4 陽春(4)
塔子らが中央広場にたどり着いた頃には、陽はすっかり落ちきっていた。
そびえるクスノキの巨樹の向こうで、空が薔薇色に染まっている。落陽のかがやきが天を染めあげる、薄明の時間がおとずれていた。
「あー驚いた」
良司はくずおれるように、近くのテーブルベンチに腰かけた。
片手でくしゃりと髪を乱し、第二ボタンまでくつろげる。みだれた前髪がまぶたに落ち、頬に薄い影をつくった。
「まさか篠崎さんが――だったなんて……」
「……ごめん」
塔子は目をふせた。
ひんやりとした風が吹いている。頭上のクスノキがさざめき、胸元の濃緑のスカーフがひらひらと揺れる。
「篠崎さんが謝ることじゃないよ」
良司はのんびりとこちらを見あげた。
「でも、巻き込んでしまったから……」
「巻き込んでないでしょ。おれが勝手に入っていっただけ」
「坂本くん……」
「なあんかまた厄介なことになってんだろうな、って思って。首突っ込んでみただけ」
ニッとわらう。
「……兄貴のことも……むきになってかっこわるかったしね」
塔子は首をふった。
「そんなことない」
むしろ逆だ。内心でひどく安堵したのだ。あの良司でさえも劣等感を抱くことがあるのだと思うと、とても気持ちが楽になった。そして彼をより身近に感じられた気がした。
しかしそれを伝えるのは、はばかられた。
「――座ったら?」
薄茶の瞳があかるくこちらを見る。
塔子は一瞬つまり、戸惑いながらも応じた。彼の向かい側にそっと座る。
テーブルの上に、クスノキの樹影が落ちている。
しばしの沈黙があり、彼はのんびりと頬杖をついた。すっきりした輪郭のあごを乗せ、目をほそめる。
「それにしても……なんで篠崎さんが選ばれたんだろうな」
「皮肉じゃないよ、純粋な興味。――篠崎さんって、じつはすごい人なの?」
「……そんなのじゃないよ。知りたいのはわたしのほう」
塔子は瞳を揺らした。
ふうん、と彼はつぶやく。
「じゃあ獅子を見つけたら、いちばんに聞いてみないとな」
「そう、だね……」
「候補は絞れているの?」
「まだこれから。でも……考えていることはある」
気軽に訊いた良司に、塔子はあいまいにうなずいた。
*
良司の執行部加入が決まると、榊葉は
塔子は入寮式の日に、獅子の娘になったこと。獅子の娘は、やがて
『それで、坂本にはアシスタントを務めてほしいんだよね』
榊葉はにこやかに告げた。
『アシスタント?』
良司が眉をひそめると、榊葉はうなずいた。
『篠崎さんを支える補助者。――ようするに、篠崎さんと一緒に獅子探しをしてほしいんだ。審判は審判でも、坂本には現獅子の正体を教えないから。篠崎さんとまったく同じ立場でものを見て、一緒に獅子がだれかを考えてほしい。ともに獅子を見出してほしい』
『え、そんなことでいいんですか?』
『それが大事なんだよ』
榊葉は微笑んだ。
『――同じ問題を共有する仲間がいること。それ自体が、篠崎さんの支えになるから』
*
「へええ」
塔子が思いきって話した“獅子探し”の推理に、良司は目を見開いた。
「篠崎さん、やるな。それっていい線いってるんじゃないか……。もしそうだとしたら、もう数人まで絞り込めるじゃないか」
「そう、かな」
かぼそい声に、良司はしっかりとうなずく。
「王子なんかいなくても問題ないな」
くす、とわらう。
補助者に選ばれたのは、じつは良司だけではなかったのである。
「……坂本くん、なんだか楽しそうだね」
驚いて見やると、彼はさっぱりと笑んだ。
「深入りしたものは仕方ないだろ。だからいっそ、この状況を楽しんでやろうと思って。実際わくわくするしな」
「わくわくする……?」
「うん」
「そう……」
塔子はわくわくするなんて、いまはまだとても思えない。
自分は割り切れないでいるのに、良司はすでに前を向いている。その姿勢がただただうらやましかった。
薄明の世界のなか、天頂には星がきらめき始めていた。空気は薄青く、
「ああ、ごめん」
あわてたように良司は言った。
「他人事みたいに言って。……しんどいよな」
「ううん」
首をふる。
テーブルに片ひじをついた良司は、しばらく塔子の様子を見守っていたが、やがて安心させるように微笑んだ。
「そんな顔しないで」
屈託なく笑む。
「協力するからさ」
ひどく優しい瞳だった。
塔子は思わず眉根をさげた。机の上に置いた自分の両手をもみしぼる。
なんで坂本くんは――。
ぐっと唇をかむ。
「坂本くん」
意を決して顔をあげる。今しかない、と思えた。
ふしぎそうにこちらを見やる良司と、しっかりと目と目を合わせる。
「ん?」
「――――ありがとう」
良司は肩をすくめた。
「たいしたこと、なにもしてないよ」
「してる」
「篠崎さん?」
「…………してる」
風が吹いた。
横髪がふわりと浮き、塔子はそっとこめかみにふれた。つたう一滴の雫を、それとわからないように指ではらう。周りが薄暗くてよかったと思った。彼に心配をかけたくない。
塔子は瞳を隠すようにうつむいた。
「巻き込んでしまって、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいで……。でも本心は、坂本くんがいてくれて――すごくうれしい。すごく心強い」
「そう?」
うん、と塔子は力強くうなずいた。しばし黙り、そしてまた口にする。
「わたしね。坂本くんのお兄さんのことはよく知らないけど……。坂本くんのこと、すごい人だなって思っている。それに、いつも助けられているんだよ。坂本くんのよいところ、わたしはたくさん知っているから。だから――」
顔をあげる。
「大丈夫だよ。坂本くんは、大丈夫」
良司の目を真摯に見つめ、やがて塔子はほのかに笑んだ。
うるんだ瞳の、ぎこちない笑みだった。
梢が鳴っている。生徒らの談笑の声が届く。
良司はぽかんとした顔でこちらを見た。瞬きもせず見入り、やがてわれに返ったように、ふいと顔をそむけた。頬杖をした左手で口元を隠す。
「……篠崎さんってさあ」
ぼそっと言う。
「うん」
「…………何でもない」
夜は風に乗ってひろがる。
「あ、
そらした視線の先、大樹のもとへ歩いて来る人影を認め、良司が声をあげた。塔子も目をやると、小柄な老人の姿がある。白い頭髪に、柔和な顔つき。海老茶のベストを着て、手にはスケッチブックを持っている。
美術教員の
彼はのんびりと塔子らの近くに来ると、やわらかく笑んでみせた。
「こんばんは。もう学校は終わったの」
「はい」
良司が笑って返す。学校どころか課外活動まで終わっているのだが、それを杉原は知らないようだった。
「そう。今日は空がいちだんと美しいねえ」
杉原はしみじみと息をついた。
教員であるのに、教員らしくない。どこか浮世離れした雰囲気のある彼を、生徒達は“
「今日も描いていたんですか」
「そう。たそがれの空に、クスノキのシルエットが素敵だろう。描かずにはいられなかったよ」
良司の言葉に、杉原はおだやかに返す。
杉原の言葉につられて、塔子と良司はクスノキを見上げた。のびやかに枝葉を広げる大樹のその向こうで、太陽の残照がかがやきを放っている。今日一日のなかで、空がもっとも美しい刻限だ。
「きれい……」
ぽつりと漏らした塔子に、杉原は大きくうなずいた。
「そう。自然はいつも美しい」
それだけを言い、彼はゆっくりとその場をあとにした。クスノキの近くでスケッチを取り始める彼を見、良司は笑みをこぼす。
「おれ、杉爺のこと好きだよ」
「……うん」
塔子はわずかに笑みを浮かべた。
生徒の談笑が、さざめくように響いている。
*
寄宿舎に帰ると、
「執行部に入ることになったらしいわね。おめでとう」
にっこりと笑う詩織を見て、塔子は驚いた。いつも表情に乏しい彼女が、はっきりと笑みをつくっている。それはとてもめずらしいことだった。
「すばらしいことじゃない。よかったわね」
「詩織さん……?」
「この学校の購買、ろくなものがないから困るわ。簡単なお菓子しか買えなかったけれど、夕食のあとでお祝いしましょう。――ねえ、どういうわけで執行部に入ることになったの? やっぱり成績の良さかしら」
詩織は
「……えっと」
「わたしもね」
詩織がさえぎる。
「わたしももうすぐ、あなたにうれしい報告ができるかもしれないの」
きょとんとした塔子に、詩織は意味ありげな視線を送った。
「そのときは、わたしのこともお祝いしてくれるかしら」
「は、はい」
詩織が口の端をあげる。しかしそれ以上言及するつもりはないようだった。
彼女の機嫌のよさは、どうやらそこから来ているらしい。純粋に塔子のことで喜んでいるわけではないようだ。塔子は小さくため息をついた。
――それにしても、と思う。冷静沈着な詩織をここまで浮かれさせるものは、いったいなんだろうか。塔子は首をひねった。考えをめぐらすも、すぐには思いつかなかった。
「さあ、夕食に行きましょう。遅れるわよ」
詩織がせかす。塔子は考えるのをやめ、あわてて身支度をととのえた。
廊下から、さわがしい女生徒達の声が聞こえてくる。
寄宿舎はいま、もっともにぎやかなときを迎えていた。
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