5 伝言(2)
放課後の中央広場は、生徒であふれている。
その名が示すとおり、学園の敷地の中心部に位置する広場だ。グラウンドひとつ分ほどの大きさで、ぽっかりとひらけている。柔らかな緑の芝がいちめんに敷かれ、真中にはクスノキの巨樹が一本そびえていた。
樹齢およそ千年。
もとは
クスノキの木陰には複数のテーブルベンチが設置されている。そこで生徒達は思い思いに憩い、その姿が学園の日常風景となっていた。
夕暮れの光のなかで、葉擦れの音と談笑の声が混ざりあう。
そんな和やかな場で、塔子は立ちつくしていた。
自分の表情がどれほど張りつめているか、まるで自覚していなかった。
見つめる先は、くつろぐ生徒たちだ。
けらけらと騒がしい上級生の群れ。こっそりと相談しあう同学年の子。芝に寝ころがる男子たち。本を読む少女。静かにスケッチをする美術部員……
いつもとなんら変わらない日常風景。
けれど、ちがう。目を凝らせば、注意を払って観察すれば、それがわかる。
髪に服に肌に持ち物に。なにげなく、そ知らぬ顔で、あたりまえのように。彼らは。
緑を
――たまたま帰り道に広場を通っただけだった。横切ろうとして、男女の二年生のグループを見かけた。一番騒がしくて、傍若無人な、塔子の苦手な集団だった。嫌だな、と思いながら通り過ぎようとしたとき、ふと目に入ったのだ。
茶色の髪をした男子が、左手首に緑のラバーバンドをはめていたのを。
ぎょっとして目を走らせれば、マスカラをつけた女子が深緑のカーディガンを羽織っている。その横の女子は、小指にパステルグリーンのマニキュアを付けていた。
どうして。伝統なんて守りそうにない人達なのに。
思わず周囲をぐるりと見回した。読書にふける少女の、腕時計の文字盤は薄緑だった。ボールを転がして遊ぶ男子のシャツは原色の緑。スケッチをとる生真面目な生徒の、前髪にさしたピンは暗緑色……。
あちらの生徒も、こちらの生徒も、広場にいる人全員が緑を纏っている。
ぞっとした。
教室で見た光景ではあるが、学年も性格も個性も違う面々が同じ緑を、何食わぬ顔をして身に着けているのは、また違った衝撃だった。
“実際にやってみたらあなたもわかるわ。どんな雰囲気でゲームがおこなわれるか。全校生徒はどんな風にこれを受け止めているか。王国とは何なのか”
ふと詩織の言葉が思い出され、塔子はごくりと唾をのんだ。
つまりこういうことだろうか。
伝統に対する生徒たちの温度。それはけっして浮ついたものでも、熱いものでもない。けれど白けているのでもない。そういう体温で、生徒たちはひっそりと共有しているのだろうか。
――ひとつの伝統、ひとつの王国を。
塔子は自分を抱きしめるようにして腕を組んだ。
涼しい夕風が吹いている。クスノキの樹影がつま先で踊っている。
誘われるように樹を見上げた。笑いさざめく生徒たちをすっぽりと覆う、クスノキの巨樹。
幹は太く、樹高は高く、樹冠はこんもりと丸い。枝々は曲がりくねっており、けれど最後にはどれも天に向かう。めぐみの光に触れようと、無数の緑の手を伸ばすかのようだ。
“挑戦の樹”っていうんだっけ。
塔子はそう思い返し、ハッとして樹の根元を見やった。太い根の張る焦げ茶の地には、いまのところ何もない。
やっぱりいないか、挑戦者なんて。
複雑な気分で、昨日の話を反すうする。
*
昨夜。入寮式の夜。詩織から、獅子の伝言について説明を受けたあとだった。
『――もし、獅子の伝言が横暴なものだったら? それもしたがわなければならないのですか?』
塔子の問いに、彼女は首を振ったのだ。
『そのために審判がいる。調停をするわ。――獅子の決定に不満があるとき。審判を介して、緑の民から獅子に不服を申し立てることができる。これを挑戦権と呼んでいる』
『挑戦権?』
詩織は首肯した。
『これをおこなうには手順がいる。――中央広場にクスノキの大木があるでしょう? これを一枝折り、樹の根元にまっすぐ突き立てるの。これで“獅子に不服あり”とつたえ、挑戦の表明をする。すると審判がその表明を審査し、有効の場合、挑戦が許可される』
『……挑戦に勝てば、獅子の決定をくつがえすことができる、ということですか?』
『そうよ』。詩織はもっともらしくうなずいた。
『挑戦の方法は二通りある。――協議、もしくは直接対決。そのどちらかを挑戦者が選ぶの。協議の場合は、審判が仲介となり、挑戦者と獅子が話しあう。直接対決の場合は、審判がその抗議内容を考慮して、最適な対決方法を決定する』
『協議はわかりますけど……対決って、どんなことをするんですか』
『わからないわ』。きっぱりと詩織は告げた。
『抗議の内容によって、いろいろと変わるものみたい。すべからく知的ゲームだと聞いているけど、ずいぶん長い間、することはなかったから……』
『そうですか……』
『ひとまずそういう方法がある、ということだけ覚えておいて。――それから』
詩織は声をいちだん低くした。
『気を付けてほしいことがある。もしこの手続きを踏まず、獅子に反抗した場合は、王国の反逆者と見なされるわ』
塔子は目を丸くした。過激な言葉だった。
『反逆者は“赤の民”と呼ばれている。――誓約の三つめはわかるわね?』
戸惑い気味に答える。
『……“赤の民に染まることなく、その影響も受けず、あらゆる脅威に屈しないこと”……』
『そう。もし赤の民になったら――』
詩織はじっとこちらを見つめた。
『誓約の四つめがおこなわれるわ。つまり』
――罰を受ける。
彼女は重々しく口にした。
*
いったい、なんてところだろう。
塔子は疲れを感じて大きなため息をついた。
深みにはまれば、はまるほど。おそろしいものがずるずると引き出されていくような気がする。
それに――。
塔子には、もうひとつ大きな不安があった。
トンネルにひそむ獅子。
どうしてひそんでいたんだろう。どうしてわたしの肩を叩いたんだろう。
その理由が、いまだわからない。
強い風が吹いた。クスノキが体を揺らす。夕方のオレンジの光が、枝葉の合間を縫って射しこんでくる。塔子は手で
どうやら迷ってしまったようだ、とふと思った。
深い森の奥に、迷い込んでしまったようだ。
「……篠崎、さん?」
ふいに後ろから、低く小さな声がした。
我にかえって振り返ると、眼前にほっそりとした青年が立っている。姿勢のよい、端正な佇まい。彫像のように整った造作の顔つき。
塔子はあっと驚いた。
一年生の間では――いや、もはや全校でも、知らない人はいないはずだった。ずば抜けて優秀で、きれいで、氷のようにつめたい。
それはだれあろう、
*
彼は一部の生徒から“氷の王子”と呼ばれている。
古い名家の生まれで、定期試験では上位三指に入るほど賢い。
白い頬、尖った
しかし話しかけても、その表情に変化はみられない。何を
彼のことを、男子の多くは“いけ好かないやつ”だと嫌っている。だが女子は――上学年でさえも――彼に好意を寄せる者が多かった。
さながら
だから、賞賛と
塔子は振りかえり、ただ仰天して彼を見た。
まさか柊一から声をかけられる日が来るなんて、思ってもみなかった。
「篠崎、さん? ――
夕陽に照らされ、陰影を帯びた美しい顔が、こちらを向いている。
柊一はまぶしげに目を細めていた。木漏れ日のあたる場所に塔子がいたので、よく見えないのだろう。察して塔子はあわてて木陰に入った。
「……は、はい」
どぎまぎしながら、微かな声で返答する。
彼は目をまたたき、ようやくこちらをまともに見た。無感情な、ひややかなまなざし。物憂げに塔子と目を合わせ――瞬間、動きをとめた。
切れ長の瞳が大きく見開かれ、みるみるうちに面ざしに驚愕が広がる。
「――――さん……?」
思わずこぼれたような、彼の微かな声。最初の言葉は聞き取れなかった。え、と塔子が顔をしかめると、柊一は一歩後ずさった。
血の気が引き、怯えの表情が浮かんでいる。
まるで、幽霊でも見てしまったかのような態度だった。
塔子はぎょっとした。声をかけられたのは塔子だというのに、まさか自分以上に驚かれるなんて、思いもしない。
――わたしの顔、なにか変だろうか。
もともとない自信がもっとしぼんで、目を伏せる。
すると柊一はびくりと肩をふるわせた。思わず見やれば、信じられないものを見たような顔がある。
明らかに様子がおかしかった。
塔子は眉根をさげた。
「あの、だいじょうぶ、ですか」
「……え?」
ハッとしたような彼の顔。
「その……」
塔子は言いよどんだ。
少しの間があった。彼は顔を背け、幾度かゆっくりと呼吸をした。ぐっと拳をつくり、思い切ったようにこちらを振りかえる。するともう、いつものつめたい彫像のような顔つきで、取り乱した様子はどこにもみられなかった。
「……そこの女子から聞いた」
だしぬけに言われ、塔子は目を丸くした。
「は?」
柊一が親指で指した方を見やれば、その先に五人組の女子のグループがいる。同じクラスの子だ。皆こちらを、息をつめるようにして見守っていた。篠崎塔子はだれかと、柊一が訊いたのだろう。
視線を感じて周囲を見渡せば、広場にいる女子も、ちらちらとこちらの様子をうかがっている。
注目されている――。塔子はひやりとした。柊一が話しかける女子なんて、そう多くないのだ。
柊一は腕をおろした。つられて塔子は彼に目を戻す。
彼の切れ長の瞳とかちあった。真っ黒な、墨色の瞳。白く美しい面ざし。
「――話があるんだ」
柊一は神妙に告げた。
塔子は、どきどきと鳴る心音を聞いていた。
*
ふたりは広場を抜けて、林道に入った。
夕暮れの林には静けさがある。風が吹いても、梢が鳴っても、気層の底でしんと静寂を保っているような、そんな気配。
塔子は柊一につれられるままに歩いていた。
緑の道が続く。彼の背に飴色の木漏れ日が揺れている。線の細いその背中は、どこか頑なで、儚げに映る。ふと気をゆるめば、緑のなかに消えていってしまいそうで、塔子をハラハラさせた。どうしてそんな印象を抱くのか、さっぱりわからない。けれど彼にはそんな危うさがあった。
「――どこ?」
ふと、ぼそりと彼がつぶやいた。塔子はまたしても聞き取れなかったので、まばたきをする。
「出身はどこ」
今度はきちんと、柊一は言い直した。
「その……東京です」
「東京のどこ?」
区まで告げると、柊一はうなずいた。
「そう」
間を置き、また静かな声がかかる。
「どうしてここに?」
「え?」
「都内ならいくらでも良い学校があるだろう」
「……」
「どうして実家から離れたんだ」
淡々としていたが、まるで批難するような口ぶりだった。
「そのう、えっと……」
言葉を探しながら、塔子は既視感におそわれた。同じような場所で、同じことを、ついこの前話している。――坂本良司に。
これはいったい何の再現だろう?
塔子は唇を湿した。なぜ柊一がそれを訊くのかはわからない。けれどあのときのように、言動を間違えてはいけないと思った。
時間を取ってよく考える。そしてゆっくりと息を吸いこみ、口にした。思った以上に弱々しい声が出た。
「――行かないといけないって、思ったからです」
柊一がぴたりと立ち止まり、こちらを見る。塔子の表情を確認するように視線を投げた。
葉擦れの音がする。
「……ふうん?」
返ってきたのは、つめたい声だった。
それだけだった。
彼がまた前を向いて歩きだす。思いをこめて放った一言だっただけに、塔子は傷ついた。
うつむいて林道を歩けば、彼の足取りが荒いことに気がついた。
そっと見上げれば、彼の雰囲気も硬くなっているように思える。
もしかして怒ったのだろうか、とふと塔子は考えた。けれどどうして怒っているのか、それはさっぱり見当がつかなかった。
柊一はそれ以上話す気がないらしく、ふたりで黙々と林道を歩む。
林の奥へ迷いなく進む彼の足取りで、塔子はだんだんと理解していた。
――わたしに話があるのは、彼じゃない。
そしてこの道には覚えがあった。つい最近通ったばかりで、忘れるはずのない道だった。
林道を抜けると、こぢんまりとひらけた場所に出る。大きな銀杏の木がどんと腰をすえるその先に、“緑の館”が見えた。
入寮式の終着点。――緑風会執行部の活動拠点である。
塔子はおずおずと建物を見上げた。
木造二階建ての小さな洋館だ。ごく私的な個人の邸宅といった風情がある。外壁には緑の蔦がおびただしく這っており、ミステリアスな雰囲気を醸していた。まさに館の名にふさわしい有り様だ。
美しい洋風建築なので、学校設立当初は、外国人教師の邸宅として貸し与えていたらしい。時代を経て、いま緑の館は、緑風会執行部のものになっている。
当時の面影をのこす、県の重要文化財級の建物だが、役員たちに平気な顔で使われている。それだけで、校内における緑風会執行部の権威が知れるようなものだった。
塔子は胸に手をあてた。鼓動が速くなっていく。
柊一はこの館の一員だったと、ここへ到着するまでに塔子は思い出していた。入寮式のときに、紗也加が教えてくれたことだ。
――ならば用がある相手など、ひとりしかいないじゃないか。
心を落ち着かせようと深呼吸をする。これから話される内容がさっぱりわからないから、不安でいっぱいだった。
そんな塔子に一瞥もくれず、柊一はずんずんと緑の館へ進み、勝手知った様子で扉を開けた。玄関でスリッパに履き替えると、何も言わずになかへと進んでいく。
塔子は玄関ポーチでしばらくためらったが、柊一に続くことにした。そっと足を踏みこめば、木床がキシキシと鳴る。音を立てないように細心の注意を払って進んだ。心臓が痛いほど鳴っていた。
階段をのぼり、二階の角部屋の前で彼は立ち止まった。ちらりとこちらを見やると、無駄のない所作でドアをノックする。どうぞ、と落ち着いた声が部屋からかかり、塔子は青ざめた。
深呼吸をして、柊一に続き、おそるおそる部屋に足を踏み入れる。
書斎机と安楽椅子が据えられた、ごく小さな執務室だった。奥の壁の上半分が窓になっており、薄紅色の空とアカマツ林が一望できる。そのせいか、不思議と開放感のある部屋だった。
いまその部屋にいるのは、一人の男子生徒だ。外を眺めているので、こちらからは後姿しか見えない。しかし塔子にはそれが誰であるか、もちろんわかっていた。
「連れてきました」
柊一が静かに声をかける。
「ああ、来たね」。部屋の主はゆっくりと振りかえった。
「いらっしゃい、篠崎さん。待っていたよ」
緑風会執行部会長、
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