9 誰かの王国(3)
終礼後、塔子は逃げるようにして一学年校舎を出た。
朝の一件――紗也加の、塔子を拒む笑みが頭から離れない。
あのあと、幾度か紗也加に話しかけようとした。弁解しようとした。けれど、彼女はこちらを見てくれなかった。そのうちに、なんて声をかけたらいいかわからなくなって、何も言えず、
こんなことではダメだとわかっているのに、どんどん勇気をなくしていく自分がいた。
たまらず塔子は逃げてきたのだ。
足早に校舎前の並木道を過ぎる。姿を隠すようにして、山道に入る。
赤松や
入った途端、息苦しくなるほどの青葉の香りが立ち込める。塔子はめまいを覚えながら、その中をもがくように進んだ。しかし長くは続かなかった。しばらくして、ふと電池が切れたように歩けなくなり、よろよろと足を止める。
息が上がっていた。肺に飛び込んだ、濃い緑の空気が苦しい。こめかみに冷汗がつたう。
それでもすこしずつ深呼吸し、塔子は顔を持ち上げた。
強い風が吹き、梢が大きくしなっている。山道に枝葉をひろげる低木も、小刻みに震えている。野鳥が休みなくさえずる。
道の先の木漏れ日が、水面のきらめきのように揺れている。
塔子は茫然と緑のなかに立ち尽くした。
きりきりと痛む胸。急速に冷えていく身体。
覚えのある――この感覚。
どこから間違えたのだろう。どうすればよかったのだろう。どうしたら許してもらえるだろう。
――あのときみたいになってしまうのだろうか。
塔子は青ざめて思った。思い出したくもない過去。けれどこのままでは、同じことが起こりうる。
それだけは、それだけはぜったいに避けたい。
まだ間に合うはずだ。
塔子はぎゅっと拳を握りこんだ。
今日は逃げてきてしまったけれど。でも――明日は逃げない。
明日こそ、紗也加ちゃんと話そう。
仲直りしよう。
*
最悪のコンディションで、それでも緑の館に行くことにしたのは、生徒総会が近いから。そして女子寮に帰りたくなかったからだ。
疲れていた。明日、紗也加と話をすることを決めたのだから、今日はもういいだろうと思った。
“女子”というしがらみから、一時避難したかった。
「やあ、おつかれさま」
塔子は陰気に、けれどきちんとあいさつを返した。
一階の、執行部メンバーがつどう活動室にいる。
大正のころ、緑の館は、松風館で教える外国人教師の住まいであった。
やがて時代を経てその役目を終え、館は緑風会執行部に譲られた。その際、間取りや調度はそのまま譲られたので、館は“住まい”としての機能をのこしている。
現在“活動室”と呼ばれるこの部屋は、当時はリビングだった。だから、ソファや、ローテーブルといった、生活に必要な家具がすべてそろっている。
およそ学校とは思えない設備。ずいぶんくつろいだ、優雅なスペースだった。
榊葉はソファにゆったりと腰かけていた。
四脚のソファが、ローテーブルを囲うように、ロの字型に据えられている。そのなかの窓側のソファに彼はいた。
組んだ足の上に書類を置き、右手で繰っている。左手にはティーカップを手にしている。
いかにも彼らしい、悠然とした姿である。
「あ、おつかれさま」
塔子のまえにひょっこりと顔をだしたのは、執行部副会長、三年生の
彼女もやはりティーカップを手にしている。飲み物を淹れ、ソファに移動する途中だったのだろう。
塔子はぺこりと頭をさげた。
「あと、
気をきかせて、榊葉が教えてくれる。
「ほかのみんなはじきに来るだろう。――お茶にしたら?」
「……はい」
塔子は小さくうなずいた。
生徒総会が近づいている。書類を仕上げ、総会に向けて準備しなければならない。最近は毎日、執行部メンバーのほとんどが、遅くまで館に残って作業している。
そんななかで、塔子も執行部二年の
いまの塔子には、それがほんの少しうれしい。
「はい」
ぼうっとして鞄を置いているあいだに、志津香がさっさと紅茶を淹れてくれた。運んでくれようとまでするので、塔子はあわてて引き取る。礼を言うと、花がほころぶような笑みで返された。
うつくしい笑顔。
――ほんとうの笑顔。
塔子の胸がちくりと痛む。
「おいでよ」
榊葉が声をかける。言われるがまま、志津香は榊葉のとなりに、塔子は彼らの
おずおずと志津香の淹れた紅茶をすする。香り高いアールグレイ。
とたん、小さなノック音がして、柊一が部屋に入ってきた。いつもながら表情の薄い、涼しげな顔をしている。両手には書類がぎっしり詰まったフラットファイルをいくつも抱えていた。
「多分、これで全部だと思いますが」
榊葉に言うともなしに言い、彼が目をあげる。
「ありがと」とわらう榊葉を見、その奥にいる塔子を見、柊一はすこし眉をあげた。
「――坂本は?」
塔子が会釈しようとした瞬間だった。だしぬけに彼に訊かれる。塔子はぽかんとしたが、われにかえりあわてて首をふった。
「わたしだけ。……先に来たから」
「そう」
じっと柊一がこちらを見る。
「坂本くんに……なにか用事があった?」
「……べつに」
そっけない答えが返る。塔子は目を瞬いた。
「ははあ」
榊葉がにやにやする。
「篠崎さんに声をかけたいだけなんでしょ。坂本をダシに使ってさあ」
「……ちがいます」
柊一のくぐもった声。
「素直じゃないねえ」
「だからちがいます」
「またまたあ」
榊葉は柊一をイライラさせる天才である。
ぶすくれた柊一も、塔子のとなりに腰を落ち着け、榊葉、志津香とともに一時休憩となった。
午後五時。外はぼんやりとまだ明るい。
白い格子窓にかかるレースのカーテンが、日の光をにじませている。
「伝言はわかった?」
榊葉はおもむろにたずねた。書類とカップをローテーブルに置き、組んだ足を解く。本腰を入れたといった風情だった。
塔子はぎくりとしたが、しかししっかりうなずく。
「今夜の八時半、西の空を見る……」
「そうだね。正解」
にこりと彼がわらう。
「何が見えるんですか?」
柊一が身を乗りだした。しかし榊葉は「さあね」と肩をすくめただけだった。
「ま、予想はついているんだけどね」
「予想って……。伝言の内容は教えてもらえないんですか」
「獅子に?」
「獅子に」
「いいや、とくには」
塔子も柊一もびっくりして言葉に詰まった。
志津香がにこにこと見守っている。
「伝言の内容はさして問題じゃないんだ、じつは」
「は?」。柊一が目をまるくする。
「内容に意味はない。意味を込めるときも、あるにはあるけど――でも基本的にはない」
――意味はない?
塔子の頭にも疑問符が浮かんだ。
たしかに、伝言の内容は不可思議だ。独特な言い回しの、意味不明で、ささいな命令。だけれど。
「意味がないなら、なぜ“伝言”をするんです……?」
やっぱり単なるゲームなのだろうか。
「そこなんだよね」
榊葉はこっくりと相槌を打った。
「伝言の内容には意味がない。それなら――“獅子の伝言”のほんとうの意味――目的はなんだと思う?」
ほんとうの?
「目的があるんですか」
柊一が塔子に加勢するようにたずねる。
榊葉は鷹揚にうなずいた。
「もちろん」
「単なるゲームじゃなく?」
「そう」
「……へえ」
柊一が興に乗って声をあげる。
まえにも言ったけど、と榊葉は言い置いた。
「おれはね、この学園の生徒たちは、緑の王国という“システム”を構築したと考えている。
生徒たちの想いを満たした、王国という名の
「システム……」
「仕組み、と言い換えていいかもしれない」
つぶやいた塔子に、彼はやさしく返す。
「つまり……?」
「つまり、どういうことだと思う? 考えてみて」
にっと榊葉がわらう。
塔子は唇に手をあてた。考え、ややあって顔をあげる。
「その……」
心もとなく声をだす。
「……獅子の伝言も、内容でなく、その仕組みが重要ということですか。
つまり――伝言を流して、実行する。その行為自体が目的だと……?」
柊一が同意を示すように、小さくうなずく。
榊葉がゆっくりと微笑んだ。
「そう。そういうことです」
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