8 獅子の娘(3)
*
――するどい警笛の音がする。外が騒がしくなってきた。
警官がもう、すぐそばまで来ている――。
学生たちは
隧道の両出口には警官が張りつき、すっかり彼らに包囲されている。逃げ場はほかにない。あとはじりじりと、その包囲網が狭まっていくだけ。捕らえられるのを、指をくわえて待つばかりだった。
――万事休す。
明らかな敗北というかたちで、学生たちの闘争は終わろうとしていた。
すすり泣きが空洞に響いている。
とある少年も、そこで涙するひとりだった。
入学したばかりの一年生だ。志をもって、活動にいち早く参加した。獅子が語る理想にあこがれていた。そんな世が本当に来るなら、心底見てみたいと思った。
だから彼は声をあげた。世界を変えるために
夢やぶれる、この日まで。
つらくてたまらないのは、明日以降の世界を生きることだった。
変わらない世界。何事もなかったかのように、日常は取り戻されるのだろう。
けれど少年の心の世界は、獅子によってすっかり変えられてしまった。入学する前の、無知で幸せだった自分にはもう戻れない。
だからこれからは、この世を失望して生きるしかない。
泣かないようにしていたのに、涙がこみ上げてくる。しゃくりあげそうになるのを、必死でこらえた。
後悔するもんか、と少年は何度も心に念じた。
獅子と仲間に出会えたことは、これ以上ないほど幸せなことだ。一生忘れることはない。けっして夢を捨てたりしない。
けれど――けれどあまりに無念で、悲しい。
声を殺してむせび泣いていると、ふいに背後で人の気配がした。
少年がはっとして顔をあげると、同時にトン、と肩に軽い重みを感じた。暖かな体温。背後の人物が肩を叩いたらしい。驚いて固まっていると、また肩を叩かれた。今度は力強くゆっくりと。トン、トンともう二度。
はげますような手つきだった。
仲間だと少年は確信したが、真っ暗闇なのでだれかはわからなかった。
「だれですか」
小声で問う。
数瞬の沈黙。そして背後の人物は、静かにささやいた。
たった一言。
少年は息を詰めた。急いで振りかえるも、後ろにはだれもいない。その人はあっという間に去ってしまっていた。
少年は呆然として、叩かれた自分の肩に手をやった。
ささやくその声を、彼は知っていた。まちがえるはずもなかった。
そして言葉の意味に気づくと、少年はやにわにワッと泣きだした。
あまりに大きな泣き声だったから、周囲の仲間たちは驚いた。けれどすぐに、その悲しみにつられてわんわんと泣きだした。
号泣と嘆きの渦のなか。少年は声のかぎりに叫び、その人を呼んだ。
“行かないで。だれかあの人をとめて”
もはや手遅れだった。
その人は出ていった。
トンネルの出口へ。警官の待ちうける――外へ。
*
「……その人とは、いったいだれのことか、わかるよね」
榊葉が静かにたずねる。
塔子は瞳を揺らした。のどがからからになっている。
「――獅子」
消え入りそうな声がでた。
榊葉は大きくうなずく。そう。
「それは初代獅子だった」
「……まるで見てきたみたいに言うんですね」
こらえきれなくなったように、柊一が口を挟んだ。
「百年近く前のことを、そんなに詳しく……」
もともと愛想がよくない顔を、さらにしかめている。
榊葉は彼に振りむいた。自身のこめかみに人差し指をあててみせる。
「鷹宮。これは、“審判の記憶”だ」
「え?」
「審判はね、立場上、この伝統の歴史すべてを知っていなくてはいけない。だからおれも、執行部に入ったときに、先輩からこれを一部始終語り聞かされたんだ。獅子が玉座を受けつぐように、審判は記憶を受けついでいる。そして――今度はおれが語り聞かせる番というわけ。だから鷹宮にも話しているんだ。いつかきみも、これを語らなくてはいけないから」
「……おれが? 書面じゃいけないんですか」
榊葉は首をふる。
「
柊一の眉間のしわが深くなる。
「そんなこと――」
「鷹宮、おれはね」
榊葉が先を制した。
「いずれきみが、次の獅子にこれを語ると思っているよ」
ハッとして塔子は柊一を見た。虚をつかれたような彼の顔。
沈黙が降りる。
「――話をもどそうか」
柊一をすっかり黙らせ、榊葉はこちらを見やった。
――トンネルの出口へ向かった獅子。
それはまさに、王みずから王国を去った瞬間だった。
秘め隠され、守られる立場を捨て、獅子は最後に学生らを守ろうとしたのだ。
待ちかまえていた警官の前に、獅子はたったひとりで進みでた。学生運動の首謀者であると名乗り、彼はその場で即刻逮捕された。留置所に送られ、もちろん退学処分をうけた。
松風館学校もその責任を問われた。在籍する外国人教師を故国に送り返し、強みにしていた外国語教育も廃止された。治安警察が出入りするようになり、定期的に検閲がおこなわれた。戦後、松風館高等学校と名をあらためるまで、その体制が続いた。
一方、獅子をのぞくすべての学生は――全員学校に居残ることができた。
獅子と学校をひきかえにして、罪を免じられたのだ。
「獅子はこういう結果になることを予想していた。そして狙いどおり、学生たちを守ることができた。自分を犠牲にして、ね」
榊葉は苦く笑む。
「まあ、残された学生たちにしてみたら、たまったもんじゃないけどね」
異国の文化、異国の師。自由の風が吹く学園。そして――獅子。
彼らの愛したものが、守ろうとしていたものが、目の前で奪われる。自分たちの行動が、最悪の結末を招く。それがどんなに絶望的なことか。
でもね、と榊葉は続けた。
「そんなこと、獅子はあらかじめ想像できていたよ。闘争は失敗、自分がいなくなれば、彼らがどんな風に絶望するか……なんてね。それさえも承知の上だった。だけど――自分自身でも、とても無念だった。なんとしても悲願を叶えたい。たとえ自分がいなくなったとしても、仲間には、あきらめないで活動を続けてほしい。そう強く願っていた。だから彼は警察に投降する前に、それを伝えることにしたんだ。――トンネルでね」
塔子の身体がはっきりとこわばった。
榊葉が口の端をあげる。
「“私が犠牲になる。きみたちは活動を続けてほしい”なんて、言えるわけもないよね。そんなことを面と向かって言えば、仲間に必ず止められてしまう。獅子は考えた。自分の意志を伝え、すみやかに消えるために。シンプルな伝達方法はないだろうかと。そして――こうすることにした」
隧道の暗闇を利用して、たったひとりにメッセージを残す。
会話する暇も与えないように、ただ一言、伝える。
「獅子は、実行に移した。とある少年に近づき、背後にまわり――そして、肩を三度叩いた」
自分でも、血の気が引いているのがわかる。青ざめる塔子を、榊葉が正面から見据える。
「少年は“だれですか”とたずねた。獅子はそれには応えず、用意していた言葉をささやいた。ただ一言――」
“きみが獅子だ”
ゾクっとして、塔子は腕を抱えた。
「初代は、次の獅子を指名したんだ。松風館の学生運動の象徴として、学生たちを率いるリーダーを――。ただ一言だけれど、それで十分だった。初代の伝えたいことは、そこにすべて込められていたから」
身を引く塔子をとらえるような、榊葉のまなざし。
「初代は去り、そして獅子は継承された」
学生たちは初代の意志を受け取った。
そしてかたく心に決めたのだ。
――悲願を叶える。
長い年月がかかろうとも。次の代、またその次の代になったとしても。
“獅子”を受けつぎ、いつかかならず――志を遂げる。
「これが伝統のはじまり」
にこりと榊葉は笑った。
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