10 誰かの王国(4)
紅茶の湯気がゆらゆらと揺れている。
部屋にひろがる、アールグレイの香り。
榊葉は塔子を見てにっこりうなずいた。
彼の背にある格子窓。そのカーテンの隙間から、
日が傾いている。
塔子のとなりに座る
「篠崎さん?」
塔子はすぐに榊葉に目をもどした。彼がおだやかにこちらを見ている。
「いえ……」
すこし口ごもると、榊葉は微笑んだ。
――篠崎さんの言うとおりだよ。
「“獅子の伝言は、内容でなく、その仕組みが重要なんだ。伝言を流し、実行する。その
塔子はうなずいた。
「……それはどういう、意味ですか」
うん、と優しい返答がある。
「まずはおさらいしてみようか」
――“獅子の伝言”。
“緑の王国のゲーム”、とも呼ばれている。
これは王国を隠しとおすゲームだ。
厳密には、仕掛けながら隠す、攻守のゲームである。そこに王国があることを匂わせながら、それでいてその存在を悟らせないようにする。いたずらのようなゲームである。
三つの身分がそれぞれの役割に
獅子。
緑の民。
審判。
――この三役。
ゲームルールは単純だ。
それは“獅子の命令を実行する”こと。それも“外部の人間に悟らせないようやりとげる”ことである。
――獅子は伝言によって命令する。ささいで謎めいたことを。
――緑の民は忠実に伝言を実行する。
――これを審判が判定する。
すべて秘密裏にやりとげることができれば、“王国”の勝ち。国は守られる。反対に、もし外部の者に見やぶられた場合は、“王国”の負け。
審判はただちに伝統の
「これが、ゲームルールだ。獅子と王国とともに、しきたりとして受け継がれている。ここまではいいね?」
塔子はゆっくりと首肯した。
「このまえ、きみたちはこのゲームに初めて参加したね。伝言をみごとやりとげた」
これには柊一もあいづちを打った。
榊葉がこちらを見る。――篠崎さん。
「実際にやってみてどうだった?」
「え?」
「どんなふうに感じた?」
「その……」
塔子は思わず両手をにぎりしめた。
さまざまな記憶がよみがえる。
――入寮式の夜。塔子は詩織から緑の王国の存在を明かされ、そして“獅子の伝言”をはじめて受け取った。
“マトエミドリヲ ソノミドリ ミドリノクニヨ サカエアレ”
暗号のような、奇妙な伝言だった。“緑のものを身に
その翌日。“獅子の伝言”を受け取った全校生徒は、それに一斉にしたがった。
髪留め、胸にさしたペン、腕時計、チャーム、ボタン。Tシャツ、靴下……。
全校生徒はあらゆる緑を身に
はたして伝言は成功したのか?
伝言を遂行した翌日。緑風会執行部の
緑の校旗がかかっていれば、伝言の成功。王国は守られる。赤の校旗がかかっていれば、不成功。王国の終わりを意味していた。
その日、掲げられた校旗の色は――緑。
伝言は成功していた。
「ええと……」
塔子は榊葉の面前でおおいにためらった。
実際にゲームをやってみてどうだったか? そう聞かれれば、塔子の感想はひとつなのだ。
不気味だった。
その一言に尽きる。
“緑を身に
しかしその伝言に、学年も個性もちがう生徒たちがみな、大まじめにしたがっている。一様に緑を身に着け、審判の
伝言に対する態度は冷静そのものなのに。不可思議なゲームに熱狂しているのでもない、浮かれているのでもないのに。何食わぬ顔で、ゲームを
――そして気づくと、教室の、学校の気配が変わっているのだ。
伝言をひとつ遂行するうちに、様子が変化している。
ひとつの伝統、ひとつの王国。その秘密を分かち合う者同士の、共犯者めいた気配が漂いだす――。
“ここの生徒は、身も心も緑の民だってことさ。
伝統の批判もできないくらいにね”
――とは、良司の言だった。
不気味だ。不気味としかいいようがない。
でもこの学校はいつも
「さっぱり理解できません」
柊一だ。塔子のかわりに口をだす。
「伝言の目的はもちろんですが、なぜ全校生徒がこんな伝言にしたがっているのかわかりません」
まったく同感なので、塔子は思わずつよく首肯してしまった。
まあまあ、と榊葉がわらう。
「“獅子の伝言”の目的については――おれから言えることだけ――これから話すから。のんびり紅茶を飲みながら聞いてくれ」
冷めないうちに、と言い添えられる。塔子と柊一は仕方なくカップを手にした。
「おかわりもあるから」。志津香が首を傾ける。腑に落ちない塔子らを、すこしおかしそうに見守っている。
沈黙がおりた。
榊葉は紅茶をひとくち飲み、そして口を開いた。
「“獅子の伝言”は――学生運動の出来事をもとにした、しきたりだ」
まず、言う。
大正後期から昭和にかけて、松風館で起こった学生運動。
そこで姿を隠した学生運動の
学徒から学徒へ。口伝えによって広められる獅子からの指令――伝言。
伝言を受けた者は、居住まいを正して聞き入った。
――獅子が、私達に呼びかけている。
自由を勝ち取る闘争をはじめることを、要請していると。
「これが“獅子の伝言”の起こり。覚えているかい?」
塔子と柊一があいづちを打つ。
やがて学生運動が終わりを迎え、日本は終戦した。学徒たちの闘争は終了し、闘いの
ただし、学生運動の
“緑の王国”という幻想の国の、影の王として。おとぎ話のような存在として。
そのように獅子を仕立て上げなおし、次代にのこすことにしたのだ。
「それにあわせて――戦後の学徒たちは奇妙な行動を取りはじめた。獅子と王国をめぐる謎めいたしきたりを、せっせと作りだしたんだ」
三つの身分。入寮式でのトンネル通過儀式、誓約、伝統の“
「それらしきたりのいくつかは、学生運動の出来事をもとにして作られた。“獅子の伝言”もそのひとつだ。
当時、学生運動の闘争の呼びかけにつかわれていた“獅子の伝言”は、しきたりとして作り替えられたんだ。……まったくの別ものとして」
「別もの」
つぶやいた塔子にうなずく。
「学生運動が終わり、闘争を呼びかける必要がなくなり、意味を失った“獅子の伝言”。それを、戦後の学徒たちは形式ばかりのこして“伝言ゲーム”にした」
――獅子は学徒に
その形式ばかりをのこして。
伝言ゲームとして作り替えた。
榊葉はふと柊一を見やった。
「鷹宮。おれたち執行部がつとめる“審判”という身分は、“獅子の伝言“のために新しくつくられたんだよ」
「……ゲームのために?」
眉をひそめる柊一に、榊葉は微笑んでみせる。
「当時の学徒たちは、“獅子の伝言”の形式をもとにして、ゲームを作ろうとした。……ゲームにするためには何が必要か? それは」
勝敗だ。
「勝敗なくしてゲームは成立しない。では、勝敗を決めるのはいったいだれか? 獅子でもなく緑の民でもない。このゲームのゆくえを客観的に見守る第三者が必要だ。――それが、審判。審判を創設したのはそのためだった」
榊葉が目元をなごませる。
獅子は闘いの号令でなく、ささやかな
緑の民は“外部の者”に見破られないよう、そのささやかな伝言を実行し。
そして審判が、その攻防の勝敗を判定する。
「獅子、緑の民、それから審判。この三つの身分を完成させることで、学徒たちは“獅子の伝言”を伝言ゲームとして成立させた」
学生運動の出来事だった“獅子の伝言”は、このようにしてまったく別ものの“しきたり”として生まれ変わった。獅子と王国をめぐる伝統のひとつになり、後世に引き継がれた。
「そして百年続けている。この伝言ゲームを、百年」
塔子はからだを縮めた。
柊一が深いため息をつく。
“いったいどうして?”。
それは何度も訊いている。何度も、何度も。
「……執念、といいましたね、会長は」
疑問の代わりに、我慢強く柊一が口を開いた。
そう。榊葉がうなずく。
「平和になった戦後の世界で、どうしてこれだけのことをするのか。お遊びにしては手が込みすぎている。単なる思いつきのしきたりじゃない。この作り込みには、執念を感じるよ」
戦後の生徒たちの、おそろしいほどの執念を感じる。
「……結論から言えば」
榊葉は静かに告げる。
「“獅子の伝言”は、数あるしきたりのなかでも、最も重要なしきたりだ」
「重要、これが?」。柊一だ。
榊葉はわらい、それには答えなかった。視線はこちらにある。塔子と目を合わせようと、すこし身をかがめる。柔和な顔つきだが、瞳にはまっすぐな真剣味がある。
口をひらく。
「“獅子の伝言”。このゲームルールは他愛ない。実行するぶんには、じつに単純だ。でもね。このゲームは勝敗を問う。賭けるのは――」
王国の存続だ。
ハッとして、塔子は目線をあげた。榊葉としっかりと目が合う。
“
反対に、もし外部の者に見やぶられた場合は、“王国”の負け。
審判はただちに伝統の
たしかに、そうだ。
このゲームの勝敗に、百年王国の命運がかかっている。
「……じつに奇妙なしきたりだ」
当時の学徒たちは、獅子と緑の王国、そして多くのしきたりを
学徒たちの構築した、夢の王国。その執念の結晶。
「けれど。これだけ執念深く構築した伝統だというのに。学徒たちはそこに、重大なリスクを差し入れた。たった一晩で王国を崩壊させることができる、危険性をはらんだこのゲームを設けたんだ」
なぜなのか?
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