3 アリバイ(1)
塔子らが体育棟へ向かったのは、緑風会執行部による定例の部室点検のためである。
「おじゃましまあす」
「じゃ、ないだろ。部員のくせに」
良司のほがらかなあいさつに、すかさず上級生――陸上部部長の
塔子らは杉野と共に、部室棟にある陸上部部室までやって来ていた。
彼が良司に声をかけてしまったがために、一番目の部室点検は陸上部に決まってしまったのだ。
「あー、声かけるんじゃなかった。今日だなんて聞いてないし」
良司が眉をあげる。
「そりゃ言わないですよ」
杉野は思いきり渋面をつくった。肩をすくめ、しかししぶしぶと良司、柊一、塔子を部室に迎え入れる。
拒むことはしない。
それが義務だからである。
部室棟は、体育棟敷地内のちょうど中央に位置している。
二階建てで、長方形の箱を横に寝かせたようなシンプルな近代建築だ。しかし外壁はレンガを使用しており、緑の学園に佇むにふわさしい外観をしている。
そこにはマシンジム、シャワールーム、更衣室、休憩ラウンジ、用具倉庫、そして運動部の部室があるが、どの部屋も広く真新しかった。
各部室は白い内装で、グラウンドが見渡せるブラインド付きの採光窓がある。ゆとりのある個人ロッカーが両壁に据えられ、中央に大机があり、洗面台も完備している。一介の高校生が使うにしては、ぜいたくな造りになっていた。
塔子はこわごわと、良司と柊一は平然と部屋に入る。
陸上部の部室は、汗と埃のにおいがした。
備品や用具が床に、衣類や食べ物が机やロッカーに散乱し、雑然としている。せっかくの真新しい部室も台無しといったところだった。
柊一が眉をひそめ、黙ってバインダーをめくる。やがて陸上部の予算書を開くと、杉野に向き直った。
「それで――
「ああ……」
杉野が息をつく。
彼は何度か良司を見やり、また大きくため息をついた。いやいやながら窓際のソファに歩を進める。そして、その白い座面の上に放られたA4ノートをひっつかんだ。
無言で柊一にさしだす。
新品同様にきれいなノートだった。受け取った柊一がぱらぱらとめくる。
「げ」
いちばんにつぶやいたのは、柊一でなく良司だった。柊一の手元をまじまじとのぞきこんでいる。
「先輩、これ……今年度の出納帳ですよね?」
杉野がうっと詰まる。
「……昨年度のですか」
無言。
出納帳とは、その年一年の入出金を記載する台帳のことだ。たとえるならば、いわゆる、家計簿のようなものである。
各部の部費の一部には、部員たちが自由に使ってよい準備金がある。こまごまとした消耗品等を購入するための、小規模な資金だ。
それを部員は自由に管理できるのだが、いったいその資金を何に、いくら使ったのかを出納帳に記録しなければならない。購入のたびに、その支払日・支払金額・内容の記録と、
もし収入があった場合には、その旨も記載する必要がある。
柊一の手元のノート――昨年度の陸上部出納帳は、ほぼ白紙の状態だった。
四行ほど、申し訳程度に物品の購入履歴が書いてあるだけだ。
一年間で、これだけしか購入していないはずがない。かつ、柊一が手にするバインダーの書類の一枚――陸上部の昨年度の支出報告書――の報告金額と、それは大きく異なっている。
「部室点検する以前の問題だ」
柊一がぴしゃりと言って、予算書に赤を入れる。マイナス評価。
杉野が頭を抱えた。
「……だからさあ、坂本。……身内を売るような真似しやがって……」
ええー、と良司が思いきり口の端をさげる。
つまるところ、部室点検とは
四月最終日に、生徒総会が迫っている。
緑風会執行部が、今年度のクラブ活動予算案をまとめあげ、生徒総会で全校生徒から予算執行の最終承認を取り付けなくてはならない。
承認後は、この予算に
執行部はこの予算案を、各クラブから提出される今年度の予算申請書、昨年度のクラブの活動実績、収支報告をもとに作成する。
各クラブの活動実績はすぐに確認できるが、予算申請書は、その申請金額が本当に妥当なのかを一考する必要がある。
収支報告についても、あいまいな記載があったり、ひどい場合には虚偽の報告があるため、それが正しいのかをたしかめなければならない。
そのために、執行部による部室点検をおこなう。
実際にクラブの部室や活動場所に
部活動が健全に実施されているか、予算申請額がその活動ぶりに見合っているか、購入予定の備品や消耗品の数量や内容が妥当であるか――執行部がまとめた仮予算案をもとに、さまざまな視点で点検・確認をする。
その情報をもとに、執行部が予算額を再調整し、最終予算案をつくりあげるのだ。
ちなみに、五月下旬には、二回目の生徒総会――昨年度のクラブ決算報告――もまちかまえている。その際にも、今回の部室点検の情報はなくてはならないものだった。
「あー、やっちまった」
部室を出て、良司がぼりぼりと頭を掻く。
陸上部はいま、めきめきと急成長しているクラブのひとつである。良司をはじめとする実力ある
部活動の活気は満点。それに品行方正だ。
購入を希望する備品類についても内容に問題はなく、したがって予算も妥当な金額を申請している。
これならば、陸上部は申請額を全額もぎとれたはずだった。
――出納帳の不備がなければ。
「毎回、たった数行記帳するだけだろう。なぜやらないのか理解できない」
柊一が眉間にしわを寄せる。
「ほんと、こんなので予算減額なんてバカらしすぎる……」
良司が大きくため息をついた。
「あの出納帳、今年度のものだと思ってたんだよなあ。次は絶対ちゃんとしないと……」
これには塔子もわずかにうなずいた。
せっかく良い活動をしているのだから、今回のことは本当にもったいないと思う。
「…………会計係を立てるのもいいのかも」
つぶやくと、良司は深々と首肯した。
「そうだね、提案してみよ。……言い出しっぺがやることになりそうだけど……」
ぶつぶつと会話しながら部室棟の廊下を歩く。
徐々に見物人があつまってきた。部室点検がはじまったことを聞きつけたのだろう、さまざまな体育着やユニホームに身を包んだ生徒たちが、廊下に立ち、あるいは各部室から顔をだしている。
たくさんの好奇の目にさらされて、塔子はじわじわと頬を熱くした。柊一、良司は慣れたものだろうが、塔子は人目をひくことにとても抵抗がある。
――けれど、この部室点検とは、そのように注目されることも目的のひとつだった。執行部に入りたての新入生は、いかんせん知名度が低い。だからこそ新入生が点検をおこなうことで、全校生徒に名を売り、執行部役員であることを認知してもらうのだ。
もっとも、柊一、良司はすでに有名人で、このねらいはすでに達成されていた。
数歩歩けば、柊一の姿に女子が賛嘆のため息をつき、良司へは、ほうぼうから気安い軽口がかけられるからだ。
彼らのあいだに挟まれて歩く塔子は、それだけでもう身の置きどころがないほどだった。
「ね、とーこさん。つぎはどこいきたい?」
塔子の心境などつゆ知らず、良司が優しくわらいかける。
「あ、えっと」
思わず柊一を見れば、だまってこちらに向いている。つぎに行く先はとくに決めていないらしい。なにも言わず塔子の返答を待っている。
「ええと……」。顔を赤くしながら塔子は考え、そして目をあげた。
「…………柔道部、かな」
執行部三年・
「そうこなくちゃ」
良司がにんまりと笑む。
「この先だ」
柊一が淡々と奥の部室を指さす。
塔子はほっとして、わずかに頬を緩めた。
廊下に居並び、執行部三人組を注視する生徒たち。
彼らの視線が、やがて三人から、中央にいるただひとりにあつまりはじめていた。
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