2 入寮式(1)

 

 四月も半ばを過ぎて、ようやく桜が開花した。


 塔子が予想していた以上に、校内の桜の数は多かった。中庭や渡り廊下、広場に林道。人の目につくところならどこにでも、桜は根付いていたのである。

 春もたけなわとなったいま、それらがいっせいに花開き、存在を誇るように淡い花弁を揺らしている。


 緑の学園は、この季節ばかりは桜の園へとすっかり変貌してしまったようであった。


 なかでもとりわけ見事なのは、正門から講堂へ続く並木道である。桜が天上を埋め尽くすように咲き誇り、白いアーチを形作っている。風が吹くたびに、そこからはらはらと花片が降りしきっていた。


 塔子は坂の上で、その夢のような光景に目を奪われた。


 こんな見事な花々をいったいどこに隠していたのか。


 何度見ても、不思議に思うのだった。


 後ろを振り返れば、鈴なりに咲いた桜のその奥に講堂がある。式典や集会のために使用されるこの講堂は、校舎と同様に、大正期の歴史的建造物の一つだ。


 間口のある玄関ポーチ。二階部分にある広々としたバルコニー。それらを擁する、木造の本棟。その正面の左右には、三角屋根の塔屋が造り付けられ、いずれも外壁は白一色に塗られていた。フランスルネサンスの建築様式にならった建物らしく、どこか宮殿のようなたたずまいをしている。


 そこをぐるりと囲うように、やはり淡い色をした桜が咲き乱れている。風情のある光景だった。


「桜、きれいだよね」


 ふと、うしろからほがらかな声がして、われに返る。

 広場でにぎやかにさざめく生徒達を背にして、ひとりの少女がこちらへ歩み出ていた。


 美しい弓なりの眉と勝気そうな瞳が印象的な少女だ。すらりと背が高く、ポニーテールにした長い黒髪が、歩くたびにさらさら揺れる。


織部おりべさん」

 塔子はつぶやいた。クラスメイトの織部おりべ紗也加さやかだった。


 紗也加はにっこり笑うと、塔子に並んだ。


「ずいぶん遅かったと思わない?」

「え……?」

「桜のこと。いくら山の中とはいえ、入学式にも咲かないなんて。拍子抜けしちゃった。期待って叶わないものね」


 紗也加は苦笑混じりに、桜の枝に手を伸ばす。桃色の爪で花びらをはじき、しみじみと見つめた。


「入学案内の写真を見てからずっと、この光景にあこがれていたの。ようやく見ることができたわ」

「入学案内……」


 それを聞いて塔子もすぐにピンときた。松風館の入学案内冊子の表紙には、正門から続く桜並木と、その先に待ち受ける講堂の写真が載っているのだ。この並木道を歩くことは松高生のステイタスであり、多くの受験生のあこがれとなっていた。


「……わたしも、この景色を見たかった気がする」


 塔子はぽつりとつぶやいた。紗也加のように憧憬(しょうけい)の念を抱いていたわけではないが、桜には思い入れがあった。山中の景色に、いまだ馴染めずにいる塔子にとって、桜のある光景だけはなつかしいものだったからだ。


 おだやかな沈黙が二人の間に降り、紗也加はこぼれるように笑んだ。


「篠崎さんって、思ったよりずっと話しやすいんだね。何だかうれしい。ね、塔子って呼んでいい?」

「……う、うん」

 塔子は少し詰まったもののこくりと頷いた。紗也加は更に笑む。

「ありがと。あたしのことも呼び捨てでいいから。ね、入寮式は誰と歩くか決めた?」

「歩く……?」

「そう。だからこんな格好しているのよ。先輩から聞いた話によると、山の上のくすのき神社まで歩行演習らしいわ」


 そう言って、紗也加は着ているジャージをつまんでみせる。塔子も自分の姿を見下ろした。


 塔子ら一年生が講堂前広場に集まったのは、入寮式のためだった。今朝のショートホームルームに、松風館高校の生徒会組織にあたる“緑風会りょくふうかい”執行部員が現れ、突如入寮式決行を宣言したのだ。


 式の内容はまったく想像できなかった塔子だが、歩行演習、と聞いて途端に憂鬱になってくる。自慢ではないが、体力はからきしなのだった。


「それで、一緒に歩かない?」

 紗也加がこちらを見つめて笑む。

「え……?」

「出席番号順に歩かされるわけじゃないみたいだから、どうかなって」


 塔子は目を丸くした。なぜ自分に声をかけるのか、まったくわからず、固まってしまう。


「だめ、かな」

 上目でこちらを見る紗也加に、塔子はあわてて首を振った。

「え、えっと、そうじゃないの。……いいの? わたしなんかで」

「いいに決まっているじゃない! じゃあ、決まりね。よかった。だめかと思っちゃった」

 喜ぶ紗也加に、塔子はあいまいに笑んだ。心中を見透かすかのように、紗也加が苦笑する。


「その顔。すごく怪しんでいるでしょう」

「そんな、こと……」

「まあ仕方がないわよね。下心がないわけじゃないんだもの」

「え?」

 返事の代わりに、にやと笑んで、塔子の様子をうかがうように見つめてくる。塔子がきょとんと目を見開いていると、背後からのんきな声がかけられた。 


「織部!」


 振り向けば、広場に坂本さかもと良司りょうじの姿があった。男子の群れの中にいる彼は、級友にじゃれつかれながらも、こちらを興味津々に眺めている。

 紗也加が一瞬微笑み、ぶっきらぼうな声を出す。


「何よ」

「篠崎さんいじめるなよー」

「いじめてないわよ。ばーか」

 紗也加の言葉に、周囲がひやかしの声をあげる。良司は彼らに首をしめられ、引っ張られながら、こちらに向かって破顔した。

「そっか。なら良し」

 言い切ると、そのままプロレスに興じ始める。紗也加はあきれたように息をついた。


「なにが“なら良し”よ、もう」

「…………」

 心配されたことが気恥ずかしく、塔子は真っ赤になる。


「ねえ、坂本と付き合っているの?」


 紗也加はずばりとたずねた。


「つ、付き合っていないよ。違うの」

「そう?」

「そう、だよ。皆聞きに来るけれど、本当にちがうの」

「仲が良さそうに見えるけど」

「あれは……わたしが不甲斐ないから……その……」


 塔子は言葉を濁した。この前の出来事は、恥ずかしくてとても話せそうにない。

 紗也加は形の良い眉を跳ね上げ、じっとこちらを見つめてくる。後ろめたいことは何もないが、強いまなざしにうろたえ、目を合わせることができなかった。


 あの一件以来、坂本良司さかもとりょうじが塔子を気にかけるようになったのは事実だった。彼は様々な場面で何くれとなく声をかけ、級友との雑談にも積極的に塔子を引き入れた。


 良司の影響力は絶大だった。彼が話しかけるというだけで、クラスメイトは塔子に興味を持ち、交流を図ろうとするようになったのである。


 塔子はその恩恵を受けるたびに、――それが良いか悪いかは別として――得難い味方を得たことを、実感せざるを得なかった。


 そして、そのように良司が気遣ううちに、二人の仲を詮索せんさくする者が増えていった。付き合っているのではないかと、あらぬ噂が立つようになってしまったのである。


「本当に付き合っていないの?」


 焦った塔子をいぶかしんだのだろう。紗也加がさらに念を押してくる。その真面目な顔つきに、塔子は戸惑いながらもうなずいた。


「本当だよ。……わたし、上手く友達がつくれなくて……坂本くんが心配してくれたの。それだけ。すごく感謝しているけれど、付き合っているとか、好き、とかじゃないの」


 友達がつくれない、と口にした途端、声が震えた。平静を装うつもりでいたのに、紗也加の顔をうまく見ることができず、目を伏せる。


 ふたりの間に沈黙が降りた。風が吹き、桜の揺れる気配がする。


 うつむいた塔子の頭に、ふとあたたかな体温を感じた。


「そっか。話してくれて、ありがとう」

 紗也加の手だった。微笑んで、ゆっくりと塔子の黒髪を撫でる。

 顔を上げ、驚いて見つめれば、紗也加は笑みを深くする。髪を撫でる手つきは優しく、彼女の指先から、温かさが染み入るようだった。塔子は知らず頬を染めた。


「もう、可愛いんだから。やっぱり、何もなくても嫉妬してしまいそう」

「……嫉妬?」


 紗也加は眉根を下げて苦笑し、そのままそっと顔を近づけてきた。吐息のかかる距離で、小さく告げる。


「あのね。わたし、気になってるんだ。坂本のこと」


 こちらを探るように見つめ、一瞬の後に、柔らかく笑む。その頬にはうっすらと赤みがさしていた。

 彼女の背後には、薄桃色の桜が、鈴を振るように淡く揺れている。

 塔子は何も言えなかった。


「さあ、行こうか。執行部が来たみたいだよ」

 打って変わって快活な声をあげ、紗也加は塔子の手を取る。華やかな笑みを向けると、そのまま軽やかに、集合場所へと駆けだした。





 *





『只今より、第八十四回、入寮式を開始します』


 メガホン式のスピーカーを手にした、生徒自治組織“緑風会りょくふうかい”会長、榊葉さかきば直哉なおやが、講堂を背に開式の宣言をする。


 広場には総勢百二十名の一年生が、クラス毎に二列に並び集合していた。


 紗也加の後ろに座った塔子は、彼女の揺れるポニーテールをしばし見つめた後、そっと周囲を見回した。


 広場の脇には緑風会役員、そして運営委員が十名ほど、真面目な顔つきをして控えている。

 生徒主体の行事であるらしく、教員の姿は一切見当たらない。皆一様に学校指定のジャージを着用しており、その様子を見るだけで塔子は早々に気が滅入めいった。


『皆さん、まずは歓迎テスト、お疲れ様でした。さぞ打ちのめされただろうと思います』


 榊葉の明るい声が広場に響く。周囲から苦笑の声が漏れた。紗也加が塔子に振り返り、眉を上げて見せる。


 彼は面々の顔を眺め、にこやかに続けた。


『悪い点だからといって、あまり気落ちしないように。歓迎テストなんてものは、君たちを落ち込ませるためにあるんですから。次回頑張って、意地悪な教員の鼻を明かせば、それでいいんです』


 と笑ってみせる。彫りが深い顔立ちの榊葉は、笑うと目尻にしわができる。そのせいか、笑顔がとても感じが良く、人を惹きつける華やかな雰囲気があった。皆がしぜんと彼に見入ってしまう。


 榊葉は続けた。


『とはいえ、今夜は勉強のことなどは、できれば一切忘れてほしいと思っています。入寮式に専念してほしいのです』


 一拍の間があり、しん、と辺りが静まり返る。

 彼は表情を引き締め、ゆっくりと声を発した。



『今日は特別な日です。君たちが、松高生になる日なのです。この儀式を経ずして、僕らは、君たちを仲間と見なすことはできません』

 きっぱりと告げる。



『そう、これは儀式です。君たちを迎え入れるための、大切な儀式。創立初期から続く、古い伝統です。ただのイベントではありません。ですから、どうか真剣に、おごそかな気持ちで取り組んでくれることを望みます』


 ゆっくりと、刻み込むような口調だった。榊葉は生徒ひとりひとりの顔を見つめる。



『そして、今日この日に、僕らの仲間となることを――松高生の自覚と誇りを以て、伝統を受け継ぐひとりとなることを、誓ってほしいと思います。この式で、君たち全員が無事にその誓いを立て、松高生の一員となることを、僕らは心待ちにしています』



 沈黙が降りた。困惑と不安と、そして好奇心が生徒達の間で交錯する。塔子も紗也加と目を見合わせた。ただの歩行演習ではなさそうだった。


 榊葉が笑んだ。


『――では、本題に入りましょう。式について説明します。これより男女に分かれて、山頂の鎮守社、くすのき神社に参詣します。楠神社は、鎮守の森に松高設立を許してくださった、恩のある社です。うちは無宗教の学校ですが、その感謝をこめて、毎年ご挨拶しているんです。敬意を払って参拝してください。……ここから神社までは、片道約一時間のコースです。ちょっとしたハイキングですね』


 皆動揺はしなかった。何かしら運動をするということは、ジャージ着用を義務付けられたときから気づいていた。

 榊葉は淡々と続ける。



『このあと正門を出て登山道に入りますから、広がらず、道の端を歩くように。くれぐれも騒がないでください。そして、今伝えたことを、どうか忘れないようにしてください』



 これを儀式というのだろうか?

 皆の顔に疑問が浮かぶ。しかし彼はそれ以上言及しなかった。



『僕から説明できるのは、今はここまでです。まずは神社到達を目指しましょう。――では男子。立って、こちらに集まってください』


 男子生徒が戸惑ったように立ち上がる。塔子の隣に座っていた男子も立ち、面倒そうに歩き出した。



鷹宮たかみやくん、頑張って!」



 一組の方から黄色い声が上がる。視線をやれば、噂の人物、鷹宮たかみや柊一しゅういちの姿があった。列をつくる男子のなかでも立ち姿が端正なので、すぐに目につくのだ。


 塔子の位置からは、彼の横顔が垣間見えた。物憂げに伏せられた切れ長の目元と、高い鼻梁、固く引き結ばれた薄い唇。緻密に整えられた、美しい造作だった。しかし表情に乏しく、どこか彫像のように冷たい印象がある。


「王子、大人気ね」


 紗也加がつぶやいた。おうじ、と塔子が返すと、こちらを向いて小声で説明してくれる。


「あの人、名の通った旧家の家柄みたいなの。地位はあるし、美形だし、緑風会役員に選抜されるほど頭も良い。だから王子。天は二物も三物も与えたってわけ。ずるいわよね。まあ、王子は王子でも“氷の王子”なんだけどね」

「え?」

「さっきから応援されているのに、顔色一つ変えないでしょう? つれないのよ。硬派だって言う子もいるけれど……冷淡なだけだと思うのよね、わたしは」


 どうやら塔子の印象に間違いはなさそうだった。しかし、紗也加はやけに厳しい物言いをする。何かあったのだろうかと、不思議に思って首を傾げた。


『それでは、男子から出発をします。先導役として、運営委員の野田が、しんがりには僕と、緑風会役員の瀬戸せとがつくのでよろしく』


 いつの間にか榊葉のとなりには、名前を呼ばれたふたりの委員が控えていた。どちらも足首を回したり、屈伸をしたりと準備に余念がない。

 榊葉がにこやかな笑みをつくった。


『みんな、マラソンは好きだよな?』


 急に砕けた口調で呼びかける。ざわ、と男子が騒いだ。

 榊葉は気にした風もなく、空を見上げる。


『では、軽く汗を流すとしましょうか。制限時間は、日暮れまで。それまでに神社に到着すること。遅れたら腕立て百回なので、よろしく。それでは――ようい』


 悲鳴とうめき声があがる。塔子も血の気が引いた。登山道を走るなんて、しかもペナルティまであるなんて、聞いていない。


『スタート!』


 榊葉のいきいきとした声が、広場に響いた。




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