9 獅子の娘(4)
塔子は震える吐息をこぼした。
祈るようにして組んだ両手は、強く握りしめすぎて、皮膚が白くなっている。血の気が引いているから、指の先はずいぶんつめたかった。
榊葉は視線を外さない。――外してくれない。
「――獅子の継承は、秘めやかに
榊葉は笑みを浮かべる。
――ねえ、篠崎さん。
蒼白な顔つきの塔子に、彼はさらりと告げた。
「トンネルでの獅子の継承。どうやら、昨日で四十九回目を迎えたらしいんだ」
塔子は縮みあがった。
――昨日!
榊葉が追い打ちをかける。
「つまり、きみは記念すべき世代の獅子。――第五十代獅子だ」
悪寒が走る。塔子は衝動的に身を引いた。鳥肌が立っている。おそろしくて、なにも言葉がでない。
空白のような沈黙に、榊葉は少し困ったように笑う。
塔子のただでさえ真っ白な顔が、さらに色を失くしていく。
――ホラーだ。
これは、ホラーだ。
こういう怪談、よくあるじゃないか――。
――ある夜、自分の身体が急に重くなり、不審に思っていた主人公。するとその翌日、突然に
そういう話。あとから真相が分かって、ゾーっとする話。
いままさに塔子はこの心境だ。
この肩に、四十九人の獅子がいるとわかったのだから。
お願い。
塔子は祈るような気持ちで思った。
――お願い、冗談だと言って。
塔子は下を向いたまま、か細い声をしぼりだした。
「学生運動のリーダーになれって、そういうことですか……? 悲願を叶えろと……?」
誇らしく獅子について話す榊葉に、自分の率直な気持ちを表明する勇気がない。なんとか遠まわしにつたえようとしてみる。
榊葉がおだやかにこちらを見返す。
ゆっくりと彼が口を開きかけたそのとき、素早く硬い声が割って入った。
「悲願とはなんですか」
びくっとして、塔子は振りかえった。しかめ面をした
「いったいどんな悲願だっていうんですか。百年間も叶わないなんて」
うろんな目つきで吐き捨てる。
榊葉は目を見開いた。ふいをつかれたような顔つき。けれどそれはわずかな間で、すぐにくすりと笑った。
「鷹宮。おれはうれしいよ」
「……は?」
「近くにおいで」
面食らった柊一を、榊葉が笑んでうながす。
「おいで。もうきみは傍観者じゃないだろう」
柊一は言葉に詰まった。
悔しそうな、ばつの悪い顔をして、しかし意外にも素直に立ち上がる。彼は塔子の隣まで来ると、少し間を空けて木製椅子を置いた。不機嫌にも関わらず、静かなしぐさだった。
執務机を囲み、とうとう三人が顔をそろえる。
榊葉はうれしそうに、柊一はむっつりとして、そして塔子はおどおどとして、三人はそれぞれの顔をうかがった。
「教えてください」
柊一がするどく切り出す。
「松高の学生運動とは、外国人を排斥しようとする世の中への、抗議活動だった。そうでしょう? それなら――それは終戦後に望みは叶ったはずだ。戦争に敗北した日本は、連合国によって強制的に開国させられた。それこそ、外国人が国内に一気に押し寄せたんだから」
塔子は少しだけ冷静になった。
――たしかにそうだ。
柊一の反論が天の助けのように思える。
なのに、と彼は続ける。
「終戦後も獅子が続いているのはどうしてですか。本来の目的が別にあったとしても、現在まで――百年間も――続けなければいけない悲願とはいったい何ですか」
塔子は自覚なくこっくりとうなずいていた。
榊葉の顔が
「いい質問だね」
一呼吸おいて、彼は少し身をのりだした。内緒話をするように顔を近づける。
「外国人排斥の抗議活動は、彼らの望みの一部にすぎなかった。当時の学生は、この活動をきっかけに、彼らの悲願を叶えようとしていたんだ。その悲願とは――“自由”に関することだった」
自由。
塔子は両手をにぎりしめる。
彼はうたうように続ける。
「
はい、と柊一は生真面目に応えた。塔子もかすかに首肯する。
榊葉はふたりを交互に見た。
「だからね、彼らは比べることができたんだ。――どうしてこの学校と外の世界はこんなにちがうのか。外の世界がなんだか生きづらいけれど、その理由は何なのか……。原因を考え、彼らはそれを変えたいと望んだ。どう変えていきたいのか? 彼らの理想は、それは大まかに言ってしまえばこんなことだった――」
あらゆる学問を好きなだけ学びたい。
いろいろな国の人と出会いたい。
思うこと、考えることを、人にとやかく言われたくない。
国や家族や他人だけでなく、自分のことも――もっと大切にしたい。
「これが当時の彼らの悲願だった」
榊葉がにこりと笑う。
塔子と柊一はむっつりと押し黙った。肩透かしにあったような、当惑の空気が流れる。
「それは……」。柊一が榊葉を見る。
「その理想は、終戦後にすべて叶えられましたよね。少なくとも、法の上では」
塔子もうなずく。
中学校でも学ぶ内容だ。
終戦後に日本は変わった。当時の学生たちが望んだことが――国の体制としては――すべて叶えられているはずなのだ。
「そうだね。新法によって、戦前当時の学生たちの願いは叶った」
榊葉がさらりと返す。
「じゃあ、それなら」
「どうして、いまも伝統は続いているんですか」
柊一の言葉を接ぐように、塔子が思わずたずねる。
彼が素早くこちらを見るので、塔子は我にかえってうつむいた。
「やあ、仲良しだね」
榊葉がのんびりと笑う。
気まずい間があり、塔子と柊一はそれには応じなかった。
榊葉はコーヒーをひとくち、口に含む。塔子同様に、彼のコーヒーも冷めきっている。
榊葉は静かな目でふたりを見た、
「終戦後。当時の学生たちの理想が叶った後の世界。それでもなお、伝統が続いている理由はね――」
塔子と柊一はしぜんと身をのりだす。
視線の先の彼は、くすりと笑って肩をすくめた。
「それは答えがないんだよ。残念ながら」
は、と柊一がつぶやいた。
「答えがない?」
呆れたような彼の声。
うん。こっくりと榊葉はうなずく。ふたりの戸惑いの視線を、おおらかに受けとめている。
とたん、柊一は乱暴に椅子の背に身を預けた。
「なんだ」。興が一気にさめたらしく、吐き捨てる。
「答えがないというのなら。それはつまり、戦後の伝統には"大義"がないと――なくなったというわけですね」
「……そうだね。わかりやすい目的はなくなったね」
榊葉は一拍置いて曖昧に答えた。
柊一が鼻白む。
「それなら。大義を失ったのなら……いまに残る伝統は、ゲームでしかないじゃないですか」
塔子も肩の力が抜けた。こわがっていた自分が、なんだか馬鹿みたいに思える。
柊一が不機嫌に腕をくんだ。
「――考えてみれば、そうだよな。伝統の歴史を聞いたときから違和感があった。この学校はいま、学生運動なんてやってないんだから……。学生運動もやってないのに“悲願を叶える”だなんて、おかしな話だ。しかも、そんな現実的な事件が発端なのに、いまの伝統はまったくリアリティがない」
“緑の王国”、“みっつの身分”――。空想の世界のイメージを強めるような、魔術めいたしきたり。
「こんなおかしな設定、本当はいらないはずなんだ。もとは自由の権利を勝ちとるための伝統だったんだから」
榊葉は聞きながらふと、ニイと笑った。
柊一は気づかず饒舌に続ける。
「――“獅子の伝言”だって、本来は抗議活動の呼びかけをするために、おこなわれていたものだったんでしょう?」
榊葉がうなずく。
「けれどいまや、ゲームになっているんじゃないですか。こんな――」
柊一は自分の学ランの胸ポケットに手をやる。そこに緑のペンがささっていた。
ハッとして塔子は彼の顔を見た。図らずも彼は、塔子とまったく同じ“緑の
「――こんな風に、緑を
わずかな沈黙があった。
榊葉が笑みを浮かべて何も言わないので、柊一は業を煮やした。さらに言葉を重ねる。
「しかも、いまの獅子がだれなのか、その正体すらわからない。そんなことってありえるのか? 学生運動のリーダーだったはずの獅子は、現在では生徒にすらその正体をひた隠しにしているなんて」
塔子は首肯した。
「――学び舎の王とはいうけれど。今ではくだらない命令をたびたび流すだけの存在じゃないか。それは、もう生徒の王ではなくて、ゲームをするための“王”になったということじゃないか? ……“審判”もそのために作られたのなら、おれはそれをやる意味を感じないし、やりたくもない」
柊一は憤りをあらわにした。ゲームに参加することへの、強い拒否感。塔子もまったく同感だった。
しかし榊葉は泰然としたものだ。
「なにより」。柊一が強く言う。
「“外部の人に王国を見破られたら負け。王国はなくなる”なんて――。もうこのゲームルール自体が、伝統の意味をうしなっている証拠だろう」
終戦によって、当時の生徒たちの悲願は叶った。だからそれ以降の伝統は、単なる“お遊び”になった――。生徒たちの暇つぶしのゲームになった。
「つまり、そういうことですよね?」
柊一の言に、塔子は深くうなずいた。
沈黙が降りる。
「……まあ、そうだよね」
榊葉は静かに言った。
「
榊葉は顔を上げた。ニヤニヤと笑っている。瞳は剣呑な光を帯びている。
ふいをつかれて、塔子はゾッとした。
柊一も息をのむ。
「鷹宮の言うことは、まったくそのとおりだよ。――いまの伝統はリアリティがない。大義名分をうしなっている」
榊葉は机の上にひじをつき、両手を組んだ。
「こんな風に、“緑の王国”をおとぎ話のようなイメージに変えたのは、戦後からだと聞いている」
「じゃあ、やっぱり遊びじゃ……」
塔子も無意識にまたうなずく。
ふたりの反応を見て、榊葉が笑う。
「でもね」
執務室がしんとなった。
榊葉の顔つきがあらたまる。
「――終戦し、学生たちの悲願は達成された。それなのに戦後の生徒たちは、伝統を終わらせるどころか、しきたりを細部まで作りこみ、すべてに意味を持たせた。そしてゲームのように仕立てあげた。つまり――“緑の王国”の輪郭を、よりいっそう深く、濃くしたんだ」
榊葉は真摯な目で柊一を見、そして塔子を見た。
「お遊びと言ってしまえばそれまでだけど……それにしても、あまりに手が込みすぎていないだろうか。これがただのゲームと言えるのか? ただのゲームなら、これはやはりやりすぎだ。たとえば、誓約のひとつ目。伝統の歴史を語り継ぐことなんて、ゲームに必要ないだろう?」
塔子も柊一も押し黙った。
おれはね、と榊葉は続ける。
「――戦後の生徒たちは、緑の王国という"システム"を構築したと考えているよ。非常に緻密で周到なシステムをね」
「システム?」
思わずたずねると、榊葉はうなずいた。
「そう。これは、王国を百年栄えさせるための――いや、王国を永久機関にするための、システムではないかと。そう思っている」
塔子と柊一は、ハッとして彼を見つめた。
榊葉が口の端をあげる。
「それがもし正しいのなら。おれはそんなところに――」
――学生たちの、おそろしいほどの執念を感じるよ。
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