3 入寮式(2)

 

「まったく、ひやひやしちゃったじゃない」


 正門へ続く並木道を歩きながら、紗也加が不機嫌そうに呟く。塔子は戸惑いながらも、そっとうなずいた。


 緑風会執行部の女性役員に連れられ、女子の一行も広場から出発を始めたところだった。男子のように走るのではなく、歩いての行軍である。役員から、そのように指示を受けたのだ。


「女子に限定して言えば、まさしく“歩行演習”なのね。走らされなくてよかったよね。得しちゃった」

「うん……男子には悪いけれど、すごくほっとした……」


 紗也加の声に、塔子は小さく返す。安堵と後ろめたさが入り混じり、複雑な気分だ。そっと紗也加を窺えば、彼女は気にした様子もなく笑った。


「そういう行事なんだろうし、気にすることはないんじゃない? 山道マラソンは女子にはきついから、配慮したんだと思う。ラッキーだと思えばいいのよ」

「……そう、かな」

「そうだよ。塔子は優しいんだから」


 こちらを見つめて柔らかく笑む。ふいに名を呼ばれ、塔子はどぎまぎとした。驚きの後に、うれしさがじんわりとあふれてくる。そっと胸を押さえていると、紗也加がのんびりと言葉を続けた。


「それにしても、男子に厳しいあたり、さすがは元男子校よね」

「男子校?」

「あ、知らなかった? 松高って、昭和初期までは男子校だったのよ。だから、入寮式はその頃の名残があるんじゃないかなって」

「そうなの……。全然知らなかった」

「明日香さん――ルームメイトの先輩なんだけど――から聞いたの。塔子は何も聞いていないの?」

「うん……」


 塔子は目を伏せた。学生宿舎の同室の二年生ルームメイト古谷ふるや詩織しおりを思い返す。


 松風館の学生宿舎では、一年生と二年生が、二人一組となって各部屋に割り当てられる。学校や宿舎の生活に不慣れな一年生を、同室の二年生が、姉・兄代わりとなって教え導く決まりのためであった。


 ちなみに三年生は、各自一人部屋を与えられ、宿舎も新館に移ることになっている。年功序列の世界であった。


 塔子のルームメイトである古谷詩織は、まじめで物静かな二年生である。姉代わりとして丁寧に世話を焼いてくれるのだが、砕けた会話ができるほど、関係を深められていないのが現実だった。


 表情が硬くなる塔子に、紗也加は少し眉を上げた。しかしそれだけで、何も言わなかった。


 視界の端で、桜並木の薄桃色がけぶる。


 しばし無言で歩いていると、厳めしい校門が眼前に迫ってきた。黒い鉄格子で組まれた、観音開きの門扉が見える。男子が出ていったばかりなので、右扉は解放されていた。


 閉めきった左扉に目を移せば、その中央には輝く金獅子の意匠がある。口を開け、前足を振り上げ、今にも飛びかからんとする姿勢の、獅子の意匠である。右扉にもそれはあり、両扉が閉まるときには、二頭の金獅子が向かい合う姿を見ることができた。


 その意匠こそ、松風館の校章である。


 門扉をくぐりながら、塔子はふと不思議に思った。制服の胸ポケットに付ける、金色の校章バッチを思い出したのだ。


 松風館の制服は、古式ゆかしいセーラー服だ。

 黒地の制服とハイソックス、胸元には濃緑色のリボンを留め、セーラーカラーにもリボンと同色の一本線があしらわれている。左胸には小さなポケットがあり、そのふちの辺りに、校章バッジを付ける。


 暗色系で統一され、地味になりがちなデザインだが、そう見えないのは、校章バッジの役割が大きいようだった。黒地に一点金色のバッジが光ることで、ぐっと格調高い印象になる。


 そのバッジに描かれているのが、右を向いた一頭の獅子だった。



「なぜ校章バッジは、一頭の獅子だけなのかしら……。本来は二頭なのに」



 呟いた言葉を聞き取って、紗也加は口を開いた。

「そうね……明らかに、校章とは違うわよね。なんでかな。わたし達が半人前って、言いたいのかしら」

 明るい目で笑ってみせる。


 門扉を過ぎて、塔子は後ろを振り返った。開かれた右扉にある、獅子の意匠がようやく見える。左向きに躍り上がる獅子。校章バッジにはいない、もう一方の金獅子がそこにいた。

 塔子はそっと首を傾げた。


 この片割れの獅子は、いったいどこに消えてしまったのだろうか?


 そんな疑問が、ふいに浮かぶ。在るべきはずのものが無い、という事実は、一度気づいてしまうと気持ちが悪いものだった。塔子は顔をしかめ、獅子を見つめた。




 一行は舗装道路を出て、狭い登山道に入った。“くすのき神社”と書かれた案内板にしたがって、ゆるやかな階段を上る。


 日が傾いてきた。木立の影が大きくなり、木漏れ日は黄昏の色を滲ませる。山道に織りなされた光と影のなかを、巡礼者のように静かに進む。

 落葉の立てる乾いた音が辺りに響いている。


 歩きながら、塔子は紗也加を盗み見た。歩を進める彼女の頬は、うっすらと赤くなっている。大きな瞳は、今は伏せられ、長い睫毛の影が目元に落ちていた。


 美しい少女だと思った。女の自分でもどきどきしてしまう。こんな子に告白されたら、きっと誰だって嬉しいに違いない。そう考えて、塔子は良司を思い出した。彼の屈託のない笑顔が頭をかすめる。


「どうしたの」

 紗也加が呟いた。丸い瞳がこちらを向いている。塔子はどきりとした。


「あ、えっと。なんでもないの」

「そんな顔に見えないわよ。気になるじゃない」

「その……」

「坂本のこと?」

 さらりと彼女は言った。塔子は驚いて見つめる。しばらく迷い、声を上げた。気になっていたことが、口をついて出る。


「……坂本くんの、どこが好きなの?」

「坂本の?」


 そっとうなずけば、彼女はいぶかしむように眉根を寄せた。塔子はあわてて弁解する。


「ふ、深い意味はないの。単なる興味。その……わたしに声をかけてくれたのも、坂本くんのおかげだし」

「そうね、下心があったからね。否定はしないわ」


 紗也加は苦笑する。まずいことを言っただろうかと、塔子は肩をすくめたが、彼女はさして気にしていないようだった。


「どこが好きか、ね。明るくて、話していると楽しくて、お調子者だけど憎めないところかな。運動神経がいいところも、ポイント高い」

「ぽ、ポイント」

 そう、と彼女は笑んだ。塔子はあいまいに頷く。


「じゃあ、いつから好きだったの?」

「うーん。いつからって言われると、正直よくわからないの。でも……初めて意識したのは、たぶん……“織部おりべ”って呼び捨てにされたときだと思う」

「そっか……」


 塔子は納得した。良司が呼び捨てにする女子は、今のところ、紗也加だけなのだ。その事実だけでも、二人の親しさがうかがえるというものだった。


 あいづちを打っていると、ちなみに、と紗也加は続けた。振り向いた塔子をうかがうように見つめてくる。


「好きだって、ちゃんと自覚したのはね。塔子に笑いかけるあいつを見たとき、だよ」

「え……」

「無性に腹が立った。それで、理解した」

「…………ごめん」

「なんで謝るの」

 紗也加が眉を跳ね上げる。塔子はびくりとした。


「あのね。勝手に想っているのもわたし。勝手に嫉妬しているのもわたし。自分勝手な目的のために、塔子に近づいたのもわたし。だから、塔子は何も謝る必要がないんだよ」

「織部さん……」

「そんなに優しくしちゃだめだよ、塔子。わたしは、わがままなんだから。弱気でいると、つけあがるよ」


 至極まじめに、そう告げる。塔子は困惑した。何と返せば良いか分からず、口を開いては閉じる。


 それから、と眉を吊り上げたまま彼女は言った。

「織部さんじゃなくて、紗也加、だよ。名前で呼んでって言ったでしょう」

「あ」

「もう、塔子ったら」

 紗也加は大げさにため息を吐いた。


 ふいに頭上で歓声が聞こえ、ふたりは同時にふり仰ぐ。階段の先で、はしゃぐ女子のシルエットが見えた。夕暮れの淡い空を背景にして、彼女達は熱に浮かされたように騒いでいる。


 塔子と紗也加は目を見合わせた。林が途絶え、開けた場所にいるようだが、なぜそんなに騒ぐのかはわからない。首をひねりながらも後に続いた。


 木立の間隔が間遠になり、辺りが明るくなっていく。階段の脇に繁茂(はんも)するツバナをかきわけ、塔子らも最後の一段を昇りきった。乱れた息のまま顔を上げ、息を呑む。


 視界いっぱいに広がる、黄色。いちめんの菜の花畑がそこにあった。


「すごい……」

 塔子は思わず呟いた。


 そこはぽっかりと木々のない、小さな丘陵地だった。

 なだらかな斜面のふくらみに沿うように、菜の花が群生し咲き誇っている。風が吹くたびにそれらが一斉にそよぎ、打ち寄せる。まるで黄金色の波だった。


 その丘の先には、山の麓にある村落と、遠くにそびえる青い山々が見渡せた。そして、山の端に、いままさに沈んでいこうとする、夕日が見える。春独特のけぶるような空気のなかで、夕日は滲むように輝いていた。とろりとしたオレンジの光が、塔子たちを含めた、全ての景色を染め上げている。


 近いものは鮮明に、遠いものはぼやけて見える、そんなふしぎな夕暮れだった。カメラのピントがぴたりと合ったかのように、菜の花の黄色が鮮烈だ。


 ふいに紗也加が、塔子の左手を取った。ぎゅっと握りしめられる。塔子はびくりと手を震わせたが、しばらくして、恐る恐る彼女の手に指を添わせた。


 紗也加の感動が、あたたかい体温を通して感じられる。

 それをぎこちなく受け取りながら、内心で驚いた。触れあうことが、こんなにも豊かに感情をつたえるものだとは、知らなかったのだ。 


 紗也加が塔子の瞳をのぞきこんでくる。目を見開くと、彼女はにこりと笑った。


「きれいだね。何もかも」


 一拍置いて、塔子はそっとうなずいた。先ほどの不機嫌さはどこへやら、紗也加はさも嬉しそうに笑っている。不思議な人だと塔子は思った。自由に、思うままに生きている。そんな雰囲気がとても羨ましかった。


 菜の花のなかに道が一本続いている。


 前を行く生徒に続いて、塔子らも歩きだす。黄色の花々に照らされて、皆の顔が明るく映る。それが何だかおかしくて、紗也加と目を見合わせて笑った。笑える自分が嬉しかった。


 沈みゆく夕陽の、明るい残光が撒き散らされた世界に、塔子は目を細めた。



 この瞬間を、きっと忘れないだろう。

 なぜかそう、信じられるのだった。


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