第三章 館の住人
1 陽春(1)
翌朝。登校したばかりの塔子のもとへ、紗也加が息せき切って駆けてきた。
「塔子、いったいどういうことなの?」
塔子は「え」と声を漏らし、目を見開いた。たちまち胸が冷えていく。彼女はひどくまじめな顔つきでこちらを窺っている。そのただならぬ様子に、塔子はおびえた。
「どうして教えてくれなかったの」
「……な、なんのこと」
言いながらも表情はこわばる。紗也加の目を見ることができなかった。
――まさか、獅子の娘であることが露見したのだろうか。
そうだとしたら。そうだとしたら――。
血の気がさらに引いていく。
塔子の様子をしばし見つめ、紗也加はひとつため息をついてみせた。
「塔子、隠さなくていいじゃない。もう掲示が出ているのよ」
「……掲示?」
「そう。今日貼り出されていたでしょう。まさか見ていないの」
何の話だろう。
いぶかしんで顔をしかめると、しびれを切らしたように紗也加は塔子の手を取った。ぐいぐいと引っ張り、廊下に連れていく。
「紗也加ちゃん」
「いいから」
向かった先は職員室前にある掲示版だった。生徒達の黒山の人だかりができている。紗也加はためらいもなくそこに飛び込み、塔子を引っ張った。
「昨日の王子直々のお出迎えは、これのためだったってことよね」
どこから聞いたのか、彼女はその一件を当然のように知っていた。すっと人差し指をあげ、ひとつの掲示物を示してみせる。塔子はなすがまま視線をあげた。
【通達】
以下の者を、第八四期緑風会執行部執行役員に指名する。
一年一組
一年三組
一年三組
四月二十日
緑風会執行部
塔子は目を疑った。何度か読み直したが、掲示の内容は変わらなかった。書かれているのは、まぎれもなく自分自身のことだ。
ああ、と知らず声を漏らし、塔子は唇を噛んだ。
「あれが篠崎塔子?」
こそりと誰かが呟いた。ハッとして顔をあげれば、集まった生徒達が塔子を注視している。純粋な興味、羨望のまなざし、値踏みをする目。あらゆる感情の渦にさらされ、塔子はめまいを覚えた。みるみるうちに頬が紅潮し、顔をふせる。
「――あんな子が?」
ふと聞こえただれかの声に、塔子はびくりと身を震わせた。
「塔子」
紗也加がつないだ手をぎゅっと握ってくれる。
塔子は首をふってみせた。気にしていないとつたえようとするが、うまく言葉にならない。
きりきりと胸が痛み、羞恥で胸がいっぱいになる。
みんなの視線が突き刺さるような気がして、顔もあげられない。
言うとおりだ――。そう思った。
わたしには、どう考えても――釣り合わない身分だ。
矢も
「実力行使かよ。聞いてないって!」
声の主はだれあろう――良司だった。
通達を受けて動揺したのは、塔子だけではなかったのである。
*
その日は
ただ指名されただけで大きな話題になり、羨望とねたみのまなざしを向けられる。緑風会執行部とは、学内においてはやはり人気の役職なのだ。
疲弊しきった塔子と良司に比べ、柊一はまったく平然としたものだった。以前から執行部に出入りしていた柊一は、事実上の役員であったし、もともと人目を引く人物なので、大きく生活が変化することはなかったからである。
放課後。
塔子と良司は重い足取りで、金色の木漏れ日が射す林道を歩いた。
緑が深まっていくとともに、陽光も深い色味を帯びてくる。林道は日一日と彩度を高めているようだった。風はみずみずしく、ふたりの髪をなでる。しかしそれも、今の彼らにとってはどうでもよいことだった。
「やっぱりおれ、行かなきゃだめ?」
ふと良司が道の真ん中でぴたりと立ち止まり、塔子を見つめた。道に迷い、途方に暮れたような顔。きっと自分も同じ顔をしているだろうと、塔子は思った。
ふたりは緑の館へ向かう途中だった。むろん、役員として活動に参加するためである。
良司はがりがりと頭を掻いた。
「――理不尽すぎる。断っても逃げてもダメなんて信じられない。兄貴の弟ってだけで、こんな扱いする? おれの意志はないわけ? こんなのひどいだろ」
塔子は良司をみあげた。
「坂本くんは……執行部に誘われていたの?」
「――前からね。それも、“総司先輩”の弟だからって、それだけの理由で」
「総司先輩」
わずかに首をかたむけると、「あー」と彼は気の抜けた声をだした。
「おれの三つ上の兄貴。生徒会長だったんだ。どうやらその代のカリスマだったらしくて。だから――」
塔子はあいまいにうなずいた。――でも。
「……坂本くんは、坂本くん自身は……嫌なんでしょう? 執行部に入るのが……」
「そう」。良司は勢いこんだ。
「なんでこんな強硬手段を取られなきゃいけないんだ。まっとうな理由があるならいいけど、兄貴の弟だからって理由なら、勘弁してほしい。兄貴と同じことはできないし、同列に見ないでほしい。それが――本当にむかつく」
苦虫を噛み潰したような、複雑な表情で彼は言う。
良司はどうやら、ただ単に嫌がっているわけではないようだった。兄の威光のもと選ばれた、この状況に腹を立てているのだ。
「――篠崎さんも、自分の意志ってわけじゃないだろ? 嫌々だろ」
話を振られ、塔子はうっと詰まった。
「……」
「ほら」。良司は小さく口の端をあげた。すこしだけ気がまぎれたらしい。
「最近わかったけど、篠崎さんって案外わかりやすいよね――。だいたい執行部なんて、篠崎さんのキャラじゃないし。目立ちたくないタイプだもんな」
「…………うん」
思わず素直にうなずいてしまう。
「だよな」。良司が意を得たとばかりに、共感のあいづちを返した。
視線が交わり、ふと沈黙がおとずれる。気まずいものではない。おたがいを同志だと信じる、連帯の空気がふたりの間にながれた。
良司はからりとわらう。
「一緒にふけようか? 嫌々することじゃないだろ」
いいことを思いついたとばかりに、力を取り戻す彼。しかし塔子は反対に表情を固くした。
「篠崎さん?」
「……ごめんなさい」
「え?」
「――できないの……それは」
「役員に何か言われた?」
塔子は曖昧な表情を浮かべる。否定も肯定もできず、それ以上は言えなかった。
良司はしばしこちらを見つめ、やがておもむろに近づく。塔子の前までくると、少しかがんで目線を合わせた。
「じゃあ、一緒に直談判しよう。やめるって言おう」
「え、あの」
「おれがいればまだましだろ? ふたりで言えばこわくないよ」
だから行こう、と重ねる。
塔子は首をふった。
「ちがうの」
――直談判してどうにかなる話じゃないの。
そうじゃなかったの――。
けれどそれは言えない。言えないことがひどくもどかしい。
何も知らない良司は眉をあげた。
「あきらめるのは早いよ。まだ何もはじまっていないんだから。いまなら抜けられるはずだ」
だからいくよ、と。たしかな足取りで歩き出す。
塔子は眉根をさげた。
榊葉はなんと応じるか、訊かなくてもわかろうというものだ。
せめて良司だけは、この状況から抜け出てほしいと思ったが、どうすればよいのか皆目見当がつかなかった。
「坂本くん」
困り切って名を呼べば、良司が「早く」と笑む。木漏れ日が彼の肩で揺れている。
風が吹く。樹々がしなる。
陽春のきらめきが、林道に満ちている。
塔子は途方に暮れながら、あとを追った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます