7 雪の女王(5)
――悪魔がつくった鏡の破片が、あるひとりの少年の目と心臓に刺さった。
すると少年は幸福を忘れ、ゆがんだ心根を持つようになった。
やがて彼は雪の女王に連れ去られ、雪の城で過ごすようになった。心は冷え切ってこおりつき、感情をなくし、彼の瞳は何も写さなくなった。少年は城のなかで、ただ孤独に氷の欠片を組み合わせて遊んでいた。
つめたい鏡の破片が目と心臓に刺さったまま、溶かせないまま、雪の女王のひざ元で、ずっと――。
“雪の女王”を語ることで、史信は柊一をからかいたかったのだろうか。亡き母の存在さえ暗に物語に含ませて――そんなからかいは、許されるのだろうか。
塔子は激しい怒りを感じた。そんな感情を抱くことは、いままでにあまりないことだった。
池を見つめる柊一の横顔は、ただ無表情で、感情をあらわにしない。
――たしかに、柊一は感情が豊かな方ではない。つめたい印象を相手に与える。実際に、人をつよく突き放すときがある。六歳で直面した母親の死が――いまもずっと、影を差しているからかもしれない。
けれど、それらを童話に込めて、本人の前で茶化して話すなんて、そんなおぞましい行為は許せることじゃない。
塔子はぎゅっとこぶしを握りこんだ。
瀬戸先輩は何かを知っているみたい?
――そんなことはない。
「もし、瀬戸先輩が、なにかを知っていたとしても――」
唐突に切り出した塔子を、柊一は驚いて見つめた。
「鷹宮くんは、気にしなくていい、と思う」
塔子は小さく、けれどはっきりと口にした。
人の触れられたくない過去について、面白おかしく話題にし、柊一をむやみに傷つけるひとの言葉に耳を貸す必要はない。
そう思った。塔子がこんなにきっぱりとそう思うのは、はじめてのことだった。
自分のことを傷つけられると、いつも悩んで、くよくよとしてしまう塔子だ。けれど、第三者として、傷つけられた他者を見ると、はっきりとわかることがある。今回がそうだった。
柊一はすこし黙った。
「……気にしなくていい、か」
静かにつぶやく。
塔子は間を置いて、ゆっくりとうなずいた。
五月の空は水色だ。池の上にぽっかりと青空がひろがっている。
「母が死んだあと――」
柊一が小さく言葉を繋ぐ。
「父はすぐに再婚した。再婚相手は、母が存命のときから、すでに関係のあった女だった。やがて
柊一が池を見つめる。
「父を見ていると、おれだけなんじゃないか、と思ってしまう。母が死んだその日から、何かが変わったような気がするのは。それを感じているのはおれだけなんじゃないか、と……」
”まだうまくいっていないの、お父さんと“
緑の館で、史信が柊一に投げかけた言葉が思い出される。
柊一と彼の父親の関係にも、亡き母の影が差している。
塔子は胸の底がひりつくような心持ちがした。
「……ごめん、話しすぎた」
柊一が顔を背ける。
塔子は首をふった。
小鳥のさえずりと、水の音がする。
塔子はくちびるを嚙んだ。
となりの柊一は、ごく淡々と事実を述べている。こうして、過去を客観的に伝えることができるようになるまでに、彼はいったいどれくらいの時間がかかったのだろうか。
――そんな彼に、わたしはどう応えればいいのだろう。
なぐさめの言葉、励ましの言葉。どれもまったくそぐわないような気がした。彼の抱えてきた年月を、たった一言や二言でかばいきれるはずがないのだ。
風が吹き、池の水面に細かなさざなみが立つ。
塔子の脳裏にありありと思い浮かぶ。母の土産にと桜貝をひろい、それを見せに行った柊一の姿が。――そして、つめたくなった母に触れる柊一の姿が。
胸がぎゅっと、絞り上げるようにしめつけられる。
「わたし、ね」
とても小さな声で、塔子は切り出した。
柊一が、こちらを向く。
「……ここに来るまで、お母さんと、ふたり暮らしだったの」
池をじっと見つめるのは、今度は塔子だった。
「お父さんは……離婚して、出て行った。小学校に上がる前だった。また会いに来るよって言ったきり。それきりだった」
沈黙が流れる。塔子は頬を赤らめた。
「ごめん。何が言いたいのかっていうと……」
言葉がうまく続かない。思わずうつむいた。
「……今日まで一緒だった大切なひとが、明日にはいなくなる――。その気持ち……それがわかったときの気持ち。それは、わかる」
くちびるを結び、そしてまた口をひらく。
「わかると、思うの」
柊一がこちらを見つめる。
塔子は顔をあげることはできなかった。
――だれかをうしなうということ。
うしなうことの、
その感情なら、塔子も知っている。
塔子は足元の、さざなみが立つ水面を、じっと見つめた。耳まで赤くなっていた。
「……そうか」
柊一がふと、そう返した。
腑に落ちたような、しずかな、落ち着いた声だった。
深い沈黙が降りた。
小鳥のさえずりが響いている。
「ご、ごめんね」
塔子は思いきって柊一を見上げた。
「自分の話をして。気の利いたこと、なにも言えなくて」
柊一とまともに目が合う。
彼の顔つきは、感情のない彫像のようではなかったので、塔子はすこし驚いた。
それどころか、いままで見た彼のどの表情よりも、柔らかい。
こちらを見つめ、柊一はゆっくりと首をふった。
「いいんだ」
しずかに塔子に答えた。
午後の陽光は明るく降り注ぎ、池の水面をきらめかせている。
柊一は、ゆっくりと息を吐いた。
さざなみに反射する光をまぶしそうに見る。
「……篠崎さんと初めて出会ったとき」
こちらを遠慮がちに見る。
「じつは、驚いた。……母に、よく似ていたから」
「え?」
塔子はびっくりして、柊一を見つめた。
初めて出会ったときを思い出す。柊一は、中央広場でクスノキの近くにいた塔子に声をかけてきたのだ。――たしかに、とても
――幽霊でも見たかのような。
「容姿が似ているというわけじゃないんだ。……雰囲気が、
柊一が足元の砂地を蹴る。
とても言いにくそうに、それでも言葉をつなぐ。
「複雑な気持ちだった。だから、最初は篠崎さんにつめたい態度を取っていたかもしれない」
すこしの間があり、今度はずいぶんと小さな声で、柊一は口にした。
「ごめん」
塔子は柊一の告白に心底驚いたが、首をふった。
「……鷹宮くん」
「でも」
ふたりの声が重なる。
一拍の間があり、塔子と柊一は目を見合わせた。
柊一の視線はひたむきだった。
「――でも、もうそんなこと、思わないから」
塔子の瞳をとらえて、柊一は真摯に言いつのった。
「もう、間違えたりしない」
吹き渡る風は澄んだ水の匂いを運び、ふたりを柔らかく包みこむと、やがて林へと駆け去っていく。
*
鷺沢池からの帰り際、林道を抜けたところで、塔子はあたりを見回した。
「どうした?」
柊一がたずね、塔子はふりむく。
「このあたりに、たしか今井先輩の言っていた小道が……」
「小道?」
それはすぐに見つかった。
林のなかにぽつんと並んで立つ二本の木の杭が目に入る。そこに標識ロープが繋がれていた。
中央に看板がかかっている。
『立入禁止』
と書かれている。
「ああ」
柊一はうなずいた。
茶会のときに、
塔子はそっと杭の先の小道をのぞきこんだ。
「すごく暗い……」
妙な感じがする。のどかな午後だというのに、なぜかその小道だけ、異様に暗い。入口も暗いが、道の奥ほど闇は濃くなっている。まるで林のなかに突如現れたブラックホールのようだ。
塔子は杭から身を乗り出し、よく周囲を観察した。隙間なく生える樹木に、頭上を覆う枝葉。そのひとつひとつをゆっくりと見回して、塔子は合点がいった。
「光が射さない道なんだ……」
どうやらこの道は長い間、間伐や手入れをしないまま放置されたことで、局所的に樹木が密生してしまったらしい。その樹木が枝葉を広げ、小道全体をトンネル状に覆い隠してしまったのだ。一部の隙なく生い茂った葉が外光を全く通さないことで、闇が生まれたのだろう。
「ここで、生徒が……」
辺りを見回していた柊一が、ぽつりとつぶやいた。
――生徒が一人、死んでるからさ。
この暗い小道を進んでいった生徒がひとり、過去に亡くなっていると彼は言った。
――この小道の先に崖があってね。足を踏み外して、まっさかさまだったそうだ。遺体を運び上げるのも苦労したらしい。
ぞ、と塔子の首筋が粟立った。
小道の奥から運ばれてきた風が肌を打つ。ひんやりと冷たい風が吹いている。
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