――塔子」


 もう一度、名を呼ばれる。とたん、ぬくもりに包まれた。せっけんの甘いにおいに塔子は目を白黒させた。紗也加が力を込めて塔子を抱きしめていた。


「さ、紗也加ちゃん」


 抱きつぶされて、塔子は前が見えなくなった。ただ、紗也加のあたたかい体温だけがつたわる。緊張に身体を固く縮めて、冷え切っていた塔子をあたためるように、紗也加は背中をさする。


「――ありがとう」


 耳元で、紗也加の声がした。


「話してくれて、ありがとう。……許してくれて、ありがとう」

「許すなんて……」



 ――あたたかい。



 声とぬくもりに、身体のこわばりがゆるんでいく。

 こんなあたたかさを、塔子は知らない。紗也加はいつもそうだ、と思う。いつもまっすぐに、そのぬくもりで、気持ちのすべてをつたえてくれる。



「――わたしも。塔子は、だいじな友だちだよ」



 みるみるうちに塔子の視界がにじんだ。


「……紗也加ちゃん」

「紗也加、だよ」

 言葉につまった塔子を、紗也加がつよく抱きしめた。




紗也加さやかって呼んで、って言ってるでしょう?」




 窓辺から朝日が燦々さんさんと射している。

 寮部屋に、さざなみのような、おだやかなわらい声が響いた。




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