5 入寮式(4)

 


「次、五番。鈴木夕夏」



 志津香の凛とした声が、夜の闇のなかに響いた。


 名を呼ばれた少女はおずおずと腰を上げ、しばし立ちつくす。恐れの浮かんだまなざしを塔子らに投げかけ、やがてトンネルへと進んでいく。恐る恐る、一歩ずつ。


 一組から順に、トンネルの通過が始まっていた。

 十分な時間を取って、一人ずつ名を呼ばれる。塔子ら一年生は小道に座り込み、戦々恐々として順番を待っていた。


 周囲の反応は様々だ。悲鳴をあげ騒ぐ者もいれば、なりゆきを静観する者もいる。どこか現実的でない、浮ついた空気があたりを包んでいた。


「へんな誓約。へんな伝統。へんな学校!」


 紗也加が苛立たしくささやく。塔子は思わず顔をあげた。誓約の言葉を繰り返しつぶやいていたのに、すっかり飛んでしまう。目を瞬かせていると、彼女はこちらを見た。



「ねえ、『不思議の国のアリス』って、好き?」

「え? ……好き、だけど」


 唐突な問いかけだ。塔子は少し詰まって答えた。紗也加は首を横に振る。


「わたしはさっぱり駄目。意味不明で、理不尽で、こわいから」


「……それは、わかるかも」

「でしょう? 塔子はよく好きって言えるわよね」

「う、うん……」


 小さく返すと、紗也加はふと鼻先まで顔を近づけてきた。塔子の視線を捉え、それでね、とささやく。


「この学校も、同じ匂いがするのよね」

「におい?」


「そう。意味不明で、理不尽。それに、こわい。……だいたい、誓約からして、いやな感じだわ。王国って何? なぜわたしたちが、その一員にならないといけないの?」


 塔子はゆっくりとうなずいた。頭の中で、誓約の最初の言葉が蘇る。



 ――“鈴を鳴らすのはだれか”

 ――“王国を知る者です”

 ――“なぜ来たのか”

 ――“緑の民となるために”



 まったく奇妙な誓約だった。一介の高校生が誓うにしては、あまりに大仰な言葉が並んでいる。

 それがいったいどういう意味で、何のために誓うのか。さっぱりわからないまま、誓いを立てなければならないのだ。理不尽な話だった。


 しかも、と紗也加が続けた。


「最後の言葉、あれ何なの。“誓約を破ったときには、いかなる罰をも受けることを誓う”、なんて。おかしいわよ。なんでそんなことを誓わなきゃいけないのよ」


 ぷりぷりと吐き捨てる。本当に、と塔子はつぶやいた。なんて物騒な話だろうか。様々な想像がよぎり、それだけで身震いがする。


 この学校は、わたし達にいったい何をさせようとしているのか。

 塔子は顔をしかめ、声をあげた。


「そのとおりだね」

「え?」

「意味不明で、理不尽。それに、こわい。本当に、そのとおり」

「……でしょう?」

 ふたりは重いため息をついた。


 少女がまたひとり、トンネルに消えていく。闇に呑まれて、影も形も見えなくなる。ふたりはそれをじっと見つめた。ぽつりと紗也加がつぶやく。


「あの先は、不思議の国なのかしら……」

、だよ。そう呼んでいるんだって」


 良司の言葉を思い出しながら、塔子は静かに答えた。紗也加はこちらをちらりと見やり、うなずく。


「……そっか。誓約も、そんな風に言っていたっけ。じゃあ、だれの王国なのかな」

「だれの?」



「そう。トンネルの先は、いったい



 紗也加は志津香に視線を向け、つぶやいた。

「ハートの女王が治める国でないことを、願うばかりだわ」

 塔子は眉をひそめた。


 トンネルから、風の音が響いてくる。高い音で、ひゅうひゅうと鳴く。

 長い夜になりそうだった。


「次、二番。織部紗也加」

 滞りなくトンネルの通過が進み、紗也加がとうとう呼ばれる。

 塔子は心がくじける思いで、彼女を見上げた。紗也加はすっと立ち上がり、毅然とした表情でこちらに振り向く。


「こんな伝統、うんざりだけど。行ってくるね。向こうで待っているから、早くおいで」

「うん、気を付けてね」


 塔子はうなずいた。しばし迷って、もう一度口を開く。


「…………紗也加、ちゃん」


 紗也加が目を見開く。しかしすぐに、こぼれるような笑みをつくった。


「八十点」

「え?」

「呼び捨てでいいって、言ったでしょう」


 あっ、と声をあげると、紗也加がくすりと笑う。そして、塔子の頭を無造作に撫でた。


「でも、嬉しい。すごく嬉しい。塔子、ありがとう。トンネルを出たら、“紗也加”って呼んでね」


 塔子はうなずき、ゆっくりと微笑んだ。

 親しく名を呼べる相手がいる。それがどんなに嬉しいことか、ずっと忘れていた気がした。 


 紗也加が手を振り、落ち着いた足取りで去っていく。塔子はその後姿に、ありがとう、とつぶやいた。



 紗也加がいなくなると、夜の寒さが身に染みてくるようだった。

 塔子は冷たくなった手を擦りあわせ、息を吹きかける。

 待機する生徒は、残り半数となっていた。人が少なくなったことで、恐怖が高まったのだろう。背後ですすり泣く声も聞こえてくる。塔子は目を閉じてやり過ごした。


 胸の鼓動が早く、大きくなっていく。



「次、六番。篠崎塔子」



 とうとう、順番が回ってきた。


 塔子は静かに立ち上がり、ゆっくりと歩きだす。ふみしめる落葉が乾いた音を立てた。残っている少女達の視線が、背に刺さる。それを強く感じる。



「篠崎塔子さんですね」



 トンネルの前で、志津香と二名の役員が出迎える。塔子はゆっくりとうなずいた。


 ペンライトは、ここで取り上げられる決まりになっている。役員が回収袋を広げたので、そこにライトをそっと入れた。これで唯一の光源さえ、失うことになる。塔子は思わず唇を噛んだ。


「篠崎さん、こちらへ」


 志津香が落ち着いた声で呼び、トンネルの入口に招かれる。歩み寄ると、彼女はおもむろにライトを点けた。トンネルの内縁を光がさまよい、腰の高さで止まる。黒く変色したレンガの内壁が照らされ、そこに奇妙なものが見えた。


「これは……」


 太い綱が一本、内壁に取り付けられている。草の繊維をより合わせた、しめ縄のような綱だった。それが壁づたいに、奥へとまっすぐに伸びている。


 志津香がうなずいた。


「これは、道案内の綱です」


「道案内?」

「そうです。なかでは何も見えないので、これをつたいながら、歩いて行ってください。綱に沿って進めば、しぜんと出口にたどり着けるようになっています。迷うことも、危ないこともないはずです。足元も、危険なものはないので、安心してくださいね」


 なるほど、と塔子は思った。光源がなくても進めそうだ。安堵して、志津香にうなずく。

「わかりました」


「……こわいですか?」


 ふと訊かれ、塔子は目をわずかに見開いた。はい、と素直に答えると、志津香が微笑む。


「こわい、ものでしょうね。わたしもそうでした。けれど……そうですね。いまは、こわいことがある方が、喜ばしいと思っているのですけどね。この行事に関しては」


「喜ばしい、ですか?」

 ええ、と返事がある。しかしそれだけで、何も教えてはくれなかった。謎めいた微笑をこぼす志津香に、塔子は眉根を寄せた。意味深な言葉だった。


「さあ、行きなさい。気を付けて」


 彼女が背をやんわりと押してくる。塔子は戸惑いながらもうなずき、小さく礼をした。トンネルに向き直り、綱にそっと触れる。

 綱はよく使い込まれた、すべらかな感触がした。それをしっかりと握り込み、深く息を吸う。




 ここを通れば、何かが変わるのだろうか。ふとそう思い、塔子はすぐに打ち消した。そんなこと、あるはずないに決まっている。





、なんだから」




 眼前に広がる闇をにらみつけ、塔子は足を踏み入れた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る