3 陽春(3)
塔子は口元を引き結んだ。しばしの沈黙の後、覚悟をきめてうなずく。
「ごめん、坂本くん」
消え入りそうな声が出る。
「――やらなくちゃいけないの」
良司はびっくりしたようにこちらを見た。
「どうして」
「……ごめんなさい」
「――え、篠崎さん?」
知らず顔がうつむく。にぎりしめた両手は、すっかりつめたくなっている。塔子はなんとか声をしぼりだした。
「……会長と、約束をしているの。だからやらないといけなくて……。はっきり言えなくて、ごめんなさい」
どんどん声が小さくなり、最後の方は蚊の鳴くような声音になる。
坂本くんをここまで付き合わせておいて、いったいわたしは何がしたいんだろう――。そう思うとあまりに情けなかった。
数瞬の間があり、ふいに良司が動いた。何も言わず近づいてくる。思わず身を縮めると、彼は塔子の左腕にかるく触れた。
驚いて目をあげれば、良司はかがんで塔子と瞳をあわせる。
「約束って、どんな。――まさか脅迫じゃないだろうな」
色素の薄い、きれいな茶の瞳。
塔子はハッとして首をふった。
失礼な、と良司の向こうで苦笑がかえってくる。
「――まあ、知りたいなら教えるけど」
「じゃあ教えてください」
良司は榊葉に顔をむけた。
「なんだかわかんないけど、心配だ」
「だめ!」
あわてたのは塔子だった。
左腕に添えられた彼の手。その制服の袖を思わずつかむ。
良司が目を見開いてこちらにふりかえった。
「だめ?」
「――教えられない」
「なんで」
首をふる。
「どうしたんだよ」
塔子は袖をにぎりしめた。
「それは――」。ぎゅっと目をつむる。
「それは……坂本くんには、関係ないことだから……」
胸がいたい。
とてもじゃないが、良司の顔を見ることができない。
“知りたいなら教える”だなんて、会長はひどい。
塔子は内心で叫んだ。
獅子と審判のほかに――今年の“獅子の娘”について知るひとがいるなんて、考えられないのだ。
だから良司が塔子のひみつを知ってしまったら、彼は強制的に
思い過ごしかもしれない。けれど、その可能性があるからには、彼を深入りさせたくない。迷惑をかけたくなかった。
「関係ない、か」
低い声の響き。
塔子がうつむくと、良司がゆっくりと手をはなす。
体温ののこる左腕。
「ごめんなさい……」
自業自得だと思った。塔子の優柔不断な態度の、つけが回ってきたのだ。
“執行部に入りたかった”と、わらって嘘をつけばそれで済む話だった。それさえできていたら、大切な友達に、ひどいことを言わなくて済んだのに――。
――なんでわたしはできないんだろう。
自己嫌悪でどうにかなってしまいそうだ。
「会長」
三人の会話に口を挟んだのは、脇のソファに座っていた男子生徒だった。ほっそりと背が高く、黒縁の眼鏡をかけている。その眼鏡の奥の切れ長の瞳には、どこか見覚えがあるようにおもわれた。
「会長。ひとまず坂本の意志を聞きましょう」
男子生徒が静かに良司を見やる。
「本当に、いまは彼にとって関係ない話をしているんですから……。いやなら早く解放すべきだ。やりたくない人にさせるほど、こっちは手が足りていないわけじゃない」
辛辣だった。
そうですよ、と同じソファに座るショートカットの女子生徒が声をあげた。瞳がまるく、目鼻立ちが小さい。警戒心がつよそうなまなざしで、小動物を思わせる。
彼女のとなりに座る柊一も、つめたいまなざしをこちらに向けている。
「――そう言っているけど。坂本、どうする?」
榊葉が良司に向き直った。
「どうって……」
良司は戸惑ったように見返す。
「篠崎さんはここに残る。きみはどうするってことさ」
榊葉はそう言って、柊一らが座るソファの背もたれに浅く腰かけた。足を組む。
名を呼ばれ、塔子はびくりと身体をふるわせた。
“ここに残る”――。
塔子の意志に反して、それだけは揺るがぬ事実だった。
「え、辞退してもいいってことですか」
ぽかんとした良司の声に、榊葉は肩をすくめた。「……まあね」。
「おれにできることはやったし、伝えたしね……。坂本が嫌なら、これ以上無理強いするのはよすよ。――史信もいやがっているし」
史信と呼ばれた男子生徒は、涼しげな表情を崩さない。
はあ、と良司が気の抜けた声をだした。
――よかった。
塔子は胸に手をあてた。何事もなく、彼は抜けられそうだ。
良司の声音に怒りがないことも救いだった。怒った彼を、もう見たくはなかった。
――これからは、仲良く話せないかもしれないけれど……。
けれど壁をつくって、彼の厚意をむげにしたのは自分なのだ。仕方がなかった。
胸がきりきりと痛む。
洋間が静まり返る。
葉擦れの音がする。閉めた窓越しに、さやさやと優しく鳴る。
「どうしたんだ」
榊葉はふと声をあげた。
「そこで立ち尽くして。ほかになにかあるのか」
良司に声をかけたらしい。
塔子がわずかに目をあげると、良司は腕を組み、むずかしい顔をして佇んでいた。
「だって――」
こちらを見るので、塔子はあわてて顔をふせる。
榊葉がくすりとわらう気配がした。
「返答によっては解放するのに、どうやらきみの関心事はそこらしい」
沈黙。
「おれと篠崎さんが、どんな約束をしたのか、そんなに知りたい?」
「会長」。あわてて塔子は榊葉に向く。
彼は身をのりだし、いたずらっぽく良司をみあげている。
「坂本、知りたい?」
「それは――知りたいですよ。意味わかんないし」
「素直だね」
良司が短髪をがりがりと掻く。
いくらでも教えるよ――。榊葉は大らかに告げた。
「執行部に入るというなら、教える」
「は?」
「会長」
良司と塔子の声が重なった。
「篠崎さんとの約束は、けっこう大事なものでね」
榊葉は淡々としている。
「そう簡単に教えられるものじゃないんだ。――でも坂本になら教える。知りたいというなら、教えるよ。きみには話してもいいと思っているし、そのために呼び寄せたところもあるしね」
「そのために……?」
ああ、と首肯する。
「ただ――知るからには、執行部に入ってもらいたいんだ。それが最低条件。入りたくないなら、何も聞かずにここから出て行ってくれ。さっき言ったように、もうきみを強制したりしないから」
やっぱりそうか――。
塔子の頬に血がのぼった。
「会長」。うわずった声がでる。
「やめてください。こんなの」
「こんなの? どうして」
榊葉はふしぎそうにこちらをみる。塔子は眉根を下げた。
「どうして、って……」
そんなの、居たたまれないからに決まっているじゃないか。
自分が――こんな自分が。
取引材料になるわけないのに。
「坂本くん、気にしないで」
勢いのままに良司を見あげると、バチッと目が合った。いぶかしんでこちらを見る、薄茶の瞳。塔子は動揺した。うつむいていてわからなかった、彼の食い入るようなまなざしがここにある。
「だから――」
うろたえて真っ白になる。あとの言葉が続かない。
尻すぼみのような沈黙が降り、良司は小さく肩をすくめた。
「…………わっかんないなあ」
出しぬけに言う。
「……会長」
こちらを見たまま、彼は呼びかけた。
「なに」
「そんなにたいそうな約束なんですか?」
「うん」
「うん、って……」
榊葉がふふっとわらう。
「たいそうな約束だから、こんな提案をしているんだ」
「それがわっかんないんだよなあ」
良司はまたがりがりと短髪を掻いた。
「さっぱり思いつかない」
「そうだろうねえ」
良司が、お手上げというように宙を仰いだ。
「さあ、はやく帰りなよ」
榊葉が犬を追いやるかのように手をふる。
「クイズに付き合っているほど、ひまじゃないんだよね。入らないなら帰った帰った」
「なんだよそれ」
ムッとして彼が顔をしかめる。しかしそれもわずかな間だった。
良司はやがて思い直したように顔つきをあらため、こちらを向いた。
どきん、と塔子の心臓が跳ねる。
視線が交わる。
「さっきも言ったけど……」
ゆっくりと彼は口を開いた。
「篠崎さんって、案外わかりやすいんだ」
ごく小さなつぶやき。
きょとんとする塔子を、良司はしばし見つめる。ふしぎなものでも見るような顔つき。あんまり熱心に見つめられるものだから、身体が熱くなった。頬が紅潮する。
「坂本、くん……?」
おどおどとする塔子に、彼はやがて目元を和ませた。
「おれさ――」
ふいに言う。
「もうあまり勘違いしないと思うんだよね」
「え?」
良司が笑む。困ったようにわらう。
「会長」
ふと良司は榊葉の方を向いた。
「おれは、兄貴の代わりじゃないんですね?」
唐突に念を押す。
「代わりじゃないよ」
素早く榊葉は応えた。肩をすくめる。
「代われるわけがない」
「……は?」
「総司先輩の代わりなんて、だれもつとまるはずないじゃないか」
「は?」
「当然だろ?」。榊葉がわらう。
「それは坂本がいちばんよく知っているはずだ」
良司はあんぐりと口を開いた。
長い沈黙のあと、大きなため息をつく。
「……会長ってほんと、性格わるいよな…………」
悪態をつぶやけば、榊葉はくっくっとわらう。
「まあ……いいか」
良司はにがい顔でこちらを見る。
困惑しきりの塔子と目が合うと、その表情は苦笑にかわった。すっと迷いなく近づいてきて、耳元に顔を寄せる。
「だめだよ、こんなひとと約束なんかしたら」
小声でささやく。
塔子がびっくりして目を見開けば、彼の笑みは大きくなった。いたずらっぽくこちらを見る瞳。それは良司の本領だ。
「しょうがないからさ」
塔子の頭にぽんと触れる。
「手伝うよ」
かるく撫でると、良司は榊葉に向き直った。
「会長。おれ、知りたいです。――教えてください」
その約束を。
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