10 獅子の娘(5)


「執念」


 思わず塔子は繰り返した。

 そんな言葉、ふだん聞く機会もない。


 三人のあいだに重い沈黙が流れる。


「……いったいどういうことですか」

 ショックからなんとか脱しようと、柊一しゅういちが強い語調でたずねた。

「何が何だか、わけがわからない――」

 こくりと塔子もうなずく。しばし考え、心もとないながらも口を開く。


「つまり……つまり会長は……戦後の伝統にも、何かしら目的があると。そう思っているんですか……?」


「うん、たぶんね」。榊葉が静かに応えた。

「そう思うよ。戦前の頃とは、またちがう目的があると思っている」

「けど、それは憶測ですよね? 戦後の伝統の成り立ちについて、本当に何もわからないんですか。――“審判の記憶”とやらを、まったく受けついでいないんですか」

 柊一の明らかにとげのある口ぶりに、榊葉はおかしそうに笑んだ。首をふる。


「ないよ。学生たちは粛々しゅくしゅくと伝統を強固なものにし、そしてそれを後生大事に、何十年も受けついできた――ということしか語りつがれていない」

「どうして」

「答えがない。そう言ったろう。理由がわからないんだ」

 彼はふと冷めた目つきになった。


「いまの伝統には大義名分がない。なんのためにそれをするか、何を達成しようとしているのか。そういう“動機”が、まったく公表されていないんだ。だから、さっき話した初代獅子のような、伝説も物語もなくなった。――いまでは、獅子は生徒からも身を隠すようになったしね。それが象徴的かな。戦後以降の伝統は、その全容を徹底的に秘め隠すようになった」


 困惑をきわめる発言だった。

 塔子は思いきり眉をしかめた。――本当によくわからない。

 しばらくの間があり、ようよう柊一が口を開く。

「……すべて隠すなら、伝統には何の意義も目的もないように思えますけど……」


隠しているなら?」


 榊葉が目つきを変えた。

「意義や目的を、ならどうだろうか」


 静かな声。

「……どういう意味ですか」

 塔子は上目で榊葉を見た。

 彼は身をのりだして両手を組む。――そうだね、とまず返す。


「ここからはおれの持論。きみたちが、伝統を理解するための取っ掛かりになるよう話してみるけど、異論はみとめる。これがすべて正解だとは思わないでほしい」

 塔子を見、そして柊一を見、榊葉は口を開いた。


 ――松風館創立初期から始まった学生運動。その悲願は、終戦とともに叶えられた。戦後の学生たちは、ゴールにたどりついた世代だった。

 これで大団円。獅子の継承は終わり、学生運動も終了。伝統は閉幕。理想の世界を謳歌おうかしよう――。そのはずだった。


 けれどどういうわけか、彼らは伝統を続けることにしたのだ。


「その理由については、さっきから言っているとおりだ。わからないから飛ばす」

 榊葉は淡々と言う。


 ――伝統を続ける、といっても、戦前の頃と現在とでは動機がちがう。だから彼らは、いまの状況にあわせて、伝統を作り直すことにした。


「戦後の学生たちがいちばん問題にしたことは、おそらく“学生運動”についてだろう。伝統はこのために始まったのだからね。……けれど彼らはそこで悩んだ」


“はたして学生運動は、目標を達成するための最善の方策だったのだろうか? 学生運動を起こしたから、夢は叶ったのだろうか? 

 ――いいや、そうじゃない。

 松高生の功績じゃない。国や世界の情勢が変わって、結果的に彼らの理想が叶えられただけだ”


「だから方策を変えたと?」

 すばやく柊一が割って入り、榊葉はうなずいた。


「当時の学生たちは、学生運動のむなしさを知っている世代だったんだ。だから彼らは考えた。自分たちの力で、かならず目的を達成できるように。学生運動よりも良い方法がほかにないか、真剣に検討した。そして考えに考えぬいて、彼らが編み出したのは、こんな方法だった」




 ――緑の王国を、させる。




 塔子は目を見開いた。

 つまり、と榊葉は強い声をだす。

「学生たちは空想の王国を、彼らにとってのにしようとしたんだ。彼らは伝統を細部まで作りこみ、“緑の王国”を確固たるものにした。そしてそのイメージを全校生徒に植え付けた。空想は空想でも、みなでそれを共有すれば、それは現実になるからね」


 榊葉はふと考え、そしてこちらを見た。

「そうだな――たとえて言うと“お金”だ。ただの金属や紙切れを、おれたちは価値があると信じている。そのイメージを世界中で共有している。だから、その価値は現実になる。ただの紙切れと金属で、実際にいろんなモノと交換できるようになる。――こんな風に、イメージの共有は、案外すごい力をもっている」


 聞きながら、塔子はふと詩織の言葉を思い出した。



『夢の共有が、すなわち王国の成立だと言ってもいいのじゃないかしら』



 同じことを、たしかに彼女も言っていた――。


 榊葉はにやと笑む。

「――こうして緑の王国は、生徒たちの脳裏に鮮やかに起ちあがった」


 ――ここは緑深き王国である。松高生の、松高生による、松高生のためだけの王国。生徒たちのなかから選ばれた偉大なる王が、国をおさめ、民を良き方向へ導いている――


「そんな幻想が、ついにまかりとおるようになったんだ」

 けれどね。榊葉は人さし指を立てた。



“いったいなぜ、こんな王国の夢をみせるのか?”

 その答えは、だれにもいっさい教えられることはなかった。



「とても不可解なことだ。新しい伝統は、こんなに緻密で周到だというのに。その王国の由来はまるで語られない。――いまでさえもわからないんだから、徹底している。だからおれは思ったんだ」




 この伝統は、その意義や目的を、のではないか。




 おれはね、と静かに榊葉は言った。

「“語られない”ということこそ、すべての答えなんじゃないかと思う。これこそ、戦後の伝統の白眉はくび。最も重要な部分だと思うんだ」


「……まったくもってわかりません」

 柊一が憮然ぶぜんとして榊葉をにらむ。

 榊葉は小さく笑んだ。

 つまりね――。



「意義や目的がいっさい語られない。ということは、その意義や目的とは――ものなんじゃないか、と思ったんだ」



 塔子はまばたきをした。考えつきもしなかった。

 柊一も同じように思ったのか、すとんと押し黙る。


 榊葉のまなざしは静かだった。

「だから――言葉にできないから、彼らは代わりにを作った。言葉にできないものを容れる器を」



 それこそが――“緑の王国”だったんじゃないだろうか。



「言葉にならない想いが、たっぷりと満たされたおうこく。その中で暮らすことで、伝統の目的が、しぜんと解るようになっているのではないか。

 それこそ、退寮式の日。トンネルをくぐって外に出る頃には、伝統のすべてが身をもって解るようになっている――。そんなシステムを構築したのではないか。そういう風に、伝統を作り変えたのではないか……。おれは、そう考えたというわけ」


 明るい瞳で彼はわらう。

「これが、伝統についてのおれの持論」


 おだやかな榊葉の声が部屋に落ち、それがふしぎな余韻をつくった。

 塔子はじっと彼の言葉を咀嚼そしゃくする。


「……それが本当なら」

 なんてまわりくどいんだ。柊一がぶっきらぼうに言う。

 ふふっと榊葉が笑った。そうだねえ、と鷹揚おうように返す。

「いまはもう、わかりやすい答えがなくなった世界だからねえ」

 塔子は目をあげた。

 榊葉は優しい顔つきになる。


「おれは、戦前より、戦後の伝統の方が好きだよ。学生たちの執念の結晶。そうまでして残そうとした獅子と王国。そこにとても興味を惹かれる」


 塔子はしばし悩み、おずおずと口を開いた。

「会長は……」

 榊葉がこちらを見る。

「会長自身は、伝統の意義を、もう予想できているんですか」


 うん。あっさりと榊葉はうなずいた。

「予想はあるよ。最終学年だからね。緑の王国で二年も暮らしているんだ。だから、こんな持論を立ててみることができるんだ」

「――それは何ですか」

 すかさず柊一が口を挟む。

 榊葉は首をふった。

「言っただろう。言葉にできない。むりに言葉にすると、とても陳腐に聞こえると思う」


 大丈夫。きみたちにも、そのうちきっとわかる。

 彼は笑む。


「種が発芽し、やがて森になるように。そんな風に、解ってくるはず」



 しん、と執務室が静まった。

 少しのあと、榊葉はおもむろに立ち上がり、背後の窓を開けた。


 薄青い世界。群青の夜が迫っている。

 すっきりと一直線にのびるアカマツの幹に、濃い影がはりついている。

 やがてふうわりと優しい風が、塔子のもとに届いた。その澄んだ香りを、深く吸いこむ。身体の内側が洗われるようだった。はりつめた緊張が、少しだけ緩む。


「――緑の王国とはよく言ったものだ。この景色も、王国のイメージを掻きたてる重要な要素だろうから」

 窓の外を見つめて榊葉は言う。

「篠崎さん」

 彼はゆっくりとこちらにふり向いた。


「きみはおれに“予想はあるのか”と訊いたけれど。でも、たぶん――その答えにいちばん近いところに、きみがいるはずなんだ」


 心臓が大きく跳ねた。

 目を見開いて、塔子は彼を見上げる。

 林立する松林を背に、榊葉は神妙な顔つきで佇んでいる。


「この伝統において最も重要な身分は、やはり“獅子”だ。きみがどうしてその“獅子”に選ばれたのか。その選定は、この伝統の真髄しんずいにつながっている。きみが選ばれた理由こそ――王国の謎を解き明かす、最大の鍵になる」


 ――篠崎さん。彼が静かなまなざしで塔子を呼ぶ。

 塔子の胸が早鐘を打った。



 とうとう――。

 とうとう、このときが来た。




「次代の獅子になってくれないだろうか。謎を解き、伝統を担うひとりとなってくれないだろうか」

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