第二章 獅子の娘
1 王国の夢(1)
「元気にしているの? そっちはどんな感じ?」
「……すごく変な感じ」
ぶっきらぼうに塔子がつぶやくと、母
受話器をとる塔子の背後では、女生徒たちの明るい声が響いている。午後八時の寄宿舎は、最もにぎやかな時を迎えていた。
寮監室の受付カウンターに塔子はいた。そこに設置されている固定電話が、外部への唯一の連絡手段である。生徒達が電話をする際には、寮監に断りをいれなければならないし、外部からの連絡も必ず寮監を経由しなければならない。
自主自律の精神を重んじるため、規則はそう多くない学校であるが、この手の事柄にはひどく厳しかった。
今日は母から連絡を入れてきたため、塔子は放送で呼び出され、電話を取ったのだった。
「なあに、それ。どういうことなの?」
「……なんか、今日変な伝統行事があって」
「行事?」
塔子は少し黙り込んだ。
入寮式から数時間しか経っていないのに、ずいぶん昔のことのように感じられる。歓談スペースで寛ぐ少女たちを横目で見ていると、なおのことそう思えた。
食事を終え風呂に入り、ジュースを飲みながら他愛ない雑談にふける少女たち。彼女らはもうすっかり日常に戻っている。あの出来事は夢だったのじゃないだろうかと、不思議に思えるほどだ。
塔子は壁に背を預け、片足を軽く持ち上げた。膝に貼った真新しい絆創膏に血が滲んでいる。ひりひりと痛む、生々しい傷。トンネルで転んだときにできた傷だ。
――夢じゃない。
恐怖がまざまざと蘇り、塔子は身震いした。
「どうしたの?」
聡美の怪訝な声がし、現実に引き戻される。
「ごめん、あのね」
一拍置き、塔子はむっつりと答えた。
「なんでもない」
「ええ? 言いかけていたじゃない。なんなのよ、気になるわ」
「……言ったらいけないんだって。決まりなの」
「おかあさんにも言ったらいけないの?」
「だめなの」
本当は洗いざらい話してすっきりしてしまいたかった。誓約も、榊葉との約束も、外にいる母になら言っても問題ないのではないか。そう思えたけれど、言えなかった。今日の出来事をなんと説明すれば良いかわからなかったし、共感してもらえるかも怪しかった。それにどういうわけか、
「ますます気になるなあ」。聡美はほがらかに笑った。
「まあ、楽しそうな学校でよかったじゃない。森の中の素敵な校舎に、寄宿舎。古いしきたり。海外の小説みたいね」
「そうかなあ? そんなにきらきらしたところじゃないよ」
「じゃあどんな風なの?」
「もっとおどろおどろしいというか……」
「なあにそれ」
聡美がくすくすと笑う。その柔らかな声に、塔子は表情を緩めた。小さく安堵の息をつく。
「おかあさん」
「なあに」
「ありがと」
親元にいたときには恥ずかしくて言えなかった言葉が、するりと口をついて出た。受話器の向こうが静かになり、数瞬のあと、聡美の明るい声が返ってくる。
「なによ、やけに素直じゃない」
「今日だけだよ」
可愛くないわねえ。聡美がまた笑う。
「塔子」
「ん?」
「友達は、できた?」
さりげない声だった。
「……ふたり」
「そう。よかった」
「うん」
「……辛いならいつでも帰って来なさい。お母さん、ひとりで寂しいんだから」
塔子が言葉に詰まると、「冗談よ」と聡美が笑う。
「あなたの決心はわかってる。行かなきゃいけなかったってことも。だけど、自分を追い詰めすぎないようにね。早く大人になろうとしなくていいの」
「うん」。塔子は小さくうなずいた。ふいに込み上げるものを押しとどめる。
「塔子はわたしの自慢の娘よ。忘れないで」
ひどく優しい声音で、聡美は言った。
*
「ご両親から?」
寮部屋で寝間着に着替えていると、背後からふと声がかかった。塔子はボタンを掛ける手をとめ、ルームメイトに振り返る。
彼女は相変わらず、根が生えたように勉強机にかじりついたままだったので、空耳かと思った。塔子がきょとんとしていると、彼女――二年生の
「電話。ご両親からだったの?」
言いながら、詩織は銀縁の眼鏡を外す。まぶしそうに一重の目を細め幾度か瞬きしたあと、こちらをひたと見つめた。
塔子は内心驚いた。意外だった。詩織がきちんとこちらを向いて会話をしようとすることは、今までほとんどなかったのだ。
一、二学年が暮らすこの寄宿舎を「
だからこそ、四月に双葉舎の生徒達が最も気がかりに思うのは、同室のパートナーのことであった。同室のパートナーが「あたり」か「はずれ」かによって、この一年の寄宿舎生活が決まってしまうからである。
塔子はといえば、じつのところ「はずれ」ではないかと薄々思いはじめていたところだった。詩織は身の回りのことなど手際よく教えてくれはするが、いたって事務的でとりつくしまがない。ふだんは勉強しているか、本を読んでいるかのどちらかで、塔子と雑談することはほとんどなかった。
つんとした
いまの唐突な質問も、塔子には意図を汲むことが難しかった。
「え、と……そうです」
少し詰まり、塔子が戸惑いながら答えると、「そう」と低く静かな声が返る。
詩織は無表情でしばし沈黙し、また口を開いた。
「よく連絡があるわよね」
「……はい」
「大事にされているのね」
「というより……心配、しています。わたし、こんな風なので……」
小さな声が部屋に落ちる。
詩織はわずかに眉をあげた。気まずい顔をした塔子を、無遠慮に上から下へ眺めまわす。きまり悪く塔子が身じろぎすると、詩織はやがてこちらの視線をとらえた。
そして、ふっと、小さく笑った。
「ああ、ごめんなさい」
一瞬で笑みを消し、詩織は続ける。
「ご両親と仲が良くて羨ましい、って言いたかっただけ。気を悪くしないで」
「……」
塔子は口元を引き結んだ。曖昧な表情が顔に浮かぶ。
「あなたのご両親、とても優しいでしょう? 愛されて育ったって、わかるわ」
いえ、と口ごもりながらつぶやくと、詩織はじろりとこちらを見やる。
「謙遜しなくていいじゃない」
「そういう意味じゃ。あの……」
「兄弟はいるの?」
「……いない、です」
「一人っ子なのね。だったらなおさら、あなたが可愛いでしょう」
「……あの」
「ご両親、寂しがっているんじゃない?」
「両親じゃないんです」
塔子は一息に遮った。思った以上に声が通り唐突に響く。詩織が目を見開くのを見て、塔子は慌てて顔を伏せた。
「……父親は、いないんです」
ためらいがちに声をだす。
「言わないでおこうと思ったんですが……でも、隠すのも違う気がして」
返答はない。視線をあげれば、じっとこちらを窺う詩織の目とぶつかる。塔子は慌てて弁解した。
「あ、気にしないでください。あくまで、本当のことを伝えておこうと思っただけで、それ以上の気持ちはないんです。昔から
それに詩織の誤解を早く解いておかないと、居心地がもっと悪くなる。それは避けたかった。
ひとりで言葉を重ねていると、だんだん恥ずかしくなり、顔が赤らんでくる。
じゃあ、おやすみなさい。畳みかけるようにして塔子は話を切り上げた。
詩織の顔を見ず、二段ベッドの階段に足をかける。すると思いがけず背後から静かな声がした。
「一緒ね」
「……え?」
振り返れば、詩織の黒々とした瞳がこちらを見つめている。
「一緒ね、と言ったのよ」
彼女は視線を逸らさなかった。
言葉を失う塔子を見て、詩織は微かに口の端をあげる。その笑みは喜色にも皮肉にも見えた。
「なんだ、そうだったの。わたしたち同じだったのね」
そう言うと、ふと彼女はひとつ結びにしていた髪をほどいた。きつく束ねた髪ゴムをゆっくり引き抜くと、細い黒髪が胸にこぼれる。それを何度か梳くうちに、彼女は見る間に女になった。表情に乏しい顔、青白い肌さえ翳りを帯びて、匂い立つものがある。
眼鏡を取り髪をほどくだけで、こんなに変わってしまうものか。
そんな彼女をはじめて正面から見、塔子は思わずどきりとした。
「詩織さん……」
組んだ足に
「気付かなかった」
ぽつりとつぶやく。
「こんなに近くにいたなんて、気付かなかった。――ねえ、わたしたち姉妹になれるかもしれないわね。あなたなら、共有できるものがあるのかもしれない……。彼みたいに――」
彼?
塔子は顔をしかめた。
詩織は意味ありげな視線を送る。
「彼は“父の息子”。わたしたちは“母の娘”。同じ種の卵の中にいて、その殻を、なかの世界を知っているかもしれない、という話」
「何のこと、ですか」
よくわからない。それなのにどういうわけか、鼓動が早まる。
塔子の顔色が変わったのを見て取り、詩織はにこりと笑う。
「ほらね」
開け放しの笑み。
塔子が驚いて見つめると、彼女はその笑みを刷いたままつぶやいた。
「気を付けなくちゃね。卵のなかで死なないように」
時計の秒針の音が部屋に響く。
詩織はおもむろに銀縁の眼鏡をかけなおした。そしてゆっくりと伸びをし、席を立つ。
「悪いのだけれど、今夜はもうひとつ話があるの。こっちが本題」
塔子は強張った顔で詩織を見た。彼女はすっかり元の調子に戻っていたが、どこか以前よりも和らいで見える。
困惑して立ち尽くしていると、彼女は座るよう促した。
「今日中に話さないといけないのよ」
「……何を、ですか?」
詩織は小さく肩をすくめ、こともなげに言った。
「緑の王国について」
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