8 誰かの王国(2)

 


「聞いた?」

 おはようのあいさつも省略し、良司は勢いこんで塔子に声をかけてきた。

 薄っぺらな鞄を自身の机に乱暴に置き、大股で椅子に腰かける。そしてこちらに身体ごと向き直る。

 塔子はびっくりして彼を見上げた。


 教室の、朝の喧騒。

 話題は昨日のニュースで持ちきりだ。


「二度目の伝言。解けた?」


 良司の声が弾んでいる。

 塔子はおどおどしながらうなずいた。

 ――うん。すこし詰まったものの、なんとか小声で返す。

「だよな」

 良司がしたりと快活にわらった。

「今回の伝言は、簡単だったらしいよ。先輩が言っていた。いつもはもっと読み解くのが難しいらしいんだけど、今回はわかりやすいって」

「そうなんだ……」

 塔子は机に置いた手をひらいて閉じた。じわりと手が汗ばむ。うつむいて、だいじょうぶだ、と自分に言い聞かせた。

 だいじょうぶ。


 坂井さかい葉月はづきと、池田いけだあゆみは、まだ登校していない。

 織部おりべ紗也加さやかも、まだ来ていない――。


 ――三人はテニス部所属で、朝練に参加している。だから登校は、いつも始業間際だ。

 陸上部の良司も朝練後に登校しているが、彼女たちよりも早く到着する。その時間差はおそらく、身だしなみを整える所要時間の差だろうと思われた。


 ――だいじょうぶ。


 塔子は口元をひきしめる。


 三人は登校していない。

 だから、坂本くんと話すことを、後ろめたく思う必要はない――。


 苦々しさに眉根が寄った。

 われながら、じつに情けない考えだった。


「……とーこさん?」

 塔子は顔をあげた。気づけば良司がふしぎそうにこちらをのぞきこんでいる。窓辺から射し込む陽光が、彼の茶の瞳を透かしている。

 塔子をまっすぐに見つめて、小首を傾ける。案じる彼の顔。

「……なんでもないよ」

 塔子はあわてて、小さくわらってみせた。しかしまったくうまくいかなかった。

「――四月二十七日、二十時半。そのときに、西の空を見ればいいんだよね……」

 話題を変えるため、矢継ぎ早に返事をする。

「そうそう!」

 うれしげに良司がうなずいた。



 昨日のニュースのひとつ。

 どこからともなく回ってきた、獅子からの伝言。



 “マルヨンフタナナ

 フタマルサンマル

 ニシノソラヲミヨ”


 不可解な暗号文のような伝言。しかしよく考えれば、あっけなく氷解する内容だった。


 まず、最終行の“ニシノソラヲミヨ”。これはそのまま日本語で読めばいい。“西の空を見よ”。読み込むまでもない。

 では“マルヨンフタナナ”、“フタマルサンマル”はどうか。音をじっと聞いていると、それは、ある特有の言葉の羅列だと気づくことができる。マルはゼロの意味、フタは2の意味。

 つまり、


 0427

 2030


 数字の羅列だ。

 いかにも意味ありげな、四桁ずつの数字の羅列。


 最初の配列は日付である可能性が非常に高かった。

 なぜなら、昨日は四月二十六日。その翌日――今日は、四月二十七日だからだ。


 通常、伝言を実行する日は、その伝言があった日の翌日である。

 それを踏まえると、“0427”とは、伝言のあった翌日――つまりこの場合は、四月二十七日の日付であると考えられた。


 では“2030”は何なのか。


 “0427”が日付ならば、“2030”は、その日の時間が示唆しさされていると考えるのが自然だ。

 “2030”。

 つまり――二十時三十分。


 まとめると、

 ――四月二十七日、二十時三十分。

 ということになる。



 これに最後の一文を加えて、




 “四月二十七日、二十時三十分

 西の空を見よ”




 明解だ。

 すっきりと意味が通る。つじつまが合う。このほかには考えようもないと、確信の持てる解だった。



「何が見えるんだろうなあ、西の空に」

 良司が朗らかな声をだす。

「何も見えなくても、みんなして西の空を見上げるんだから――その様子を見るのが面白いかもね」

 からりとわらう。

「……そうだね」

「な。それにしても、なんでこんな伝言を毎回流すんだろうなあ。なにか意味があるのかなあ」


 うん。

 歯切れ悪く返すと、うきうきとしていた良司がふと言葉を切った。


「――とーこさん?」


 目をあげれば、良司の真摯な視線とぶつかる。

 塔子は思わず身じろぎした。

「……どうしたの? 昨日から、ほんとうにへんだよ」

 うっと詰まる。

 教室の喧騒のなかでもよく通る良司の声が、塔子にまっすぐ届く。

 そのまっすぐさが、いまの塔子には後ろめたい。

 なにも言えずにいると、良司がさらに顔をのぞきこんできた。


「――さてはいじめられたな?」

「えっ」

「図星?」

「ち、ちがうよ……」

「ほんとに?」

「……ほんとに」


 動揺する塔子を見て、良司は困ったようにわらった。彼がわずかに体を起こし、するりと長い腕をのばす。気づけば塔子の目前に彼の指が迫っている。

 こめかみに触れるか触れないか、そのわずかな距離で、指が止まった。塔子はびくりと肩を縮めた。


「目、れてるもんな」

 小さく深い、彼の声。

「……泣いたの?」


 塔子はハッとして、そして首をふった。

「泣いてないよ」

 うまく眠れなかっただけだ。


 良司がまた困ったような顔をする。

「だいじょうぶなの?」

「だ、だいじょうぶだよ」

「ほんとに?」

「ほんとうに」

「……そっか」

 一呼吸おき、良司はうなずいた。こめかみのあたりを指がさまよい、やがてゆっくりと引いていく。


 ――触れてはいない。


 けれど塔子を心配する気持ちが、優しさが、その指先からにじんで、たしかに伝わったような気がした。


「……ありがとう」


 ずいぶん神妙な声が出た。

 良司はすこし首を傾げ、やがて微笑んだ。


「――うん」






「なんのはなし?」




 ふと明瞭な声がうしろからきこえた。

 紗也加さやかだ。登校したてらしく、スクールバッグも肩にかけたまま、塔子と良司のあいだに割りいる。

「おはよ」

 すがすがしい、きれいな笑顔。首を傾けると、ポニーテールにしたつややかな黒髪が、ふわりと揺れる。すこし身じろぎすれば、清潔なシャボンの香りがただよう。

 彼女がそばに来ると、教室の雰囲気さえ変わって見えるようだ。周囲をぱっと明るくする、紗也加の存在感。


 よう、と良司が飾り気なく返す。

「おはよう」

 声をかけられたことがうれしくて、塔子も素早く返事した。思いのほか大きな声がでる。

 紗也加はにっこりと笑みを深くした。


「――なんのはなし?」

 繰り返し尋ねられる。

 良司はにやと笑んだ。

「伝言のはなしだよ」

「ああ。――なにが見えるのかしらね、今夜」

 紗也加ももちろん、伝言の意味をただしく理解している。

「なんだろうなあ」

「ロケットかもね」

「うわ、てきとうだな」

「そう?」

「ほんと織部ってやる気ないよなー」

「ないわね」

 きっぱりと言うので、良司は苦笑をこぼした。


 紗也加は学校の“伝統”に懐疑的だ。

 特に”獅子からの伝言”は気味悪がっており、前回もいやだいやだと大騒ぎしていた。

 それでも参加するのは、誓約を守るため――もっと突き詰めれば、“みんながやっているから”だった。

 だから渋々と参加している。


 塔子は紗也加を見上げた。くつくつとわらう良司を見つめる彼女。

 その、ひどく優しいまなざし。

 しばらく迷ったが、話題の切れ目を逃さないように、意を決して声をあげた。


「紗也加ちゃん」


 夢から醒めたような顔で、紗也加が目を瞬いた。塔子にふり向いたときには、彼女の表情が抜け落ちていた。


「なあに」

「あ……あの」

 うろたえてしまう。

「その、話があって」

「なんの?」

 紗也加の形のよい眉が跳ね上がる。

 塔子は身を縮こませた。

「ええと……」


「どしたの、とーこさん。なにかあるの」


 屈託なく良司が割り込み、塔子の血の気は一気に引いた。思わず目が泳ぎ――しまった、と後悔したときには遅かった。



「……とーこさん、て呼ぶんだね」



 紗也加の小さな声。

 ん? と良司は首をひねり、そして素直にうなずいた。

「そうだよ」

「仲いいんだね……さっきも」

「どうしたのさ急に」

 彼がきょとんとする。

 塔子はいよいよ青ざめて立ち上がった。

「あのね、紗也加ちゃん」

「……なあに?」

 思いきって顔を上げる。目を合わせる。しかしそこへきて、塔子は何も言えなくなってしまった。


 紗也加が笑みを刷いていたからだ。


 それは、みとれるほどうつくしい笑顔だった。

 目を細め、きゅっと口角をあげ、塔子を優しく見つめる表情。非の打ち所がない、だれもがうっとりとする、美少女の微笑み。完璧な笑顔。



 ――完璧な。



 ――紗也加ちゃんの笑みじゃない。

 塔子は冷水を浴びせられたような気持ちになった。

 ほんとうの紗也加はこんな笑顔じゃなかったはずだ。本来はもっと奔放で、気が強そうで、明るい笑みだ。

 なら――いま目にしているのはなにか。


 作り笑顔にほかならない。


 塔子の胸につよい痛みが走った。

 彼女の笑みは、まぎれもなく“壁”だ。

 塔子を拒絶する笑みだ。




 ――紗也加ちゃん。




 始業を告げる鐘が鳴る。



「――あ、じゃあね」

 紗也加は笑みを刷いたまま、そして塔子の話を聞かぬまま、自身の机に向かっていった。

 その姿を見送り、良司が目を瞬かせる。

「なに? へんなやつだな」


 塔子は何も言えなかった。

 何も言えず、やがてくずおれるようにして、席に座り込んだ。




 鐘の音が響いている。



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