7 獅子の娘(2)


 塔子は動揺のあまり、声を発することすら忘れた。

 自分の平凡な人生に、まったく関わりがないはずの言葉。それが雨あられのように降ってきた気分だった。


 獅子の身体? 獅子の娘? 次の王? 

 わたしが王になる? ――そんな馬鹿な。


 ふふ、と榊葉は小さく吹き出した。

「考えていること、全部顔に出ているよ。ふたりとも」

 ふたり。どうやら柊一も百面相をしているようだ。しかしいまの塔子にはどうでもよいことだった。


 何も返答が得られないことを見てとると、榊葉はふたたび口を開いた。


「そうだな、鬼ごっこはわかるだろう? 鬼が、逃げまわるだれかをつかまえると、つかまえられたそのひとが鬼になる。トンネルで起こったことはまさにこれさ。――触れる、とはある種の呪術だ」

 彼は三本指を立てた。


「篠崎さん、きみは獅子に三度触れられた。その数字にもじつは意味がある。獅子は三度触れることで、三つのものを与える。一度目で、獅子の記憶を。二度目で、獅子の姿を。三度目で獅子の血潮ちしおを――。すべて与えられたひとは、獅子の身体を得る、とされている」


 塔子は思わず自分の身体を見下ろした。

「もちろん、儀式的な意味でね」

 くすりとまた榊葉が笑う。


「獅子の身体を得る――それはつまり、獅子の血を継ぐ者になったということ。意味を返せば、次代獅子、次代の王位継承者の資格を手に入れたということだ。その段階にあるひとのことを、おれたちは“獅子の子”と呼んでいる。きみは女性だから、“獅子の娘”だね」


 榊葉は柔らかく笑む。


「昨日、獅子はこの手続きでもって、きみを“獅子の娘”にした。自分の後継者に選んだんだ。きみはこの百年王国の――緑の王国の女王になることが約束された。これはとても名誉なことだよ」


 塔子は何度もまばたきをした。 

 頭がくらくらしてきた。めまいさえ覚えそうだ。言われていることの半分さえ理解できない。名誉なことだなんて、到底思えるはずもない。


 この学校はいったい何なんだろう。みんなして、ファンタジー小説にかぶれたんだろうか? こんな手の込んだ妙なしきたりを、大まじめな顔をして受け入れているなんて。


「あのう……」

 浅く呼吸をして、ようやく呟く。

「冗談じゃないですよね」

 ずいぶん間抜けな声がでた。

「もちろん」

 榊葉は肩をすくめる。

「これが冗談なら、おれはウソつきの才能があると思うよ」


 塔子は背後を振りむいた。わらをもつかむ気分で柊一を見る。彼は塔子と同じくらい、理解に苦しむ顔をしていた。しかし目が合っても、一切口出ししない。他人事だと思っているのか、塔子が受け答えするべきだと控えているのか、それはわからなかった。

 しぶしぶ榊葉に顔をもどす。眉尻は下がるばかりだ。


 どう考えても、からかわれているとしか思えない。


「まあ、なかなか信じられない話だよね」

 榊葉は苦笑する。優しげな瞳でこちらを見る。

「篠崎さん、ルームメイトからちゃんと聞いたかい? ――王国はどうしてはじまったのかって」

 ふいに水を向けられたので反応が鈍った。一拍置いて、塔子は頼りない声をだす。


「“どうして”かはわからないと、詩織さんにきっぱり言われました。でも……王国の由来については、何となく、少しだけ……」

「鷹宮は?」

 柊一は首をふった。

「おれも、大したことは何も」

 そう、と榊葉は笑みを収めた。



「――この学校ができたのは、大正後期。関東大震災の数年後。大正という時代が、いよいよ終わりを告げる頃だった」

 よどみなく彼は話しだす。




 ――創立者の川上かわかみ喜助きすけは、西洋かぶれと評判の人物だった。貿易業で財をなした彼は、欧米人との交流も深く、住まいや暮らしもすっかり洋風にしてしまうほど、西洋文化を愛していた。


 川上は外の世界を知っていた。また日本の国の小ささを知っていた。知っていたから、日本の若者の教育に力を入れようとした。


 モデルにしたのは、英国のパブリックスクール。国を背負って立つリーダーを育成する学校――それを日本でもつくりたいと考え、 “松風館学校しょうふうかんがっこう”を創立した。瀟洒しょうしゃな洋風建築の校舎。リベラルな校風の、全寮制の男子校。英国やドイツから教師を招いて、外国語教育にも力を入れた。


 たいそうモダンな学校だと、もてはやされていたようだ。そこで学ぶ学生の姿をひと目見ようと、こっそり敷地に入る一般人も少なくなかったらしい。


 そんなハイカラな学校だから、入学してくる学生も、一風変わった者が多かった。

 賢く、志は高く、それでいて古い価値観にとらわれない者――。




「だから、ここで学生運動が起こるのは当然。時間の問題だったわけ」


 きょとんとする塔子に、榊葉は肩をすくめる。

「時は大正の終わり。民衆が選挙権を勝ちとり、国は治安維持法をいた、混沌の時代だ。華やかで、きな臭い。悪い予感がぬぐえない時代。そのあとの血なまぐさい歴史は……わかるだろう? そんな戦前の日本で、この学校は先進的すぎた。時代はまだまだ松高に追いついていなかったんだ。学生たちは、そんな社会にいきどおったし、声をあげずにはいられなかった」

 ――彼らは。榊葉はこちらをじっと見る。


「もう、自由の風にあたってしまっていたから」


 豊かな土壌にまかれた種は、芽をだすのが早いのだろうか。

 創立から数年も経たないうちに、松高に初めての学生運動が起こった。――元号は変わっていた。


「さて、ここからはきみたちも聞いているだろう」

 榊葉がにこりと笑う。


 それは松高生全員を巻き込んだ、大規模な学生運動だった。


 先導していたのは、わずか十七歳のリーダー。彼の弁舌は鋭く、魅力にあふれて、その口から語られる理想はすばらしいものだった。学生は彼に心酔し、多大な影響を受けた。まさしくカリスマだった。

 しかし学生運動には大きなリスクがともなう。


「とりわけ首謀者は代償が大きいんだ。捕らえられれば厳罰がくだる。退学どころでは済まないこともよくあった。それをおそれた松高生はね、リーダーを守るために一計を案じた。――だれが首謀者かわからないように、彼をことにしたんだ」


 ――“外”の人間に悟られないように。


 学生たちは、公の場でリーダーを担ぎあげることはやめた。むしろ彼のことなど目もくれず、まったく関わりがないかのようにふるまった。いつどんなときも、彼の名は口にしないようにした。文書にも一切残さなかった。


「とくに彼を話題にするときには、細心の注意が必要だった。どこで聞かれているかわからないからね。学生たちは、リーダーを名前の代わりにこう呼ぶことにした」



 “獅子”。

 松風館の校章――金獅子から取った呼び名。学校の象徴という意味をこめた敬称。



「守り方はいろいろだね」

 榊葉は口の端をあげる。


 学生は徹底的に秘め隠すことで、獅子を守っていた。

 それが彼らなりの、忠誠の示し方だった。


 そして獅子は、学生たちの精神的な柱であり続けた。ひみつの場所で、彼らは幾度となく獅子の話を聞き、計画を企てた。獅子は表に出ない。だからストライキやデモを起こすときには、口伝えに情報を広めた。


 ハッと顔をあげると、榊葉はうなずく。

「そう、これが“獅子の伝言”のはじまり」

 塔子は思わず胸ポケットに目をやった。そこに差しこまれた緑のペン。――塔子が伝言を受けとったあかし


「伝言はアナログな方法だけど、とても効率的だったらしい。小さな学校だし、なにせ口コミというものは、いまだ大きな力を持っているから」

 榊葉は眉をあげる。


 伝言によって周知されたデモやストライキは、首尾よく、計画的におこなわれた。

 デモには抗議者の品性がよくあらわれる。無秩序で暴力的なものがすべてではない。このときの抗議活動は――松風館初めての学生運動だったにもかかわらず――とても理性的であったらしい。


「学生たちをまとめあげた、リーダーの資質によるところが大きいだろうね」

 榊葉は目を細めた。


「彼らにとって、初代獅子はまさに、獅子そのものだったんだろう。知性と勇気をもって、敵に雄々しく飛びかからんとする獅子――。だから彼らの心のなかに、イメージが浮かぶのは当然だったのかもしれない」



 ――ここは緑深き王国である。松高生の、松高生による、松高生のためだけの王国。学生のなかから選ばれた偉大なる王“獅子”が、国をおさめ、民を良き方向へ導いている――。



 塔子はつばを呑みこんだ。

 根深さを感じた。この伝統は、ただの遊びではないのだ。


「さて、ここで問題です」

 さきほどの神妙さとは打って変わって、榊葉はいたずらっぽく笑った。

「はたしてこの学生運動は、成功したでしょうか?」

「え?」

 唐突なクイズに、塔子は目を大きく見開いた。

 にこにこと彼はこちらを見ている。解答を求められると思わず、うろたえてしまう。

「鷹宮はどう?」

 彼は柊一も見やる。


 しばし沈黙があった。こっそりふり返れば、不機嫌そうな柊一の顔が目に入る。押し黙っていた彼は、ようやくむっつりと声をあげた。――そもそも。


「これはいったい何の学生運動だったんですか」

「あれ、言わなかった?」

「……聞いていません」

 それは失礼、と謝るわりに悪びれた様子がない。榊葉は、柊一のむっとした表情を愉快そうに眺め、そしてさらりと述べた。


「外国人を排斥はいせきしようとする圧力への、抗議運動だったらしいよ」

 

 排斥する。――追いだす。

 塔子は思いきり顔をしかめた。強く頭を殴られたような気がした。

 外国人を国から追い出そうとする風潮に抗議する。これがそんなに先進的なことなのか。

 がく然として、そして妙な感慨をおぼえた。そんな時代だったのか。――そんな時代があったのか。


 塔子がショックを受けている間にも、柊一は冷静に黙考していた。

「……失敗したんですね」 

 少しの間をとって答える。

「よくできました」

 榊葉が苦く笑む。

「――はたしてこの日本で、勝利した学生運動というものはあるんだろうか? 松高のこの抗議活動も、とてもよく健闘したけれど……失敗に終わった」


 松風館はもともとリベラルな、な学校だ。当時の治安警察はかねてから、学校自体に目をつけていた。学生運動の勃発ぼっぱつを聞きつけ、彼らはこれを好機と学校に踏みこもうとした。


 警察の介入を、当初松風館はかたく拒否した。“学び舎は権力に左右されない、自由な場所であるべき”だと。その理念に基づいての行動だった。


 けれど警察の勢力は日に日に増して――とうとう学園に押し入るときがきた。


「闘争最後の日。検挙をおそれた学生らは、トンネル――川上隧道かわかみずいどうに逃げこんでいた」

 塔子はドキリとして榊葉を見た。

 トンネル。


 榊葉はもちろん、こちらを見つめている。

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