6 入寮式(5)

 


 一歩進むたびに背後の光が遠ざかり、やがてすべてが見えなくなる。はたして目を開けているのか、それすらも分からない。そこは暗黒の世界だった。



 塔子は左手で綱を握りしめ、ずるずると足を運んだ。見えないということは、想像以上におそろしいことだった。すくむ足を叱咤しったして、また前に出す。その繰り返しが延々と続く。


 ひんやりとした風が吹き、古い土の匂いがただよう。虫の声や葉擦れの音は、いつの間にかやんでいた。いま耳に届くのは、静かな水音だ。一定の間隔で、高く澄んだ音を響かせる。


 その単調な調べを聴きながら、塔子は志津香と交わした三つの約束を思い出していた。



 “声をあげてはならない。立ち止まってはならない。決して、うしろを振り返ってはならない。”



 不可思議な約束だった。もし、これを破ったらどうなるのだろう。ふと思い、目を瞬かせた。同じような約束を、どこかで聞いたことがある。


 あれはたしか――ギリシャ神話。


 塔子は微かにうなずいた。小学生の頃、図書室で読んだことがある。


 死んだ妻を取り戻すため、男が冥府へと下る話だった。


 男は妻の返還を冥王に懇願し、冥王は条件付きでそれを許した。その条件とは、“冥府を抜けるまで、決してうしろを振り返らないこと”。それが出来れば妻を返してやると、冥王は答えた。男は承諾し、妻を連れて、暗く長い冥府の道を帰りはじめた。


 そこまで回想し、塔子は暗澹あんたんとした気持ちになった。そうだ、と思う。この話は、悲劇だった。


 結局、男は約束を破ってしまうのだ。

 冥府を抜け出す直前、地上の光が見えたそのときに。妻のことがただ心配で、ふとふり返ってしまう。妻の悲しげな顔が見え、それが最後だった。ふたりは引き離され、それきり会えなくなった、という結末。



 塔子は目を伏せた。背筋がうすら寒くなったが、首を振ってやり過ごす。闇のなかで、水音がかすかに鳴る。



 なぜ神話の登場人物は、タブーを犯してしまうのだろう。塔子は思った。


 見てはいけない、振り返ってはいけない。約束を守っていれば、回避できたはずの災厄を、しかし皆揃ってその身に受けている。疑いや興味を持たず、素直に従っていれば、そんなことにはならなかったのに。


 わたしは違う、と塔子は心に念じた。わたしはルールを破らない。厄介事に巻き込まれるなんて、まっぴらごめんだ。


 塔子は口元を引きしめ、強くうなずいた。綱を握る手に力を込めて、また一歩と足を進める。


 しばらく歩くと、それまでまっすぐに続いていた綱が、ゆるやかに左に湾曲した。塔子はそれを手で探り、ゆっくりと曲がる。単なる曲がり角なのか、分かれ道なのかはさっぱり分からなかった。ただ綱の案内するとおりに進む。


 風が吹き、髪が揺れる。闇がゆらめく。湾曲していた綱が、徐々に直線へと戻っていく。ようやく角を曲がりきったらしいと気づき、塔子は顔をあげた。

 すると前方に、小さな光が見えた。ぼんやりとした、オレンジの光。



 出口だ。



 声をあげそうになり、慌てて口を押さえた。焦がれていた明かりだ。あんなに暖かく感じる。ほっとして、長いため息が漏れた。緊張がゆるゆると解けていく。早く出口に出よう。明かりのもとへ行こう。そう勢いこんで足を踏み出す。


 そのときだった。


 ふいに、うしろから足音が聞こえた。ズッ、ズッと砂利を踏む音がする。近い。すぐうしろで鳴っている。しかも、こちらに近づいてくる。

 塔子は慄然として、ひゅっと息を吸い込んだ。



 誰かが、背後にいる。



 後続の一年生? いや、違う。塔子は素早く考えをめぐらせた。後続の人ならば、もっと前から足音が聞こえていたはずだった。これはまったく唐突に響いて聞こえた。まるで闇の中に潜んでいた者が、突然動き出したような――。


 胃の底を冷たいものがう。気付けば走り出していた。闇雲に綱をつたいながら、こけつまろびつ、足を運ぶ。足音は追いかけてきた。鬼ごっこをしているかのように、悠然と塔子の背後をついてくる。近づいてくる。


 塔子は、なかば恐慌をきたしそうになった。荒い息で、声にならない悲鳴をあげる。出口はまだまだ先だ。いっこうに大きくならない、オレンジの光。


 ふいに塔子のうしろで、今までよりぐっと近くに気配が感じられた。ズッと、最後の足音がして、完全に背後をとられる。


「いやっ!」


 塔子は短い悲鳴をあげた。がむしゃらに逃げようとして、石にけつまずく。衝撃があり、手と膝に痺れるような痛みが走った。気付けば、地面に全身を投げ出している。塔子は素早く顔をあげた。半狂乱になりながらうしろを振り返り、ずるずると後ずさる。


 闇の中にそれはいた。姿は見えないが、気配を感じる。こちらを見下ろしている。視線を上げれば、目が合った。塔子はたまらずに声をあげた。


「来ないで! 誰か!」


 その言葉に威力はなかった。足音は、残酷なほどゆっくりと近づいてくる。もう逃げられない。絶望的な思いでそう悟ると、塔子は反射的に身体を丸め、頭を抱えた。足音が目の前で止まる。



 もう、だめだ――。



 強く目をつむった塔子の身に、しかし何も起こらなかった。か細い水音が聞こえ、すとんと静寂が訪れる。それはしばらく待っても同じことだった。塔子はわずかに身じろぎし、怖々と薄目を開ける。両手をそっと下ろそうとして固まった。くぐもった声が、耳元で響いたのだ。



「約束を破ったね?」



 ヒッと、息のような叫びが漏れる。塔子は必死で逃げようとした。よろめきながらも腰をあげ、駆けだそうとする。


 その途端、とん、と右肩に軽い重みを感じた。そのままもう二度、先程と同じ力で、とん、とん、と触れられる。


 肩を叩かれたのだと気づくのに、少し時間が要った。理解すると同時に、全身に悪感が走る。

 塔子は手を振り切るようにして駆けだした。何度かつまずき、転んだけれど構ってはいられなかった。

 荒い息でトンネルを駆け抜ける。




 涙で視界が滲んだ。悔しくて、情けなかった。




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