7 誰かの王国(1)

 


 部室点検の長い一日が終わった。


 寄宿舎の門をくぐるなり、塔子は重い息を吐きだした。

 おぼつかない足取りで自室に帰る。


 部屋ではルームメイトの二年生、古谷ふるや詩織しおりが窓際に腰かけていた。


 開け放たれた窓の外、彼女が見つめる先には、夕方の青い林がのぞいている。

 まだ薄明るいとはいえ、もう部屋の照明を点ける時刻だ。けれど詩織はそれをしていなかった。ふだんは勉強するため――詩織は勉強家でいつも机にかじりついている――明るいうちからさっさと照明を点け、カーテンを閉ざす彼女だというのに。


「帰りました」

 小さく声をかける。


 詩織は緩慢に塔子にふり向いた。

 長い黒髪のひと房が、さらと胸にこぼれる。

 きつく一つ結びにする髪も、今日はおろしているようだ。見返す瞳もぼうっとしている。塔子を認識しているか、それさえもおぼつかない。


 へんだ、と思う。


「さっき、電話があったの」

 ぽつりと詩織は言った。だれにともなく、といった風情だった。

「……はあ」

 詩織は薄い唇を片端だけ曲げて、そしてまた窓を向いた。


 ねえ。


 ぼんやりと彼女が呼びかける。

 閉口していた塔子は目を瞬いた。

「この風景、どう思う?」

「風景?」

 唐突な問いかけ。

「窓の外の風景を見て、あなたはどう感じる?」

「どうって……」

 大いに戸惑う。

「……いつもと変わらない、林の風景だと思いますけど……」

 

 彼女はおもむろに人さし指を窓に向けた。



 指の先の、夕暮れ。

 青の林。



「知っている?」

 詩織がこちらを見る。

「この学園は――中央広場をのぞいて――すべての敷地が林に包まれている。だから空が見えないの。枝葉に切り取られた空しか見ることができない……。見えるのはひしめく木立ばかり。わたし、いつもこう思うの」

 窓の外を見やる。彼女の黒髪が、ゆるい涼風にもてあそばれている。



「――この木立、まるでおりみたいだな、って」



 窓を向く詩織の、その表情はうかがい知ることができなかった。ただ、あきらめのような失望のような、静かで低い声が部屋に落ちた。





「森は檻だわ。――緑の檻」









 *





 その夜。

 塔子は疲れ切りながら、食堂で紗也加が来るのをずっと待っていた。空のトレーを持ち棒立ちになって、空腹のまま、ただただ待っていた。が、ついに彼女に声をかけることはできなかった。

 塔子のクラスメイトの池田いけだあゆみと坂井さかい葉月はづきが、始終紗也加のそばに張り付いていたからだ。塔子に痛烈な批難を浴びせた彼女らの前に出ることは、今日はどうにもできなかった。


 そして池田あゆみと坂井葉月は、結局、その後も彼女に付いて回った。


 一度だけ――風呂場に行く際に紗也加と目が合ったような気がしたが、紗也加の視線はすぐに逸れ、その機会も失った。

 塔子のなけなしの勇気はすこしずつ削げ、最後はあきらめに変わってしまった。


 明日、言おう。登校したらすぐに。


 長いため息の合間で、塔子はなんとか思い直した。





 その間、寄宿舎にはふたつのセンセーショナルなニュースが広まっていた。





 ひとつ目は、

 クラブ連合会総長・三年の高橋たかはし一樹かずき

 その恋人である、三年・相沢あいざわ菜保なほの醜聞である。


 夕方の中央広場で、衆人環視のなか、相沢菜保が高橋一樹の頬を引っ叩いたというのだ。

 とくに相沢菜保は取り乱しており、高橋一樹に罵倒の言葉をいくつも浴びせていたという。

 これには多くの目撃者があり、寄宿舎では詳細な報告が多数挙がっていた。



 ふたりは別れるだろうという話だ。



 ニュースはもうひとつ。


 獅子からの伝言だ。


 前回の伝言からまだ日にちが経ってもいないうちに――塔子にとっては――二回目の伝言がまわってきた。

 相も変わらず、独特な言い回しの、意味不明で奇妙な言葉の羅列。

 



 ――今回の伝言はだった。




 マルヨンフタナナ

 フタマルサンマル

 ニシノソラヲミヨ


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